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自分がすでに持っている力

自分が、自分のことを嫌ってしまうとき。

何かが「イヤ」で「気にくわない」んだよね。

 

鬱の脳みその人はとくに、暗い回路しか思考の通り道が開いてないから、

なおさら、悪いことしか思いつかない。

 

そこまでではなくても、気持ちが暗いと、やはり

考えれば考えるほど、マイナスのことしか予想・予測できなくて……。

 

じゃあさ。

その予測、どうして「そうなるに違いない」ということが

すでに、決まってるんだろう?

 

あなたは未来を決定できる神さまではないのに、

なぜ、それが「正しい予想」だと、断言できるんだろう。

 

不確定な未来を、わざわざ悪いことしか起こらない、と決めつけ、

しかもそれを「信じよう」としているよね、あなたが。

 

つまりその段階ですでに、あなたは何かを信じてる。

ある方向のことを信じられる「力」が、まさに今、

自分の内側に存在してるってことだよね。

 

また、どうなるか分からない、というあやふやさを

「不安」に感じる場合でも、

そもそも今まで、あなたの人生は予測できることしか

起こらなかったのかな、と思う。

 

毎日、学校に通う学生時代であっても、予想外のこと、

驚くことやサプライズなこと、逆に悲しいことは、何も起こらなかった?

行動範囲も時間も区切られていて、ただ授業を受ける、

そんな、まさに「時間割」さえ存在していたときだって、

あなたの日々に、予測できることしか起こらなかった、ということは

……まず、普通に通学していたらあり得ないよね。

 

今は、何らかの事情から、たとえ自分からガンガンとは

動き出せない状況であったとしても。

平凡に思える毎日にだって、小さくても予想外の変化は

起こっているはずなのだ。

 

季節は変わり、風が流れて、毎日天候が変化する。

あなたの予想と関係のない変化は

毎日起こっていて、天気ひとつとっても、

ふと、風が気持ちいいと思ったり、雨が寂しく感じられたり。

 

そうしたことを、すべて無視して、自分の小さな頭で

予測できる「悪いことだけ見よう」としている、

それを選んでいるのはまさにあなたであって。

つまりあなたには、そうやって選ぶ力が

すでに備わっているってことだよね。

 

大したことが起こらない、だからつまらない。

うん、そう受け止めることを選んでるよね。 

誰かとうまくいかない、だから私はダメな人間である。

うん、そうやって短絡的に物事を悪い自己評価につなげるほうの思考を、

あなたが、自分で、選んでる。

 

あるいは、私はこれしか欲しくないのに! と、ひとつの欲に集中し、

それが叶えられないからと自分を卑下するのも、

視野を限定してそこしか見ず、それにしか力を注がず、

そのことだけで成果を捉え、一喜一憂する。

それをすべて、あなたが、選んでやっている。

つまりあなたはすでにそれを「選べて」いる。

 

あなたのそうした「選べる」能力は、これからも別に、消えない。

じゃあもっと、自分のこと、嫌わない方向を選ぶことも、

可能なのでは?

 

何かを得ないとダメだとかいうなら、

それをたとえ得たとしても、また次にもし、失ってしまったら

途端にあなたは、ダメ人間に逆戻りするのかな。

つまりそれって、自分のことをダメ人間と思う方向を、

あなたが自分でまたすぐ選ぶ……んだよね。

 

ではそもそも、なぜ、あなたは

そんなことに執着しなくちゃいけないんだろう。

そう決めたのは、誰だろう。いつからなぜ、決めたんだろう。

それしか幸せに「なれない」と思い込んでるのは、なぜだろう。

 

自分がすでに今、できていることには目を向けず、

できてないもの、足りないものばかりに視野を限定したり、さ。

それってまさに、自分で自分を不幸せにすることばかり、

選んでるってことだよね。

 

せっかく備わっている力を使って、自分を不幸せにし続ける。

それがまんまと今、できている、成功しているわけだから、

この「今」の時点で、逆の視点、逆の方向にその力を使えば、

あなたは幸せを感じとることも、本当なら、できるんだよ?

 

え? 周囲の状況が不幸? 自分の状況が不幸?

それがあなたを振り回すから幸せじゃない?

