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あなたが生きていい理由

昨日と一昨日に書いた話で、「死んじゃいけない」理由については、

あなたが心からスッと納得できるものがたぶん見つからないだろう、と書いた。

それは、たとえどんなにいろいろと理由を並べられたとしても、

「どうせ思いとどまらせるために言ってるんでしょ」としか、思えないだろうからだ。

そう、悪い結果しか考えられない脳みそでは、いくら道理を並べられても、悪いほうにしか受け取れない。

ダメって言われたって、と、禁止に反抗しちゃうのだ。

だから今日は、もうひとつの「こんな私であっても生きていっていい理由」について語ってみる。

こちらもまた、今、死を思う人にとって切実な話だろうから。

このテーマは、本当は、それぞれの人の事情をきちんとふまえ、

「あなたの場合の問題というのは、こうこう、こういうことだから“生きていていい”んですよ」と

個別に説明してもらったほうが、よりわかりやすいのだろうとは思う。

ただ、私はそうした仕事のプロではないので、ここでは、私が知り得た「事実」を中心に書いていく。

それをどう受け止めるかは、あなたの自由である。

ひとつめは、母親という存在から、あなたが生まれた、という事実。

生まれるまでの10ヵ月と、産後の肥立ちと呼ばれる体調回復までの1~2ヵ月、

ほとんどまる1年を、あなたが生まれてもいい、と思ったからこそ、費やしてくれた人がいる。

あなたは、その人が命の危険を冒してまで(比喩とか大げさな話じゃないよ。

死のリスクはどんなに医学が進歩しても、

妊娠・出産しようとするすべての人にある)、誕生させてくれたのだ。

先日、少しこの話を書いたときに、ひとつの卵子とひとつの精子の出会いだって

確率的にはすごい奇跡なんだ、というコメントもいただいたけど、それも本当だと思う。

で、ここからは、私の感覚ね。

そもそも最初から、そんな状況や確率を経て、奇跡的にあなたは生まれたきたのだから、

せっかく、生まれてきたのだから、今、病気になったからって、

無理して、そんなにメチャクチャ苦しい思いまでして、自分を殺す必要はない、と思える。

生きて、そこから抜け出して、その過程で何かを学んで、人生を新しく楽しくすることは、絶対にできるのに。

新しく楽しい人生なんて保証はない?

だいじょうぶだよ。死にたくなるほど苦しい今よりは、必ず楽しいよ、いろいろと。

自分のものの見方も変わるし、人への接し方も、勝手に変わる。勝手に、ね。

悪い方向ではなく、穏やかな方向へ。より深い方向にも、少しは進んでいける。

そして、それを自覚することもできるのだ。

なかなか面白いよ。それを感じ、また、変わっていく自分を観察していくのって。

さらにもうひとつ、私が知っている事実。

あなたという人は、世界中にたった一人しかいない、貴重な存在だということ。

これは「生物」としての「遺伝子」のなせるワザだけど、あなたとまったく同じ考え方をし、

あなたとまったく同じ外見で同じ行動をする人は、世界中に一人もいない。

その遺伝子のなせる「微妙な違い」が、世の中を変えていく。

あなたのとった行動、あなたの発した言葉が、それを受け止めた誰かの心に影響し、

たとえほんの少しであっても、何かを変えていく。

そうした一人ひとりの「ほんの少し」の思いが、歴史をもつくっていくのだ。

たとえば、ベルリンの壁の崩壊。

戦争によってある日突然、勝手に分けられ、親族や家族とも離ればなれになっていたゆえに、

壁の向う側へ行きたい、と願っていた人たちが、ニュースの報道を勘違いして聞いて動き始め、

同じ思いだった人たちがそれに続いて、やがて壁は壊れた。

そこには何の暴動も起きてはいなかった。ソ連の動きなど、さまざまな機運が高まっていただけ。

東西冷戦と呼ばれ、鉄のカーテンだの、竹のカーテンだのと政治的な欲で分けられて、

核兵器までつくって脅し合っていた「境界」が、人の思いと、歩く、という行動によって崩れたのだ。

だから、自分の願い、自分の思い、自分の考え、そうしたものを、卑下することはない。

たとえ職場ではたいしたことが言えなくても、家族に何かしら、よい影響を与えているかもしれない。

あるいは、友人に、通りすがりの人に。

「利益につながる」ことだけが、立派で重要でエライ意見では、決してないのだ。

だって人間は、働く機械じゃないからさ。「働き続けて稼げること」だけでは、生きていけない。

趣味的なことだって、遊び心だって、なんだっていいのだ。

あなたが感じることは、世界で唯一、あなただけの感性であり、基準なのだから。

それは他者に影響を与える。身近な他者、あるいはネットなどを通じて、通りすがりの他者に。

自分程度の人間は、いくらでもいる? 似たり寄ったりがどうして悪いのだろう。

並んで咲いているチューリップの花は気持ち悪い? 表現の違い、見方の違いで、意味は生まれてるよ?

