木元見春 のすべての投稿

自分の気持ちがすぐつかめなくても

昨夜、ブログを書いたあと、寝る前にふと思ったことがあった。

私は、この「 鑑 → うん了解、でも、関わらなくていいや 」という自分の気持ちをつかむのに、

ホント、えらく時間がかかったんだなあ……って。

それが今朝以降もずっと心に残っているので、そうした自分の情けなさを暴露してみようと思う。

私が苦手、と思っていた3人は、それぞれ年齢も立場も違っていた。

一人は大学時代の友人で、そのときはまず、「話がなんか通じにくい感じ」だった。

別に仲が悪いわけでもなく、どっちかと言えばグループ的にはよく一緒に行動していた。

でも、たとえば誰かが何かを言ったときに、「表面的な回答」というのかな、自分の思いではなく、

「世間で言われる模範的な回答」が返ってくるような感じで、ときどき異質な感じがしていた。

とくに、誰かの悩み相談など、深い話になったときに、「それは○○じゃない?」というその内容が、

どこかの本に書いてあったような、当たり障りのない感じだったりする。

でも、それを繰り返し、断言気味に聞かされると、

まあ、世間的には間違いがないわけで、「そうかもね」と言う答えにならざるを得ず……だった。

あとは「こんなことがあったの~!」という、事細かな報告の多さ。日常をみごとに全部、というか、

深い話ではなく「聞いて聞いて! 昨日はね、卵焼きが上手に焼けたの」的な話が長く続くような感じ。

それを家族、彼氏、サークル……という感じで、全パターンが終わるまで、毎日、いろいろ話していたのだ。

でも、このときは、そういう「違和感」を感じていたくらいで終わった。

2人目は、会社の先輩。

その方の悩みが、たまたまなのだけれど、すごく多かった時期にご一緒した方で、

私はずーっと、悩みとグチを聞く形になり、それが延々、だったのだ。

今すぐどうしようもないこともあるわけで、ましてや私には、即効性のあるアドバイスなんてできない。

「そうですか」「大変ですね」という相づちや、「それってつまり○○ってことですか?」という確認が中心。

たまに、「△△はどうですか?」と聞いてみても「うーん、だって■■がね」と、別の悩みが絡んできたり。

ランチや夕食のときが多かったのだが、話し終わってから、脱力した。それがだんだんはっきり現れて、

初めて「疲れた……」と思うようになった。

やはり、私自身のことなどを深く話す機会は少なく、ずっと受け手だったせいもあるかもしれない。

でも、これもまた「疲れた」のところでおしまい。

3人目は、さすがに「気づけよ」というくらい強烈な方だった。もう、数年前の出会いになる。

私には、いろいろと自分のことを話せる気心の知れた仲間がいて、そのネットワークはすごく広い。

これは、鬱を克服していく過程で知り合った、シェア(分かち合い)の会のようなところから

始まったご縁なんだけど。

たとえば初対面で出会った「友達の友達」であっても、そのネットワークに参加されたことがあるなら、

お互い、「自分の深い思いや体験を、可能な場なら話していい」関係であるような、

ちょっと不思議な感覚なのだ。

表現が難しくて申し訳ない。決して宗教組織とかビジネス団体、○○式メソッドなどではなくて、

たまたま、とある人をきっかけに自然発生的につながったような、自己探求系? 仲間で、

そういう「受け止める」気持ち、「オープンにする気持ち」を学ぶ場でもあったので、

それが勝手に、暗黙のルールになっているような次第である。

で、普通はお互い「いいですか?」的な感じで、言葉には、わざわざしないんだけど様子を確認し合って、

最初は遠慮しながら、可能だと思えたときに自分の過去を話したりするわけだが、

その方は、たまたま複数で会うことになって、私は初めてお会いする、というその日、

いきなり何の前置きもなく「私はこんな過去があったの」独演会をされたのだ。

私も人づてに、彼女が、とても大変な思いをされてきた方だとは聞いていた。

その経験のほんの一部は先に聞いていた。

が、しかし。

「私ってこんなに大変だったの」

「私ってこんなにすごく可哀想だったの。でも頑張ってきたの」

「人とは違う、こんなすごい活躍もしてきたの」

「人とは違う、こんないい経験、つらい経験をしてきたの」

ということを、それこそ雪崩のように、私に対して語られたのだ。

決して大げさではない。みごとに一気に、彼女は山あり谷ありの人生を語ってくれたのだった。

私を信頼して明かしてくれた、その前提は十分、本当に十分、ありがたい。

でも、その話の間中、私に届いていたのは

「私をみて! ほめて! すごいでしょ! だから話の中心にして! 特別扱いして!」というメッセージだったのだ。

これほど一気にそういう話を聞き、相づちと「すごい」と「たいへんでしたね」しか言えない経験をしたのは

私も初めてで、しかも話し終えた後、ほんの少し経ったら、ある事情からさよならすることになったため、

その後で、私が一緒にいた友人に言えたのは「……嵐だったね……」という感想くらいだった。

でもね、ここでもまだ、私は悩んだわけですよ。

あの、痛々しささえ密かに感じてしまった彼女は、確かに彼女の一面ではあるけれど、

いかんせん、私は彼女の他の面を知ることもなく終わった。

ビックリしたけど、うわあ、と思ったけど、それだけで彼女を判断するのってどうよ、と。

どこかでまた、会うことになるかもしれない。だから、微妙に避けたい反面、

もう一度会って、別の面も知ったほうがいいのでは、という自己反省的な気持ちもあって、

うーん、と、気持ちがもやもやしていたのだ。

そこから数年の間……2年以上かかったことになるかな? 