 

うん、じゃあ、他人に自分の視野の幅を預けたり

他人に幸せを決めてもらう、自分の体調や環境だけに気分を

お任せしたい、という発想を、そもそも、やめればいい。

 

あなたの「幸せ基準」のもととなる価値観は、

あなただけのものであっていいのに、

周囲の人に何か基準を合わせなくちゃ、

または周囲の人から「もらわなくちゃいけない」と

決めつけていること自体を、やめたらいいのだ。

 

自分を不幸にする力は、すでにあなたには備わっている。

それを痛感する人ほど、自分を自分で変えていける力が

すでにある、ということだ。

 

まあね、自分の不幸を全部、他人やその他「自分以外のものごと」のせいにして

ひたすら怒っている人なら、そもそも私のこの話は、

意味がわからないはず。

 

だってさ、誰か、何かのせいにしちゃえぱ、楽だもの。

自分からは、自分のために何もしなくてよくて、

ずっと不平不満だけ、言ってればいいのだから。

 

それもまた、そうやって自分を不幸にするほうを選んでいる、と

言えるけど、やりたくないことは、できないよね。

 

だから私も無理は言わない。

ただ、あなたが「すでにすごい自力を、立派に発揮できている」ことだけ、

お伝えしておくよ。

 

あなたには、力があって、

「幸せを感じる視野」へも、必ず自分を向けられる。

だってあなたはもう今、それほど素晴らしい力を、発揮できているのだから。

 

2014_11_10_1Photo by ぱくたそ

 

思い遣る、ときの自重

前回とは違い、今日は自分の言葉でも綴るけれど、

まずは再び、他の方の記事を紹介することから

話を始めてみたい。

 

昨日の、武田双雲さんの、連続的で短い記事を3本。

私が読んだときは最初の2つがアップされていて、

それらを読んでふと、疑問に思ったことを

ご質問としてコメント欄に書いたら、それに呼応する形で

のちに3つめの記事を上げてくださった。ありがたい……。

 

そしてその内容を読み、双雲さんが、自分と同じように

感じてくださっていることは心強いな、と思えた。

 

◎武田双雲「書の力」

『自分ベクトルを相手ベクトルへ。』
http://ow.ly/3tYsSm

『ストリート書道時代に起きたパラダイムシフトの話。』
http://ow.ly/3tYt31

『相手のために。のあやうさ。』
http://ow.ly/3tYtD5

 

これらを読んでもらえたら、わかると思う。

「思い遣りとは、相手を自分の気が済む方向へ

コントロールするために発動させるものではない」

ということを。

 

そういう意図でやるのなら、それは実は、

ある種の欲望、あるいは、一方的なしつけ……躾である。

 

この「躾」って漢字もすごいよね。

本来は所作、振る舞いの美しさ、を求めるところから

きているのだろうけど、身を美しく、だよ。うーん、深い。

 

で、まあ、わかりやすく、たとえば自分の子どもに対して、

このしつけ、の範囲で指導することはもちろんあるだろう。

で、たまに、しつけをはるかに超えて

「自分にとって都合のよい人間となるよう子どもをコントロールする」

という人もいるだろう。

 

あ、もちろんご本人にとって、それは「しつけ」の範疇内なんだよ。

でも偏った価値観の押し付けや、もっと極端な場合、

自分への絶対的服従を求めての行動だったり。

 

そこまでいかなくても、こういう人間になったほうが

世間様に嫌われないで済むわよ、というある種の「怯え」だったり

逆に「世間を牛耳るようにならなくてどうする!?」という

自分の願望が、くっついたりする……。

 

ねえ、フラットにいこうよ。

「その子自身の選択余地」も残してあげようよ。

その子にだって「やがて気づいていく力」は

必ず内包されてて、それはまた、すごく大切な

学びとなるかもしれないよ? そこは気づいているはず、だよね?

 

なのに、その内包力を無視して先回りして、学びの機会を奪いながら

全部、転ばないように、手助けという名の「手出し」をして……。

 

そういう側面が加速すると、究極的には「私の作品です」なんて言葉で、

子どもを一生、隷属させちゃうんだぜー?

って、あ、過激ですか?(^◇^;)すみません、

究極ではなかったけど、過去の記憶が私の表現を左右したかも(笑)

 

とはいえ、これはあくまで、親子という関係性における、

とある可能性の話です。

なのでもし、ご気分を悪くされた方がいたらゴメンなさい

(また願わくば「なぜ私はムッとしたのか」を捉えてみてほしいと祈る)。

 

で。

双雲さんもおっしゃっているが、

これをさらに人間関係全般に広げて考えた場合、

自分ベクトル……つまり、自分への見返りを期待したら、

それはもはや「最初から」相手のためでなく

ただの計算ずく、自分のためにやっているのだと。

「情けは人のためならず」を、ハナから計算ずくで

やってしまうのは、ただの「ズル」なのですよ。

 

たとえば。

相手に、自分のことを○○と思ってほしいから、

自分がもっと気に入られたいから、

立派と思ってもらいたいから、

そういう「点数稼ぎ」方面であったり。

 

また、あなたは間違っていて私は「正しい」から、

それに気づかせてあげなきゃ、なら

要は「私が正しい、素晴らしいって、あなたが誉めてよ!」を

求めていたり……も、するかもしれないのだ。

 

それ、自分が「されたら」どう思う?

