なに見て 暮らす

一つ前の記事でいただいたコメントに

何度も何度もうなってしまい、感化され書きます。

過ごしてきた人生の、1/3を振り返ったとはいえ

8歳のときの自分にはすでに支えがあった、と受け止められる12歳。

自分の抱える問題が何かわからず、苦しみ、

私なんていらないでしょ、と(つまり価値がないと受け止め)、

屋根から飛んでしまおうとした過去を持つ女の子。

その障がいが、遺伝に関わるものであったがゆえに

(コメントをいただいた方はその旨、隠されていないので、

このように書かせていただきます。ご了承ください)、

その行動を取った娘を支える親の側、も

どれほど、どれほど心苦しかったことか……。

お腹を痛めて子どもを産んだことのない私でさえ、

想像するのは難く(かたく)ありません。

でも、娘さんは、自分が日々、息苦しい、

「生き苦しい」その理由を知ったとき、

自分の今の「状態」を本気で見つめたときに

そうだったのか! と、それをすんなり、受け容れました。

そんなの、子どもだからできるんだ!

と、口で言うのは、簡単でしょう。

大人側のいろいろな理由を、くっつけることも簡単でしょう。

でも、だから?

それで「も」いいんだ、と

「最終的に」受け容れられる気持ちは、

大人か子どもか、が、関係しますか?

できないことを数えまくるのであれば、

先の長い子どものほうが、よほどたくさん、

思いつけるでしょう。

いまどきの子どもは、その気になれば

あらゆることをインターネットで調べられます。

情報が「過多」なくらい、みつかるんです。

不安を見つめ、そこを「わざわざ」探しまくれば、

10歳を過ぎた子どもであれば、十分、

将来を嘆き続けられるでしょう。

延々と、自分が「今、持っていないもの」だけを見つめ、

「なぜ」「なぜ」「なぜ、こんなことに」と。

そして、あらゆるものを責め、

自分が悲劇の主人公で居続けることも、可能でしょう。

子どもだったら、それこそ「なおさら」なんだと、私には思えます。

だから彼女は、そうしないことを「選んだ」と言えるのだと。

さて。そんな美猫姫ちゃんに触発され、

自分を改めて、振り返ってみたくなりました。

私は「川べり」が、子どものころから、好きでした。

近所を流れていた、小さい土手の川。

40年前はなんと、そばの小さい工場が、

たぶん構内運搬用であろう牛を2頭、飼っていて!