彼女が、Ameba以外のとあるSNSでブログに書かれたことや、

そこで他の方へ発言されていた内容を、時間をおいて何度も何度も目にするうち、

やっと、私のなかで、この違和感は何かに似ている……と気づき始めたのだ。

で、ある日のその彼女の発言を目にしたとき、それが大学時代の友人とふっとリンクして、

さらに先輩のことも思い出し、次に自分の過去ともリンクし、

またそのときに限ってたまたま、「人は自分の鑑」についての本も読んでいて(過去にも何度か、

この言葉は本で目にしていたはずだったのに、気づかずじまいだった……)、

ポーン! と、自分のなかで一直線に並んだのだった。

そうやって並んだのがほんの1ヵ月? くらい前だから、どれだけ時間がかかったことか……。

自分が小学校で経験した悲しい思い出つきだったから、あんまりつなげたくなかったのかなあ、

なんて思いつつ、ここ数年のもやもや感(学生時代からだとしたら20年越え(笑)の違和感)に、

やっと、スッキリさよなら! できたのであった。

長々と、気づけなかった自分の話を書いたけれど、要はまあ、時間がかかることもあるし、

それは別に、かかってもいいのだ、と。

気づけよ、と言わんばかりの機会もちゃんと巡ってくるし、

結果オーライであれば、ホント、かなり気持ちは晴れ晴れするよ、という一例を、

知っていただければと思った次第である。

どんくさい実例で、失礼いたしました~m(_ _)m

人の振り見て……

私には、どうしても苦手、と思えるタイプの人がいる。

もちろん誰にでもいると思うのだが、鬱から回復していく過程で「自分を知る」作業をしていたときに、

どうも、その「苦手」に、いくつかのパターンがあることに気づいた。

そのうちのひとつ、私がもっとも激しく(?)反応してしまう例を挙げてみると、

それは「私を見て!」というタイプの人。

何人かで会って話をするとき、その会話の中で、常に自分の考えや意見、

経験のほうへ話を「持っていってしまう」人がいる。

そして聞いている側は「大変ね」「すごいわね」「がんばって」という系統の返事を、

なんとなく求められているような気になっていく。

これまでに、私の記憶のなかでは3人、そういう人がいて、

明るい人も、悩んでいる人もいたのだが、いずれにせよ、その人と会話しているときに

私が相手に感じたイメージを言葉に例えるとしたら、それは「バキュームカー」だった。

この例えは何かの本で知ったのだけれど、あまりのぴったりさに驚いて、

うん、そう! それ!! と大きく肯いてしまった。

なんていうのだろう、どこまで「賞賛」しても、「慰め」ても、ず~っと延々、テーマを変えて

求められ続け、キリがないような感じ。ときには、ちょっと痛々しささえ感じてしまうような。

本当に会っている間中、最後には必ず「今日もそんな感じの会話だったなあ」って思ってしまうのだ。

適当に流せばいいはずなのに、他の人はそんな様子で対応しているのに、

なぜ、私はここまで引っかかるかな、と思っていたら、

