思い遣る、ときの自重

前回とは違い、今日は自分の言葉でも綴るけれど、

まずは再び、他の方の記事を紹介することから

話を始めてみたい。

 

昨日の、武田双雲さんの、連続的で短い記事を3本。

私が読んだときは最初の2つがアップされていて、

それらを読んでふと、疑問に思ったことを

ご質問としてコメント欄に書いたら、それに呼応する形で

のちに3つめの記事を上げてくださった。ありがたい……。

 

そしてその内容を読み、双雲さんが、自分と同じように

感じてくださっていることは心強いな、と思えた。

 

◎武田双雲「書の力」

『自分ベクトルを相手ベクトルへ。』
http://ow.ly/3tYsSm

『ストリート書道時代に起きたパラダイムシフトの話。』
http://ow.ly/3tYt31

『相手のために。のあやうさ。』
http://ow.ly/3tYtD5

 

これらを読んでもらえたら、わかると思う。

「思い遣りとは、相手を自分の気が済む方向へ

コントロールするために発動させるものではない」

ということを。

 

そういう意図でやるのなら、それは実は、

ある種の欲望、あるいは、一方的なしつけ……躾である。

 

この「躾」って漢字もすごいよね。

本来は所作、振る舞いの美しさ、を求めるところから

きているのだろうけど、身を美しく、だよ。うーん、深い。

 

で、まあ、わかりやすく、たとえば自分の子どもに対して、

このしつけ、の範囲で指導することはもちろんあるだろう。

で、たまに、しつけをはるかに超えて

「自分にとって都合のよい人間となるよう子どもをコントロールする」

という人もいるだろう。

 

あ、もちろんご本人にとって、それは「しつけ」の範疇内なんだよ。

でも偏った価値観の押し付けや、もっと極端な場合、

自分への絶対的服従を求めての行動だったり。

 

そこまでいかなくても、こういう人間になったほうが

世間様に嫌われないで済むわよ、というある種の「怯え」だったり

逆に「世間を牛耳るようにならなくてどうする!?」という

自分の願望が、くっついたりする……。

 

ねえ、フラットにいこうよ。

「その子自身の選択余地」も残してあげようよ。

その子にだって「やがて気づいていく力」は

必ず内包されてて、それはまた、すごく大切な

学びとなるかもしれないよ? そこは気づいているはず、だよね?

 

なのに、その内包力を無視して先回りして、学びの機会を奪いながら

全部、転ばないように、手助けという名の「手出し」をして……。

 

そういう側面が加速すると、究極的には「私の作品です」なんて言葉で、

子どもを一生、隷属させちゃうんだぜー?

って、あ、過激ですか?(^◇^;)すみません、

究極ではなかったけど、過去の記憶が私の表現を左右したかも(笑)

 

とはいえ、これはあくまで、親子という関係性における、

とある可能性の話です。

なのでもし、ご気分を悪くされた方がいたらゴメンなさい

(また願わくば「なぜ私はムッとしたのか」を捉えてみてほしいと祈る)。

 

で。

双雲さんもおっしゃっているが、

これをさらに人間関係全般に広げて考えた場合、

自分ベクトル……つまり、自分への見返りを期待したら、

それはもはや「最初から」相手のためでなく

ただの計算ずく、自分のためにやっているのだと。

「情けは人のためならず」を、ハナから計算ずくで

やってしまうのは、ただの「ズル」なのですよ。

 

たとえば。

相手に、自分のことを○○と思ってほしいから、

自分がもっと気に入られたいから、

立派と思ってもらいたいから、

そういう「点数稼ぎ」方面であったり。

 

また、あなたは間違っていて私は「正しい」から、

それに気づかせてあげなきゃ、なら

要は「私が正しい、素晴らしいって、あなたが誉めてよ!」を

求めていたり……も、するかもしれないのだ。

 

それ、自分が「されたら」どう思う?

そういう匂いをプンプンさせて、相手が

「思い遣り」のワザ、出してきたら?

 

普通は「ウゼェ、コイツ」と思うよね(^^;)

乱暴な言葉でゴメンね、でもそういうふうに

「荒く拒否したくなる」感じ、ていねいに対応してあげたりなど

したくない感覚を覚えるだろうから、使ってみる。

 

要はね「計算するな」ってことです。

計算するくらいなら、自分がやりたいからやる、って

見返りを「期待せずに」やるほうがマシ。

そしてやるなら、手助けの範囲に留める。

そういう意味での「手出し」まではしない。

 

手出しするってことは、すなわち、あなたが相手の力を

信じていないからやるわけで、また、あなたが信じていないことは

相手にも伝わってしまうのだから。

 

あえてもう一度、言ってみる。

相手にも感じ取る力は備わっている。

だから、なんとかしてあげよう、なんてことをあなたが思ったら、

相手のほうも、この人は自分の未来の力を

信じてくれない人なんだな、と、やがては気づくのだ。

 

で、思い遣りを押し付けまくってくる、そんな人のことを、

相手がウザイと思うのは、ある意味、当たり前じゃないかな?

するとその時点で信頼関係、難しくならないかな?

 

自分がやられてイヤなことは、やっぱり他人にしちゃいけない、

基本はそこなのだと思う。

思い遣り、出していくなら押し付けない、

出してるふりして求めちゃいけない、なのだ。

 

もちろん自戒も含めてるよ。

つまりこうしたことに留意して、

それでも声をかけたくなったら「私がそうしたいから」と意識する。

 

そうすれば少なくとも「こんなにやってるのに」というような

「やってあげてる恩」は、相手に押し付けないで済むと思うし、

逆にね、相手のほうが駆け引きの道具として使いたがる、

つまり、相手がたとえ

GIVE! GIVE! GIVE me! GIVE GIVE!

という「バキュームオンリー」な方であっても

(自分は与えず、受け取るほうばかり要求するってことね)、

わりとスムーズに、自分がやれる、やりたいところまでやったら

スッと距離を置けると思えるのです。

 

その要求(たぶん承認要求)は、相手の問題であって、

あなたが解決すべきではないこと、かもしれないから。

たとえそれが、身内であったとしてもね。

 

他者の役に立ちたい、と、他者に影響力を及ぼしたい、は

けっこう、紙一重なのだと。

そういう自重をしていけば、状況や自分の気持ちを俯瞰できて、

そこから気づけることもたくさんあるのでは、と思える次第。

 

前に、あなたが自分からいろいろな花になってもいいんだよ、と言ったけど、

それは相手も同じなのだから。

相手にもいろいろな花になる力が備わっているから。

 

そして少なくともあなたは、ホラー映画に出てくるような

「食人植物」になりたいわけではなく、

ただ美しく咲いてみたい、のだろうから。

 

2014_11_09

Photo by ぱくたそ

上の写真で言うなら、この花の一つひとつがあなたであり

また、相手でもある。

どんなふうにも咲ける、その力を、

あなたも相手も「すでに」秘めているのだ。

 

だからこそ。

相手を思い遣るがゆえの自重を、

私は本気で大切にしたいと思っています。

 

 

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