蹴られてしまうのでは、と、幼な心にドキドキしながら、

姉と一緒に、川べりで草をはむ大きい生き物を、

遠巻きに見ていたことを思い出します。

……一応、普通に住宅街だったんですよ、でも。

それから、中学校のそばにあった、大きい川。

幅広の、流れる水を見るのが好きでした。

きれいな川ではなかったけど。

そして、たまたま、陸上部に入って、

川べりをランニングすることの心地よさを知りました。

走るのがキライな人には理解しづらいかもしれませんが、

「ランナーズハイ」って気持ちいいんですよ。

しかも、水の流れを見ながら。

音を聞き、風を感じ、

空はずっと大きく広がっていて、

遠くに車や電車が走ってて。

息は苦しいはずなのに、心地いいんです。

短距離を選んだので、川べりのランニングは

走りこみの冬の時期がメインでしたが、

高校もたまたま、中学校と同じ川の、さらに下流近くにあったため、

同じく陸上部で、同じような景色の川べりを、楽しんでいました。

大人になって遠くへ引越し、

大きい川の近くには住めなくなって、

川べりを味わうことがなくなっていたのですが。

あるきっかけから引っ越して、その地域の大きい川のそばに

住むことに決めたら、やっぱり、気持ちいい。

さすがに10代のときのような走り込みはできませんが、

それでも2km、4kmくらいなら、ダラダラ行けるので

やった~、と思って、ランナーズハイを(笑)ときどき楽しんでいたら。

原因不明の、低血圧がやってきました。

いきなり始まるめまい、しゃがみこみ、そして何より頻脈。

放っておいても、心拍数は1分95回を超えます。

はい、ジョギング禁止。以上、おしまい。

原因、不明なんですよ。

でも、たぶん間違いなく、鬱になってしまったこと、

もしかして服薬していたことも、関係しているかもしれない。

もはや元には戻りそうにない、体質の変化、です。

で、自分を鬱にしたのは? 自分です。

当時の会社のせい、と言うのは簡単だけれど、

「鬱になるような、ものごとの捉え方をしていた」自分が、

いちばん悪い。

そういう意味で体調管理を怠ったのは、間違いなく、自分なんです。

じゃあ、この先。

川を見るたびに、私は、自分を嘆くこともできます。

その気になれば、毎朝毎晩、郷愁のように

過去を振り返って、悲しむことができます。

だって、本当に、心地よかったの。

やっと久しぶりに、味わえるようになったの。

あの風と、あの空気と、あの心地は、

こういう土手でしか味わえないものだから。

そして、走れる自分が、好きだった……。

でも、これ、何の意味があるのでしょう?

これからの、今からの、私に。

自分がまいたタネ、の結果を受け取っておいて、

タネをまく前の自分をうらやましがって。

だってまいたことに、気づいてなかったんだもの!

まさか低血圧になるなんて、まったく想像もできなかったんだもの!

そう、あくまで「病」だったのは「鬱」でしかなくて、

低血圧は「原因不明」なのだから。

私が悪くない? 私はタネをまいてない?

いいえ。まいているのです。まいていたのです、確かに。

じゃあ過去を見て、過去だけを見て、

栄光だった自分の姿を思い返し、嘆き続けることは……。

自分を責め続け、マゾのようにウットリすることと、同じです。

たぶん、そんなことをし続けたら、

今でも血圧は70台で、頻脈もまだ、起こりまくるでしょう。

これを書きながら、今、あの心地よさを懐かしんでみたら、

ちょっと、泣きそうにもなりました。

でも、もう無理。

せいぜい、心臓発作で行き倒れになって、

救急車騒ぎで散歩している人に迷惑かけるだけです。

病は気から、の部分は、確かにあるのです。

鬱なんて、その典型。

だから私は、もう、過去は見ない。

反省はしました。十分、イヤになるほど、しました。

過去のよかったことは、すべて、

「それを味わえたのはありがたかった」という、

私の「力」になってくれる、ステキな思い出です。

川を見ても、泣きません。

今日はたまたま、川を例にしたけれど、

それ以外にも失ったもの、たくさん、たくさんあります。

主に、外側の価値に関するもの。

自分が「死ぬほど」大切にしてきたもの。

でも、数えるのはもうイヤ。

これ以上、自分を「変に」扱うようことは、繰り返したくない。

だってまた、鬱になってしまうもの、それやったら。

それって、新たなタネまきなんだもの。

同じあやまち(どころか、次は年齢も関係してさらに

謎めいた病を連れてくるか、鬱&血圧低下&心臓機能悪化でしょう)は、

私、絶対と言いたくなるほど、イヤです。

そんなタネはもう、まきたくない。

だから、そういう過去の「扱い方」からは、離れます。

自分を哀れみ、悲劇の主人公として、

できなくなったこと、失ったものを、数えて生きたりはしません。

だって私は、私のこと、好きでいたいから。

めまいが起ころうが、頻脈になろうが、そんな私のままでも。

何より、二度とあんな暗い暗い闇の中へ、自分を追い詰めたくない。

「閉じた自分の内側の空間で、自身を哀れんで愛おしむ」こと。

それはグリーフ・ワーク(悲しみを癒す練習)として

必要だった時期が、もしかして以前はあったとしても、

私はもう、終わっていると思えるから。

今の自分で、堂々と、欠けたものがあるなら欠けたまま、

でも、それを丸ごと、好きでいいのだから。

お馬鹿だった自分がいたよ、うん、かわいいヤツだね、と。

だいぶん、そう思えるようになってきているし、

あるいは、ほかのものを内側に、新しく付け加えていきたい。

もっと、今の自分から、いい意味で内側を「豊か」にしたい。

私はずっと、外側の自分の価値ばっかり、追いかけてきたから。

そうやって、前を向こうと思います。

想い出は「宝物」として取って置いて、

「楽しむ」ためだけに……使いたいと思います。

わかっていたようでいて、でも、何度も繰り返すこの気持ち。

この時間は、私には、大切です。

美猫姫ちゃん、sei-seiさん、

ステキな機会をありがとうございました。

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