これまた別の本で「気になる人はすべて自分の鑑(かがみ)」という記述に出会って、ガーンとなった。

そう、少なくとも小学生のとき、私もそうだったのだ。自分に注目してほしい、それが気持ちいい、という感覚。

友達からそれをガツン! と言われたときに(点取り虫、っていう表現だった)、やっと自分で認識したのだ。

結局、自分のことしか目に入ってないでしょう! っていうヤツ。

中学生以降、自分ではその意識を自制するようにはなったが、もしかして今でも、

その傾向は残っているのかもしれなくて、少なくとも「自分をより上へ上へと昇らせる」ために

無理をしたのも、そのことが少しは関係しているかもしれない。

注目、ほどではなくても「頑張ったことを他者から認めてもらう = 気持ちいい」っていう部分でね。

そう、きっと私は過去(または、いまだに)の自分を見ているようで、余計にイヤなのだ。

だからといって、それは「私が直してあげる」ことでもない。

もしかして、そのような「役目」があるのなら、いつか、それを言わざるを得ない状況に

なるかもしれないが(笑)、たぶん、私じゃないだろうと思える。

ショックな指摘ではあるから、それをしたうえで、上手にフォローでき、支えてあげられる人の役目になるだろう。

たぶん私にとっては、自分の学び。

そういう自分がいる(少なくともいた)ことを、改めて知ることができてよかった。

だからその点には感謝して、でも、わざわざそういう傾向を毎回、見つめるのはつらいから、

もう近づくのはやめよう、と思えた。

今後もそういうタイプの人はきっと苦手、うん。自分は自分で気をつける、それでよし、って。

もうひとつ、今度はメリットの話。

他者は自分の鑑、であるということは、自分が「いいな」と思える人、その「いい点」も、

実は自分のなかに内包されていることになる。

すでに発揮しているか、あるいはまだ表には現れていないか。

それは内容によってさまざまだろうけれど、「素晴らしいな」とか、いい意味で「うらやましいな」と

感じることは、自分がそうなれる可能性を示しているってことだ。

こちらのほうは、これからもっと、意識したいと思う。

いずれにせよ、どちらも自分を知るきっかけにはなるから、

気づいたからといってムゲに落ち込んだり、舞い上がったりするのではなく、

上手に利用していってもらえたら……と思う。

夕暮れ

少し涼しく感じられる風が吹いて

赤ちゃんの泣き声にセミの声が混ざり

スーパーからは夕方の特売セールの案内が聞こえて

どこかの家から夕げの香りが漂ってくる

空はまだ明るく

入道雲の上に三日月がぽっかり浮かび

帰り道を急ぐ人たちは

月に気づかず 歩みを速める

この国に起こっていること

世界で起こっていること

自分の周りに起こっていること

うれしいことも悲しいことも

たくさんあるけれど

私が今 ここから感じているのは

人の営みの強さと温かさと

生きているものや自然が垣間見せてくれる

美しさ である

それを感じとることができるのは

私が生きているからこそ

だから 今はただ その事実に 感謝する