しかも、その横並びに見える姿こそが、人に何かをもたらす。

平凡であることは、悪いことではない。まっとうに生きていける可能性を秘めている。

あり得ない余計な苦労を背負い込む可能性もまた、低いんだよ?

単純に「有名になりたい」「何かで人の上に立ちたい」なんて大雑把すぎる夢想をするから、自分がちっぽけになる。

実際、そんな人は努力した挙げ句に、変人と呼ばれたり、人にまとわりつかれたり、

その人自身が奇抜なことを思いつきすぎて、結局は法に触れて

塀の向こう側に落ちたりする(意味わかるよね?)可能性だってあるよ。

そんなに楽な人生だとは、私には思えない。

心豊かで人徳もあって、もともと代々のお金持ちで何の苦労もしていないように見える人だって、

家の中は大変な人間関係になっているかもしれない。

あるいは本当に、本当に素晴らしい人なら、そうであるように自分の心や生活などを、

さまざまにきちんと、戒めていらっしゃるはずだ。

何も苦労せず、いい加減に家族の金で遊び回っていても、本人の心がけが悪ければ、

お金を媒介にしたつまらない人間関係しかつくれない。

それで破産でもしたらその人にとっては一環の終わり、ってことになっちゃう。

そのとき、どれほど苦しい思いをするか。

いろいろ気づいていくために、どれほど大変な思いをするか。

たとえばそんなふうに、金銭の多い少ないは、楽しい生き方の条件のひとつにはなり得るけど、

「絶対的な幸せ」の条件ではないのだ。たぶん名誉も、権力もしかり。

社会的な成功者にみえる人が自死を選ぶのはそのためなのだ。

……ここまでは、事実だってこと、わかるよね。そんな人の例もいっぱい、挙げられるよね。

じゃあ、あなたにとって本当に大切なもの、あなたにとっての「一番、守りたい価値」を

新たに見つけていこうよ。そんな、表面的・物質的なもので、はかるんじゃなくて、さ。

同じお金でもそれを実現し、守っていくために稼ぐ、っていういうほうが、よっぽど楽しいよ。

それが実現できたら、あるいは継続できたら、こんなに幸せなことはないよね。

しかもそれは、唯一無二の存在である、あなたゆえにできることであり、得られるもの。

似たような才能を持った2人が同じ会社に勤めて同じものをつくっても、似たものはつくれるけど、

それはまったく同じではないでしょう?「品質基準」をクリアするだけだよね。

そしてそのまま、2人の人生は、まったく同じようは進んでいかないでしょう?

会社だけが人生じゃないし、その仕事だけがあなたのすべてではない。

さらに、あなたと相手はお互いに影響し合う。やっぱり、そうやって変化を起こしていくのだ。

だから、自分の力、自分がすでに今、もっているものを、そんなに否定することはないと思う。

あなたはこの世にたった1人しか、いないからさ。

今は、うまいかないことにすら、何かを見つける時間、くらいのつもりで、流れを静観してみようよ。

変化は、絶対「悪い方向に進む」とは限らない。ある意味、これ以上悪いほうへ向かう確率は低いんじゃない?

あきらめるな、なんて、余計に苦しくなりそうな、悲しいことは言わないよ。

せっかくの、チャンスなんだと言いたい。

自分のこれからを、見方を変えて、新たな楽しみにしていこうよ、と、私は思う。

そのために、これから少しずつ、病を治していこう。そしてやがて、行動していこう。

とてもシンプルなことだけど、今はそれだけでもう十分、いいんだと、思える。

それは新しいあなたへの、素晴らしい、そして大切な努力なんだよ、と。

自死、という選択肢についての考察(2)

昨日に引き続き、くだけた感じで話を進めます。

何度も言うけれど、どうして死んじゃいけないの? というあなたの問いに、サクッと納得できる答えを

出せる人は、そうそういないだろうと思う。自死の良し悪しについても、同様。

たぶん、その問いに答えてくれるのは通常、宗教関係とか、精神関係とか、

そういったことを扱う人になるだろうけど、

それでもあなた自身が、説明されたところで、納得できることはないと思う。

だって、もし答えがわかったとしても、

今の状態から即、抜け出せるわけではないからさ。

昨日、書いたのは、脳の作動が狂って「死」しか見えなくなってしまっている状態で、

それを選ぶことはないんじゃないの? 脳みそのミス、つまり病気ゆえの思いつきなのに、

ということ。

たとえばさ、不治の病にかかっているなら自死していい? 身体を動かせないから自死していい?

