木元見春 のすべての投稿

イジメっ子 イジメられっ子

どうしてそんな やり方で

あなたの中に 眠る力を

あなたは感じず 否定するのだ

あなたが 経てきた経験

それそのものが 無駄だったと?

あなたが 感じてきた気持ち

それらすべてが 意味なかったと?

過去だけを見て

難しい できない 無理だ と

言い続けていくのは

現在やこれからを

ハナから否定し続けるのと

同じことに なってしまうのに

悪い過去から 学べること

それは 自分がイヤだと感じることは

もう繰り返さないようにしようと 心がけること

たぶん それくらいしか ないと思えるんだ

それ以外に わざわざ 使う価値があるのだろうか?

未来をも 否定するために?

今は こういう状態である

その原因は こうである

そして過去には それらによって

こんなこと あんなこと 

イヤなこと たくさん起こって

うん そう

それを一番 痛い学びとして

受け取れるのは 確かにあなた自身

でも それは 今を 未来を

否定するためのもの?

否定したくて しているわけではないなら

新しく そうでない方向へも

ちょっと 練習を始めてみても

いいんじゃない?

同じテーマで より 痛くない方向へ

より 自分に 嘘をつかなくてもいい方向へ

より 自分自身が 楽に 心地よくなる方向へ

今までを ただの うまくいかなかったやり方例に

していくことは 絶対できない?

また 同じ失敗をしたら という「おびえ」は

同じ失敗をしなくなるまで 消えない

やっていけば少しずつでも 違う結果が 生まれていくだろうに

違う受け止め方も 生まれるだろうに

それすら 否定する?

失敗しないようにするコツを

いろいろな人の話や 言葉から

ヒントを得て 練習してみる価値は

自分には もう ない?

ここで 価値がない と断言できるなら

あなたはたぶん 自分自身を

信用できていないのだと思えるから

ではまず そこを 解きほぐしてみても いいと思うんだ

私はね 私をもっと 好きになっていい

俺は 僕は 自分自身をもっと ゆるしてあげてもいいのだから

それがあるからこそ 次 を見られる

それは 人としての 基本 であっていいんだ ホントはね

立派じゃない? うん 今はね 練習 してないからね

気に入らない? うん ずっと叱り続けてきて

萎縮しちゃったままだからね

心の中の あなたという子が イジメられ続けてきて ビクビクしてるんだ

ずっと ずっと ダメな子って言われてきて

あなた自身から 否定されてきたんだ

いったい いつからだろうね……

まだ そんなイジメを この先も続けたい?

あなたは イジメっ子であり

同時にイジメられっ子で あり続けてきた

そんな キツイ状態では

練習も なかなか 進みにくい面が あると思えるんだ

だからこそ うまくいかなかったところが たくさんあると思うんだ

いつまで そのイジメ 続けたいかな?

もしかして この先も 一生?

そして 苦しいままを 選び続けていく?

……本当に?(・_・、)

自分をイジメから 解放できるのは

あなた自身 だよ

あなたにしか できないし

あなたになら できるんだよ

だってそれは 自分が選んできただけだから 

気づかずに 選んでしまっていただけだから

……なのに もう あきらめてしまうの?

視点を変えれば……

自分がダメなことばかりで

構成されているわけではないことに

気づける日がやってくる。

あなたが本気で、視点を変えたくなったときに。

速攻でできるかどうかは、人によって

タイミングが違ってくるだろうけれど、

でも、必ず、いつか。

土星だって

こんなふうに見えるのだ。

太陽を背にすれば、ときには。

だから、だいじょうぶだよ。

焦らないで、今から、少しずつ。

AFPニュース(スマホと携帯はこちらから閲覧できるかと思います。

設定によってはもしかして見られないかな……そのときはごめんなさい)
 ↓
逆光の土星

私は自分で捉え方を選べる

私はストーカー(になりかかっていた人)という存在に出会った。

暗い気持ちのときだったからよけいにイライラして、

電話してきた相手を責めた。

でもその経験で私は「どんなに自分が『間違っていない』と

思えることでも、相手には意味が通じない場合がある」ことを知った。

なぜなら相手にとっても「自分は『間違っていない』と思える」

(愛ゆえにゴミを拾うのだという)信念があったからだ。

それをすることは、相手にとっては間違いではなかった。

知りたいという欲求を、直接、近づいて言葉をかける代わりに

別のもので満たそうとしたのだ。愛情ゆえに。

それはただ「悪いな」と思える程度のことでしかなかった。

まさか、好きな人から怒りと拒絶反応を起こされるほど

ヒドイわけではない、なぜなら「僕があなたを好き」なのだから、

その部分をわかってほしいだけなのだから、と。

信念を持って、愛情の証として、ゴミを拾う。

なぜ、そこの部分を理解しようとせず、

ゴミを拾った行為そのものを責めるのだ?