そういう匂いをプンプンさせて、相手が

「思い遣り」のワザ、出してきたら?

 

普通は「ウゼェ、コイツ」と思うよね(^^;)

乱暴な言葉でゴメンね、でもそういうふうに

「荒く拒否したくなる」感じ、ていねいに対応してあげたりなど

したくない感覚を覚えるだろうから、使ってみる。

 

要はね「計算するな」ってことです。

計算するくらいなら、自分がやりたいからやる、って

見返りを「期待せずに」やるほうがマシ。

そしてやるなら、手助けの範囲に留める。

そういう意味での「手出し」まではしない。

 

手出しするってことは、すなわち、あなたが相手の力を

信じていないからやるわけで、また、あなたが信じていないことは

相手にも伝わってしまうのだから。

 

あえてもう一度、言ってみる。

相手にも感じ取る力は備わっている。

だから、なんとかしてあげよう、なんてことをあなたが思ったら、

相手のほうも、この人は自分の未来の力を

信じてくれない人なんだな、と、やがては気づくのだ。

 

で、思い遣りを押し付けまくってくる、そんな人のことを、

相手がウザイと思うのは、ある意味、当たり前じゃないかな?

するとその時点で信頼関係、難しくならないかな?

 

自分がやられてイヤなことは、やっぱり他人にしちゃいけない、

基本はそこなのだと思う。

思い遣り、出していくなら押し付けない、

出してるふりして求めちゃいけない、なのだ。

 

もちろん自戒も含めてるよ。

つまりこうしたことに留意して、

それでも声をかけたくなったら「私がそうしたいから」と意識する。

 

そうすれば少なくとも「こんなにやってるのに」というような

「やってあげてる恩」は、相手に押し付けないで済むと思うし、

逆にね、相手のほうが駆け引きの道具として使いたがる、

つまり、相手がたとえ

GIVE! GIVE! GIVE me! GIVE GIVE!

という「バキュームオンリー」な方であっても

(自分は与えず、受け取るほうばかり要求するってことね)、

わりとスムーズに、自分がやれる、やりたいところまでやったら

スッと距離を置けると思えるのです。

 

その要求(たぶん承認要求)は、相手の問題であって、

あなたが解決すべきではないこと、かもしれないから。

たとえそれが、身内であったとしてもね。

 

他者の役に立ちたい、と、他者に影響力を及ぼしたい、は

けっこう、紙一重なのだと。

そういう自重をしていけば、状況や自分の気持ちを俯瞰できて、

そこから気づけることもたくさんあるのでは、と思える次第。

 

前に、あなたが自分からいろいろな花になってもいいんだよ、と言ったけど、

それは相手も同じなのだから。

相手にもいろいろな花になる力が備わっているから。

 

そして少なくともあなたは、ホラー映画に出てくるような

「食人植物」になりたいわけではなく、

ただ美しく咲いてみたい、のだろうから。

 

2014_11_09

Photo by ぱくたそ

上の写真で言うなら、この花の一つひとつがあなたであり

また、相手でもある。

どんなふうにも咲ける、その力を、

あなたも相手も「すでに」秘めているのだ。

 

だからこそ。

相手を思い遣るがゆえの自重を、

私は本気で大切にしたいと思っています。

 

 

状況、信頼、自分の気持ち……

ここで私がふだん、お伝えしている方向のことを

よりすばらしく、力強く、

さらに他の気づきやポイントも交えながら

伝えておられるな、と思える記事を、

今日はいくつかご紹介。

 

私の言葉では心に響かなくても

この方々の言葉なら響く人もいるかと思い、

感謝と敬意をこめて

リンクを張らせていただきます。

 

まずは、今の「有り」「難さ」。

◎衛藤信之さん
『幸せの練習帳。』
http://amba.to/1ttZc4N

 

次に、他者を信じること、の話。

◎武田双雲さん
『信じる✕見守る。』
http://amba.to/1yOVfJR

 

そして逆に、イヤなことや、イヤな人について

考えてしまうときの話。

◎スピリチュアルティーチャー癒羽さん
『被害者意識を捨てる』
http://amba.to/10NjixN

『被害者意識を捨てる2』
http://amba.to/1xRFOPR

 

2014_11_03

必要な方へ、必要な言葉が、届きますように。