そういう理由ならあり得る、と思う人もいるかもしれない。

このまま周囲に迷惑をかけ続けるくらいなら、と。

いや、違う。はっきり言いますよ。自死されるほうが、周囲はよっぽどよっぽど、迷惑です。

精神的に、一生、死ぬまで、ひどい負担をかけてしまう可能性が、ものすごく高い。

その状態のあなたを支えてくれていた、「味方」である人たちに対し、

ものすごく大きな傷をあなたは与えることになります。発想がまったく、逆です。

迷惑をかけたくないはずが、最大の「あだ」で返すことになる。

まあ、もう、そんなことどうでもいいや、と思えるなら、

それもまた、病状が進んでいる証拠だと感じるので、

とっとと治療にかかったほうがいいです、と言いたい。

あなたの脳みそ、ものすごいミス状態になってますよ、と。

まず、普通に仲の悪くない家族がいる人、それから友達や同僚など、仲間がいる人。

昔、仲のよかった友達がいる、という人。

そういう場合は、その「親しかった人」全員を、一生、傷つけます。

何かあるごとに「ああ、あの人は死んじゃったんだな」と思わせる。

つらくて苦しい気持ちにさせるよ、間違いなく。

ましてや、両親やパートナー、子どもなど、一緒に暮らしている家族にとっては、大打撃です。

一生、泣き続けるかもしれない。比喩ではなく、ことあるごとに、思い出すたびに。

だってその傷は、あなたがいなくなっている以上、きちんとは治しきれないんだもの。

「起こってしまった」ことに対し、どうして? って、あなたに、確認しようがない。

残された人たちは、理由を一生、推測するしかない。

たとえ「家族に迷惑をかけたくなかったんだ」と遺書などに書いたとしても、

「なぜ私は、あの人の苦しみに気づけなかったんだ」「どうしてそこまで、

追い詰められたんだ。どうしてその前に、私は支えてあげられなかったんだ」と、

自分を一生、責める。

ひどいことを書いてるな、と思われるかもしれないけれど、実際、私は、仕事仲間を亡くしただけでそうなった。

身内でもなんでもないのに、自分を責めた。

その「自分を責める」思いは、程度の差はあれ、変わってないよ、今も。

たぶん、これは一生、かかえていくんだろうと思う。

有名人など、誰かが自殺したという記事を読むたびに、思い出すもの。一瞬でも、絶対に。

ましてやそれが、親しい人だったら……。

そんなこと想像したくない、悪いけど。それくらい、重くて苦しい「過去の事実」だ。

あなたは、「だって今、私はこんなに苦しいんだ! もう嫌なんだ、わかってくれ!!」と思うかもしれない。

でも、それで死ぬのは、最大の「ひどい甘え方」だよ。自分が苦しいから、親しい人も一生、苦しめ、ってこと?

迷惑を掛けたくないんじゃない。そんな美しい「きれいごと」じゃないよ。

要はそこから、抜け出したいの、あなた自身が。

あなたは、自分が苦しいことしか、考えてない。

自分のことしか、考えられないの、実際。

で、それが、脳みそのミス、誤作動だって、言ってるの。それが病気だと、言ってるのよ。

大事なのは「わかってくれ!」という気持ちのほうだよ。

「嫌なんだ!」ということを「わかってもらう」ことのほうが、今はよっぽど、緊急的に重要なの。

親しい人に対して、そんなことを告げられない? 恥ずかしい? 申し訳ない?

それなら、カウンセリングに行こうよ。無料の相談窓口へ行こうよ。「命の電話」へダイヤルしてみようよ。

自殺防止サイトにも、そういう相談先は山ほど載ってるよ。

そして、「あなたがそういう状態」であることを「情けない」「恥ずかしい」なんて非難する人は、そこには誰もいない。

自分の親しい人を、一生苦しめるような傷を負わせるくらいなら、

赤の他人に自分の胸の内を打ち明けるほうが、よっぽど、自分にとっても周囲にとっても、優しいよ。

それから、次。

親しい人なんて誰もいないし、仕返ししたい人が苦しんでくれたほうがいいから、

やっぱり死ぬよ、と思う人。

本当に、これまで何年も誰とも関わらず、完璧に、天涯孤独?