……つまりは、そういう主張だった。

通じないのだ、気持ち悪い、ということが。

勇気を持って近づく代わりに、ゴミを拾うこと。

それはとても卑怯な手段だと、私が感じていることは、通じない。

しかも、その電話の会話でさえ、偽名を名乗られた(警察で調べてもらい、

そんな住人が地区にいないことは判明した)。

名前も名乗らず、ゴミを拾っても、

その相手と付き合える、と思えること自体が

自己都合の塊だということに、彼は気づいていなかった。

そこには「私がどう感じるか」という想像は、完全に欠けている。

そりゃ、通じるわけがない、こちらの感情。

ハナから相手の思考の範疇には、私の感情が存在しないのだから。

これを経験したから、私は、私の常識が人に必ず通じると思うな、と

いうことを、ダイレクトに教えてもらえたのだと思う。

届かないときには、言葉で説明しようが、何をしようが、届かないのだ。

だから最後には私は「もうご自由にどうぞ、次に声をかけたいというなら、

そのとき、あなたの身元を証明するものを

必ず見せてくださいね」としか、言えなかった。

何を思って相手がそう言うのかを、どれほど説明されても

理解困難どころか、相手の感情の存在すら「感じられない」。

そんな人もいる。

それをあからさまに教えてもらったからこそ、

私は「届かないときにはあきらめる」ことを学んだのかもしれない。

また同じく。

ワーカホリックになり、仕事にのめり込みすぎて鬱になり、

死にたいと思った経験があったからこそ、

私は、自分の気持ちをもっと大切にしていいこと、を、学んだ。

その練習をしている人たちとも、知り合いになれて、

率直に「練習の難しさ、コツ、経験」を

お互いに語れるようになった。

宗教組織でもなく、怪しまれるような商売仲間(笑)でもなく、

まあ、スピとか仏教とかキリストとか、

出会いのきっかけはそこにあったけれど、

その枠を越え、友人として、人生や感情や感謝を語り合える人に

何人か知り合えた。

批判もなく、私のやり方を見守ってくれる相手。

これはとても大きい意味があった。

受け容れることのすごさや、人にはそれぞれ課題があるよね、と

人の考え方や行為をまずはゆるせる範囲が拡大した気がする。

自分がそれを選ばないようなことであっても、

それはまあ、その人の選択なのね、と捉える感じ。

直接的に「気持ちを害される」こと以外は、

落ち着いて見つめられるようになったし、

たとえ直接的なことが起こっても、何を思って相手がそうしたのか、

まずは探ろうとする余裕が少しずつ生まれてくるようになった。

それを想像することで、自分の不快感、つまり怒りや悲しみやショック、

という部分に、完全に呑まれることがなくなり、

落ち着け、私、と、自分の感情を見つめられるようにもなった。

この「幅のようなもの」が生まれたことは、

私にとっては、すごく大きな視点になった。

そしてまた、お互いが見守ること、あるいはお互いの思いやりが

通じ合うことが、すごく心地いいことなんだ、とも

はっきり思えるようになった。

そういうことを、臆病にならずに経験できる機会にも恵まれた。

家族や親友でなくても、

彼氏彼女じゃなくても、

人は人を「結果的には」助けられるし、助けたことがまた、

「結果として」その人自身をも救うのだ、と知った。

通常なら、災害など悲劇的状況で起こりやすい思いやりの交流が、

悲劇的状況以外でも可能だったのだ。

鬱にならなければ、私はたぶん、それを「思い知る」ことは出来なかった。

確かに、苦しい、悲しいことは、あったけれども。

学べたことが大きかったので、それはそれで別途、

自分を助ける道となったと、はっきり言える。

昔より、心の交流は豊かで、ありがたく、素晴らしい。

このブログという場でも、それは幾度か生まれていて、私は

私の思いを感じとってくださることの

うれしさとありがたさを、ここでさらに学んでいる。

本当に、本気で『捉え方で変わるのだ』と、今は思える。

いつもそれを教えてくださって、ありがとうございますm(_ _)m

読んでくださっている方々に、改めて、そうお伝えします。

感謝をこめて。