カテゴリー別アーカイブ: 見春屋について

私にとっては( ̄□ ̄;)!! だった質問

とある方との会話。

まったく悪気なく、悪意もなく、素朴な疑問として尋ねられた。

 

「そんなさ、暗い人にばかり延々話しかけて、

わざわざ知らない人の超苦しそうな話を聞いて

(あ、見春屋でのご相談内容を他言したわけではありません。

私が今まで、お話を受けてきたものについては

お客様の体験談とか、わざと書いていなくて。

それは重たくて深いご経験ゆえのご相談と気づき、

その結果、の話だから、

今のところ、いただけたご感想を

私自身が、記事という形にする気がとくにない……

みたいなことを言葉にしただけ)。

それ、面倒くさくはないの?」

 

オウッ∑ヾ( ̄0 ̄;ノ !!

周囲には、私のやっていることって、そう見えるの?

その質問自体が自分にとっては斬新で、驚いた。

 

いや、あの、これ、私がやりたいと思ったからやってて、

私にとってはそもそも、面倒くさいとかいう種類のものではなくて。

 

少なくとも読まれた方のなかで

「何らかの策が『私にも』あるかもしれないから

自分で死を選ぶのは、まだもうちょっと先にしようかな」

と思ってくださった方、

それをわざわざご丁寧に伝えてくださった方もいて。

この活動って、私にとって『生かされた』ことへの恩返しでもあって、

なのにそう言っていただけたのが本当にありがたくて、ゴニョゴニョゴニョ。

 

はい、うまく言葉にはできませんでした、

自分の「話しかけたい」衝動について。

 

理屈じゃなかったんだもの。

苦しい方への話しかけ、自分でまずやってみたら? 

という示唆をいただけて、

それもそうか、と感じた、あのときの「感覚」。

 

自分が生かされたのだから、という「感覚」、

私にも何か、少しは協力できることがあるのかも、と思った「感覚」。

 

アタマでは整理しなかったし、整理する必要もなくて。

衝動、というか、深いところから湧いてきた「感覚」だったので、

あとは勇気を出して、それに従ってみることにしただけだった。

 

そして、

『自死を考える人に勝手に話しかけるブログ』ということを決めたら、

ブログのタイトルは速攻でこんなの(笑)ヒラめくわ、

ペンネームは宇宙にお願いしてみたら1週間後に降りてくるわ……。

ええ、マジ、夢の中で、漢字付きで登場したのですよ、あるお昼寝タイムに。

『きのもとみはる』ですっ! って夢の中で自分が(なぜか)叫んだ瞬間、

『木元見春』という漢字が思い浮かんで、

直後に目が覚めたという、怪しさ大爆発状態……。

 

で、もうなんだか、本当に逃げようがなくなりました、くらいの

気持ちで、文章書きが始まった。

 

そうか、これが面倒くさいとかいうふうになる人もいるわね、当然。

わざわざ、関わる必要がないと感じる人もいるであろう。

 

えーと、そういう意味では、好きでやってます。

義務感ではありません、やりたくてやってます。

 

その方には、とくに突っ込まれもせず、そこで話は終わったけれど、

「変なヤツ」と思う人もいるのかもしれない。

身内には近いこと(笑)言われたな、変わってる、と(^^;)

 

うん、だったらそういう意味では変人? 

そうかもしれない。

でもこの、

私の深いところからの衝動を指して「変人」と呼ばれるのであれば、

私にとってその「変人」は、とてもステキな称号です、ありがとう(笑)

 

……というふうに、感じている私がいます、ブログも「見春屋」も。

 

以上、たわいもない話のご拝読、ありがとうございましたm(_ _)m☆

 

2016_05_30

Illustration by PeteLinforth
Pixabay

 

自身のことを……

もう一つ、抽象論にて、表明させてください。

 

どこまで率直に、

そうであろう 

と、心掛けるか。

 

何かを認めてもらうために、ではなく。

自分が、自分を、落ち着かせ、

肚をくくる覚悟を『続ける』ために、

自身で心掛ける。

 

ただ、それだけのために

「私はこうである」ことにする、と

決意表明する。

 

こうなろう、でもない。

そんな夢を語る時期が必要なときも

確かにあったけれど、

もう、そうすることに決める! と

思えたときには

「私は、こうである」という表現で

世界に向かって宣言するしかなくなるのだ。

 

それは、切羽詰まってのことでもない。

他者から何を思われようと

貫き通す覚悟を決めれば、

自然にそういう決意の形になるのだと、

今朝、気づいた。

 

焦るつもりもないし、

奢り高ぶるつもりもない。

これから何が起ころうと、

「私はこうである」という姿勢を、

貫きたいのだ、私が、何よりも。

 

具体的にどうするか、ではなく、

自分がどうあるか、から、

次のステップが見つかり始める。

このことを、私はここ数年間で

たくさん見せてもらい、教えてもらえたのだ。

 

だから今度は、私が、やってみる番である。

 

そんな気持ちから、早朝に書いた

「私は大樹」の意思表明が生まれた。

 

私は、柳には、なれないのです。

ボッキリと折れたことで、それには気づいた。

でも、もうあの折れ方をしないでも済む、

自分にも出会えた。

 

自分に、嘘をつきたくない。

そして、もう私は、二度と自死も「選べ」ない。

 

自死をあきらめてから、結局は

この2つを、自分自身に叩き込む練習をしてきて、

その結果、生まれた「在り方」なのだ。

 

自分自身に嘘をつかなければ、

折れようはないんだな、という納得感を

得られたことは、とても大きかった。

 

そしてまた、このようなブログを始めて、

そこで得たもの、経験した物事、

他の方の記事等から、出会いから、

得られたもの。

 

もろもろを通じ、導かれて、

これでいいのだ、と思えるようになったことが

本当にありがたい。

 

ゆえに、もう一度、書く。

私は、春の初めを纏う大樹である。

その道を、最後まで歩いて行く。

 

2016_04_14_2

Photo by AllAnd
Pixabay

 

お役目

私は言の葉を 広げている大樹

春の初めを纏う大樹

 

私のもとに来られ 休まれるかどうかは その方の自由

 

私は訪れた方に

ひとときの 休息場所を提供し

その方が己の春を迎えられる

準備の時間を ともにする

 

小さな春を 自力で見つけた方は

私の元を離れ 更なる自己の旅へ向かわれる

必ず 再び 自力で 歩き出される

 

私は言の葉を広げ

その方の「見つける力」を ただ 信じる

そうした自己の役目を

果たすべく佇む 一本の大樹

 

そのための整いを 怠らないようにしよう

言の葉を丁寧に扱い 広げ続けよう

その方自身の 春を見つける力の蓄えを

それぞれの言の葉が きっと手伝うだろうから

 

光を 木漏れ日から 再び

それが私の お役目である

 

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Photo by Hans
Pixabay