あなたの死後、あなたの身体を葬ってくれる人も絶対にいない? 遠い親戚も?

大家さんにも迷惑かけられないよ? ましてや飛び込みや飛び降り、首つりは必ず、死後のあなたの身体を

見つけた人が、係わらざるを得ないよ? 富士の樹海だってそうだよ?

海に飛び込む? 浮かばない保証はないよ? 海外? もっと大変だよ、大使館から連絡がいって

あなたの親類、係累の誰かが必ず割り出される。事件扱いだもの。

どだい今の時代に生まれてたら、誰にも迷惑をかけない、というのはものすごく困難だよ。

完璧に天涯孤独であって、他人がかかわらないで済むような、

絶対見つからないような状態で消えたいのであれば……

今なら宇宙空間、くらいだろうね。

仕返し、という部分については、はい、残念ながら、無理です。

あなたを憎み、苦しめてきた人なら、多かれ少なかれ、本人に自覚はあるだろうから、

前にも書いたように、「そんな嫌なこと」は、忘れようとします。

そして人間の記憶って基本、本人にとって有利なように働くので、やがて、忘れます。

思い返すことがあっても「ふん」でおしまい。だってその人にとって幸いなことに、

もうあなたが目の前に現れることも、二度とないしね。

今、ものひどく苦しんでいるあなたに対し、今日は私、きつい書き方をしてるよね。

ホントにひどい書き方をしてるよね。ごめんなさい。それは本気で申し訳ないと思ってる。

でも、周囲の人、という観点で書くのであれば、こういうことなんだ、とわかってほしいから。

「死」という選択肢は、それくらい、周囲にとってはひどいことなんだ、と、伝えたいから、こう書いてる。

何度も書くよ。あなたがそこまで苦しいのは、病気だから。病気で、脳がミスしているから。

あなたが「死のう」としてまで伝えたいことは、「この苦しみをわかって!」っていうことだから。

そしてそれは、死ななくても、わかってもらえるから。その苦しいところからは、必ず、離れられるから。

これだけは、自死を思い、自死を身近に2回もみた私の、経験から知った「事実」。

だいじょうぶ。死ななくても、ちゃんとそこから、脱出できるから。だいじょうぶなんだよ。

どうか、その思いをまず、どこかの誰かに、あなたが吐き出せますように。

心から、祈ります。

本当に今日は、きついことを書いてごめんね。

自死、という選択肢についての考察(1)

