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恐怖心を大事にするか、愛を大事にするか

生きていく時間の「過ごし方」としての、タイトルの話。

 

まず自分に対して、『次に』(そのあと)さらに、他者に対しても、

恐いから、イヤだからやるのか(やらないのか)、

うれしくなれるから、心が温まるから、やってみるのか。

 

どちらの「理由」から物事を見て、選択して、動くか。

思い切り単純化して捉えてみたら、

結局は、そこなんだよね。

 

しかも、自分にだけ愛を、でもなく、

他者にだけ(自分を認めてほしいから)愛を、でもなくて。

 

そこを実際にやれるかどうか、に必要なのは、

別のものを選択してみる「勇気」なのだと思います。

練習してみてから、やっと初めて、自信も確信も、付いてくる。

 

ということで。

表現を追求され続けている陶彩画家、

草場一壽さんのFacebook記事と、

もう一つ、このことにまつわる話だと感じた記事を、

シェアしてみます。

 

焦らなくてもいい。でも『自分が』選ぶ、選んでいいことを、

どうか、忘れないで。

逃げるというのは、自分を「消す」こととは同義語でないよ。

逃げるときさえ堂々と、自己を「消すことなく」逃げてよいのだから。

 

 

この話は全部で4つあるので、遡って読んでいただいてもいいかも。

ジム・キャリーって、素晴らしい哲学、持っているんだね。

 

そしてもう一つの記事。

『失明した妻の笑いが消えた後、夫は20年間土を掘りつづけた。
その色鮮やかな目標に日本中が感動した。』
http://www.imishin.jp/flower-garden/

 

 

失ったもの、無いものだけに目を向けて

「行けない」「出来ない」「無い」って毎日、つぶやき続け、

自分にとっての悪い面ばかりを、見つめながら生きる?

それとも、どうしたら新しい「喜び方」を見つけられるか、

自分から、模索してみる?

 

このご夫婦の生き方は、そういう選択肢の、ひとつの表れ。

恐れや恐怖心や不平、不足、不満ばかりを、自分の土台にするのか、

『自分を含めた』愛を土台にするのか、の話なのだと、

私には思える次第です。

 

そんなことすら考える余裕がないなら

そこまで疲れ果てているのだから、

まずは『ちゃんと本気で』休んでいいんだよ。

最後に、このご夫婦の話を教えてくれた、

沖縄出身のアメリカ在住ヒーラーさんに感謝。

 

2016_02_14

Photo by virandek, Sonnenstrahl
Pixabay

 

その因果関係、違うかも

まずは以前、思わず吹き出した話から。

ある飲食店の仕事をバックヤードで手伝っていたときのこと。

そこのお店はいつも流行っていて、忙しい。

店としてはでも、温かく清潔な雰囲気も重視していて、

仕事中はかなり皆がバタバタした感じにもなるのだが、

お客様の前ではテキパキ感や優雅さ、

見た目の清潔さなどがある程度、求められる。

働いている子たちは「忙しいほうがやりがいあるし」

というタイプ(そもそも、そういう人しか働きに来ない)。

で、そこで普通にがんばっているある男の子が、店長から

「その髪型はちょっとラフを通り越してぼさぼさに見えるから、

もっと何とかしろ」と注意されました、と。

そのときちょうどお店は混んでいて、彼は多少、テンパっていた。

で、バックヤードに戻ってきて「こんなにがんばってるのに

この程度で注意しやがって!」的な怒りを見せた(しかも

彼、髪型を含め、ルックスには自信があったらしい……)。

で、その店ではリーダー格であった友人と、

たまたまそれを聞いた私。

「あなたのがんばりと、お客様から清潔に見られるかどうか、との間に

どんな因果関係があるの? それに仕事はがんばるの、普通だよね?」

とバッサリ。男の子、ウッとなって口をつぐむ。

そして数週間後、やはり納得がいろいろいかなかったのか、

彼は辞めました、と。

も、自分の評価レベルが小学生かい? ということで、

かわいそうに、みんなの笑い話になったのだが。

結果と「その途中におけるがんばり」の因果関係が認められるのって

「お客様がものすごく無理を言って変更かけてきて

その結果、納期にズレが出ましたよ」とか、

急がされた結果どうしても、ある部分が間に合わなくて

「完璧な仕上がりにはなりませんよ」ということを

お客様に理解してもらっての納品、とか。

そういう「時間と内容レベル」のことを

「相手に理解してもらい得る」条件が揃っているときだと思う。

ましてや客商売における清潔感、という「見た目」なんて、

何も「がんばり」には関係しない。

あと、これも私が目撃したパターンだが、

頼まれた仕事を、効率も考えず「自分勝手に時間をかけてやる」のは

小学生の図画工作と同じレベルだったりする。

「でも、これでも、いいじゃないですか」

うん、そうだよ、誤りではない。

でもね、他にも仕事、いっぱいあるから。

カッター使うだけでそんな時間かかってたら、やっぱマズイと思うよ。

しかも美しさなんてまったく求められてないし、

あなたのそのやり方では、結局、美しく仕上がってないし(笑)

