まずは以前、思わず吹き出した話から。
ある飲食店の仕事をバックヤードで手伝っていたときのこと。
そこのお店はいつも流行っていて、忙しい。
店としてはでも、温かく清潔な雰囲気も重視していて、
仕事中はかなり皆がバタバタした感じにもなるのだが、
お客様の前ではテキパキ感や優雅さ、
見た目の清潔さなどがある程度、求められる。
働いている子たちは「忙しいほうがやりがいあるし」
というタイプ(そもそも、そういう人しか働きに来ない)。
で、そこで普通にがんばっているある男の子が、店長から
「その髪型はちょっとラフを通り越してぼさぼさに見えるから、
もっと何とかしろ」と注意されました、と。
そのときちょうどお店は混んでいて、彼は多少、テンパっていた。
で、バックヤードに戻ってきて「こんなにがんばってるのに
この程度で注意しやがって!」的な怒りを見せた(しかも
彼、髪型を含め、ルックスには自信があったらしい……)。
で、その店ではリーダー格であった友人と、
たまたまそれを聞いた私。
「あなたのがんばりと、お客様から清潔に見られるかどうか、との間に
どんな因果関係があるの? それに仕事はがんばるの、普通だよね?」
とバッサリ。男の子、ウッとなって口をつぐむ。
そして数週間後、やはり納得がいろいろいかなかったのか、
彼は辞めました、と。
も、自分の評価レベルが小学生かい? ということで、
かわいそうに、みんなの笑い話になったのだが。
結果と「その途中におけるがんばり」の因果関係が認められるのって
「お客様がものすごく無理を言って変更かけてきて
その結果、納期にズレが出ましたよ」とか、
急がされた結果どうしても、ある部分が間に合わなくて
「完璧な仕上がりにはなりませんよ」ということを
お客様に理解してもらっての納品、とか。
そういう「時間と内容レベル」のことを
「相手に理解してもらい得る」条件が揃っているときだと思う。
ましてや客商売における清潔感、という「見た目」なんて、
何も「がんばり」には関係しない。
あと、これも私が目撃したパターンだが、
頼まれた仕事を、効率も考えず「自分勝手に時間をかけてやる」のは
小学生の図画工作と同じレベルだったりする。
「でも、これでも、いいじゃないですか」
うん、そうだよ、誤りではない。
でもね、他にも仕事、いっぱいあるから。
カッター使うだけでそんな時間かかってたら、やっぱマズイと思うよ。
しかも美しさなんてまったく求められてないし、
あなたのそのやり方では、結局、美しく仕上がってないし(笑)
……そういう感覚って、不思議だな、と思うのである。
自分の「がんばり」と結果って、とくに仕事の面では
周囲が「おおっ!」って感じで「でき上がったもの」あるいは
「やり方そのもの」を認めるレベルじゃないと、
評価にはつながらない。
服装等の整えなんて、仕事の上では基本の前提なわけだし、
効率と結果の度合いも、必ず評価のうちに入る。
だからこそ、つまらない、と思える「やり方」が基本であっても
「がんばってる最中から自分『は』、その仕事での
楽しめる部分を見つける」ことも必要で、
そういう視点がないと、続けていけない。
創意工夫して「楽しく効率よく、
かつ素晴らしい出来具合」にしていく。
どうしても時間がかかっちゃうものなら、
そういうふうに見つめ直したりすることも、必要じゃないかと。
だって、その時間、その場所で、どうせそれをやるのは自分なんだから、
そのときに自分が楽しめなくちゃもったいない、と、思えるのである。
ええ、その部分で私は「非効率」にやったからこそ、壊れました(笑)
創意工夫の面では幸い、チャレンジするしかない状況だったから
逆に、大量さ、の部分は無視し、時間と自分を犠牲にして
のめりこみすぎた、とも言える(笑)
でも、たいへんさはありながら、自分が楽しかったことは事実。
そこは「チャレンジ」という視点を保たせてもらえる土俵で
ありがたかった、と、今でも思える。
ルーティン的なものでも、進め方や意志の伝達、表現における工夫の余地を、
いっぱい自分で見つけられたから。
さて、この話をさらに発展させますと。
仕事に限らず、がんばったんだから認めてよ、
こんなにやって「あげてるのに!」というのは
「相手への押し付け」であり「評価してちょうだい欲」だ。
あるいは逆に「どうせやったところで」という思いにも
その裏側には「評価してちょうだい欲」が、逆の意味で隠れている。
自分ががんばる、そのこと自体は「楽しんでいい」(ただし
自分を犠牲にするレベルになっては意味がない)、
そして楽しむ自分(あくまで「楽しむ」の部分ね)を
自身で認めてあげるのは、素晴らしいことだと思う。
たとえば苛酷なトレーニングに耐えました、とかいうのも、
それそのものを「自分に挑戦する」的に楽しめないと、
いつかどこか、故障したり壊れちゃうんだと思う。
っていうか、義務感や責任感だけでは、続かないと思える。
その先に、またいつか、結果も「めぐってくる」わけで。
結果(評価)「だけ」を求めたところで、
それをするのは「受け止める側」だから、
つまりはどうなるか、自分ではコントロールできない。
なのに結果だけを求めていたら「話が違う!」ということになってしまい、
上記の男の子のような「こじつけの勘違い」も起こるのである。
「結果」「評価」、そこばっかり見てると、いろいろたいへん。
自分の視点がずれたり、余計なものが入ってきたりして、
結局、途中の楽しみも、評価そのものも、ゆがんじゃうんだよね。
わかりやすい例で言えば、そういう人の足元を見て
「結果(立場も含む)が欲しいのなら、イヒヒ」なんていう
裏取引を求めるバカ(権力ある側、評価する側ね)も現れる。
あるいは自分で逆に「望んだ結果がついてこない!」と思い込んだ場合。
周囲に対し、不満ばかりたまり続け、文句しか言えない人生になっていったり。
または、怒りでなければガッカリの方向、
「すぐあきらめるクセ」ばかり、身につけ始める。
で、別にあきらめなくていいことまで、やる気をなくして手を出さなくなる。
以前話した「無力感が基本姿勢」というヤツですね。
で、自分からは何も楽しめなくなる。
あーあ。
どうか、結果より先に「面白いと思える部分や楽しめること」を、
必要なら、自分なりの工夫も凝らしつつ、そこで見つけてください。
そのあとで「結果」も、もしついて来たら、なおさら喜べるよね。
大人になれば、すぐに「結果」が見えないこともたくさんあるし、
たとえ、求めているものが結果だけでないにせよ、
切磋琢磨は決して「マゾ的な自尊心」だけでは続かないだろうと
私には思える次第です。