どうして死んじゃいけないのか、というテーマについては、その選択肢のまっただ中でもがいている人にとって

とても切実なテーマであることは、私自身も経験したので、重々、承知している。

だから、その「是非」については、本当は語る資格もないし、

語ったところで、納得はしてもらえないかも、とわかりつつ……。

そうなっていく「可能性」の問題や「結果」について、今日は考察してみたいと思う。

それがすなわち、今のところの私にとって「うん、無理して自死を選ばなくても……」と思う理由には

なっているように感じるから。

ただ、答えがない問題だから、今日はひとりごとのような、くだけた文章になると思う……。

すいません、その点はご了承ください。

そもそも自死、という行為そのものが、いいか悪いかなんて、絶対にひと言では語れないだろう。

歴史的にみても、武士はお家のための切腹が「アリ」だったし、明治~大正時代は恋愛心中も流行ったし、

神風特攻隊なんて……自死、とは言えないけど、みずから突っ込むことが国の名誉ですよ、名誉。

神風、知ってる? 「元寇」があった鎌倉時代に、元の船が2回も、日本海の荒れ模様で転覆しちゃって、

それを「神が日本を守ってくださっている」ってことになって、エライ学者さんとかまで、

それを信じ(たということになって)、戦時中、そういう名称がついたのだ。

はい、信心については、ここでは述べませんよ。人それぞれの解釈だから。

でも、そういう思いが根底にあって、荒れ海のような役目を人間が果たすことが「名誉」とされた時代はあったのだ。

……そう、過去を考えても、それがいいか悪いかなんてくくりでは、簡単に語れないのだ。

ただ、これだけは、事実だろうと思えること。

自死を選択するのは「苦しい」。

喜び勇んで、「やった、超ラッキー! これで本当に幸せになれるわっ♪」という気持ちで

それを選択する人はまずいないだろう。ドラッグで、自分をごまかしでもしない限り。

で、苦しいことは、いいことか? と聞かれたら、これは通常、あえて、お勧めはしないよね。

そこから学ぶことは本当にいろいろあるけど、「苦しみ」という学び方をする必要が、そもそもあるかどうか。

ほかに、もっといい学び方は、あるかもしれない。

さて。そのうえで書くよ。

私が、個人的に、できればその選択肢はやめておいたほうがいいのかも……と、

今のところ思える理由が、2つある。

そのひとつめ。

以前、「死にたい気持ちは脳のあやまち?
」というテーマで、ブログを書いた。

自死を望むのは脳みそのミスかも、という話だ。

これって結構、有力な説だと、私には思えるのだよ。

脳って、意外と簡単に、だまされやすいようなのだ。

たとえばこういう実験がある。割り箸を一本、横にして前歯で噛む。

口角の両端から、割り箸がはみ出すような感じね。

それで被験者に、しばらくそのままの状態でいてもらい、脳波をモニターしていく。

そうすると、脳から「楽しい、うれしい」っていう信号が、出始めるのだ。

なぜかというと

左右の口角が上がり続ける → 笑顔を作っているのと同じ → 楽しいと、感情で思っているようだ

って、脳が判断するからだ。

なんじゃそれ!? と思うでしょう。

暗い気分のときにこれを試しても、バカバカしくなって割り箸をくわえ続けられなくなるだろうから、

たぶん効果はイマイチだけど。

それに、何か行動しようと思う「ヤル気」だって、脳研究の池谷裕二氏によると「実際にやり始めてから出る」らしい。

行動し始めれば、その行動についてのヤル気が出て、継続・完成できる。

逆に言えば、やり始めるまで、ヤル気は出ないのだ……。

こんなふうに動作が先にきて脳が変化する、なんてこともある。

結構、いい加減な気がしない?

ってことは。

脳内の「楽しい、明るい気分になる」ための物質が、暗い気持ちを持ち続けて極端に減ってしまった結果、

脳みそが作動ミスを犯して、「死ぬかどうか」しか考えられなくなってしまう……ってことは、

十分、ありえると思うのだ。専門用語でこれを「視野狭窄(しやきょうさく)」っていうらしいんだけど。

ダメだから死にたくなるんじゃなくて、単純に物質的な変化のせいで「ダメ、死ぬ」しか考えられなくなるの。

理由が先、じゃなくて、脳が先。暗い気持ちを持ち続けた結果、脳が反応してそう思っちゃう。

しかもそれは「誤作動」。脳みその判断ミスの可能性が高いのだ。

で、なぜそんな誤作動をするかというと、これはもう、単純に、あなたが「病気」だから。

たとえばね。

風邪をひいて治ったあと、空気が乾燥してると、咳が出続けちゃうことってあるでしょう? 

これは炎症を起こしてるからだよね。それゆえ、信号が脳に達して、脳が判断して、咳を出す。

その場合は、マスクをして気管支内の水分を高めたり、咳止めを飲んだりするでしょう?

そうして、実際に咳を止めようとするよね。信号を、自分で止めるのだ。

ふつうの病気のときには、そうやって「脳の信号」を元通りにしようと素直に思えるのに、

どうして、「鬱」という病気のときには、自分が病気だと認められないのだろう。

自分の判断が正常でなくなることを、認めたくないのだろう。プライド? 恥? 迷惑?

あなたの思考パターンが、正常じゃなくなる病気であることは、間違いないのに。

そうやって、自死という選択肢すら一種の「病気」ゆえなんだと、私は考えるようになったわけです。

脳についての、この辺の話を知りたければ、本があるのでご紹介しておくね。

一応、アフェリアエイトを張っておくけど、大きい本屋さんなら在庫もあるかと思うので、

立ち読みでもしてみてください。以前の下園先生の本も張っておきます。

人はどうして死にたがるのか (サンマーク文庫)/下園 壮太
¥530
Amazon.co.jp

のうだま―やる気の秘密/上大岡 トメ
¥1,260
Amazon.co.jp

さて、私が考えるふたつめの理由は、これも何度か書いているけど、

「あなたの“味方”を巻き込み、ときには一生、ときにはその人まで立ち直れなくなるほど傷つける」から。

……これもまた、長くなりそうなので、明日以降に。