……そういう感覚って、不思議だな、と思うのである。

自分の「がんばり」と結果って、とくに仕事の面では

周囲が「おおっ!」って感じで「でき上がったもの」あるいは

「やり方そのもの」を認めるレベルじゃないと、

評価にはつながらない。

服装等の整えなんて、仕事の上では基本の前提なわけだし、

効率と結果の度合いも、必ず評価のうちに入る。

だからこそ、つまらない、と思える「やり方」が基本であっても

「がんばってる最中から自分『は』、その仕事での

楽しめる部分を見つける」ことも必要で、

そういう視点がないと、続けていけない。

創意工夫して「楽しく効率よく、

かつ素晴らしい出来具合」にしていく。

どうしても時間がかかっちゃうものなら、

そういうふうに見つめ直したりすることも、必要じゃないかと。

だって、その時間、その場所で、どうせそれをやるのは自分なんだから、

そのときに自分が楽しめなくちゃもったいない、と、思えるのである。

ええ、その部分で私は「非効率」にやったからこそ、壊れました(笑)

創意工夫の面では幸い、チャレンジするしかない状況だったから

逆に、大量さ、の部分は無視し、時間と自分を犠牲にして

のめりこみすぎた、とも言える(笑)

でも、たいへんさはありながら、自分が楽しかったことは事実。

そこは「チャレンジ」という視点を保たせてもらえる土俵で

ありがたかった、と、今でも思える。

ルーティン的なものでも、進め方や意志の伝達、表現における工夫の余地を、

いっぱい自分で見つけられたから。

さて、この話をさらに発展させますと。

仕事に限らず、がんばったんだから認めてよ、

こんなにやって「あげてるのに!」というのは

「相手への押し付け」であり「評価してちょうだい欲」だ。

あるいは逆に「どうせやったところで」という思いにも

その裏側には「評価してちょうだい欲」が、逆の意味で隠れている。

自分ががんばる、そのこと自体は「楽しんでいい」(ただし

自分を犠牲にするレベルになっては意味がない)、

そして楽しむ自分(あくまで「楽しむ」の部分ね)を

自身で認めてあげるのは、素晴らしいことだと思う。

たとえば苛酷なトレーニングに耐えました、とかいうのも、

それそのものを「自分に挑戦する」的に楽しめないと、

いつかどこか、故障したり壊れちゃうんだと思う。

っていうか、義務感や責任感だけでは、続かないと思える。

その先に、またいつか、結果も「めぐってくる」わけで。

結果(評価)「だけ」を求めたところで、

それをするのは「受け止める側」だから、

つまりはどうなるか、自分ではコントロールできない。

なのに結果だけを求めていたら「話が違う!」ということになってしまい、

上記の男の子のような「こじつけの勘違い」も起こるのである。

「結果」「評価」、そこばっかり見てると、いろいろたいへん。

自分の視点がずれたり、余計なものが入ってきたりして、

結局、途中の楽しみも、評価そのものも、ゆがんじゃうんだよね。

わかりやすい例で言えば、そういう人の足元を見て

「結果(立場も含む)が欲しいのなら、イヒヒ」なんていう

裏取引を求めるバカ(権力ある側、評価する側ね)も現れる。

あるいは自分で逆に「望んだ結果がついてこない!」と思い込んだ場合。

周囲に対し、不満ばかりたまり続け、文句しか言えない人生になっていったり。

または、怒りでなければガッカリの方向、

「すぐあきらめるクセ」ばかり、身につけ始める。

で、別にあきらめなくていいことまで、やる気をなくして手を出さなくなる。

以前話した「無力感が基本姿勢」というヤツですね。

で、自分からは何も楽しめなくなる。

あーあ。

どうか、結果より先に「面白いと思える部分や楽しめること」を、

必要なら、自分なりの工夫も凝らしつつ、そこで見つけてください。

そのあとで「結果」も、もしついて来たら、なおさら喜べるよね。

大人になれば、すぐに「結果」が見えないこともたくさんあるし、

たとえ、求めているものが結果だけでないにせよ、

切磋琢磨は決して「マゾ的な自尊心」だけでは続かないだろうと

私には思える次第です。

 

追伸 ~一流に 立派になりたいなら~

一流 立派 何をかを 成し遂げること

自分をむやみに責めるやり方にはまっていては そうなれません

一流の人は 自分がミスを犯しうることを ちゃんと許容している

自分が 完璧ではありえないことを しっかりと 認められている

周囲がすぐ認めてくれないことが ありうることも きちんとゆるせている

ただ 自分を責めず 素直に改善点だけを 探し

よし と 次を目指し

亀の歩みであっても 到達を あきらめないこと

能力だけではなく その地道な積み重ねがあって

失敗も含む繰り返し練習があって やっと

その蓄積そのものが あなたを

立派だと 一流だと「周囲が勝手に判断してくれる」ところへ導きます

あなたが 自分を立派だと 思い込めるところへ 到達するわけではありません

あくまで 周囲の受け止め方が 変わるのです

あなたがやるのは 自分がそうなりたい方向へ練習すること

ただひたすらの 練習の 地道な地道な積み重ね

本当にただ それだけで いいのです

そしてまた 自分を追い込むタイプの人は だからこそ

自分をゆるし認めてあげることで 到達も できやすくなっていくのです

……客観的に わかっていても

実行が 難しい

それはもちろん私も 知っていますが

一流を 愛したいなら 何か成し遂げたいなら

それを目指していく過程 そのものが

必ずあなたのなんらかの糧に なっていきます

だからこそ 今から再び

結果でなく 過程そのものを味わう旅へ 出かけましょう

これは ありがたいことにこれまで

さまざまな「一流」クラスの方から

お話をお伺いする機会などがあったり

国宝レベルの方のことを知る書籍などに めぐり合うご縁があった

これまでの私が そこから教えていただけたこと

そうした機会とご縁に恵まれたことにも

あらためて 感謝している次第ですm(_ _)m