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苦しかったときのこと(1)

この話は、暗くなるとわかっているのだけれど……。

あのときの思いが、今の出発点になっているので、

最初に、書き記しておきたいと思う。

自分の、気持ちの原点として。

まとめてアップしておきます。

まずは鬱病と診断され、休職を勧められた頃の話から。

私にとって、最初の鬱病の自覚は「出社できない」ことだった。

朝ご飯を食べて、着替え、化粧をして。

畳の部屋なので、ぺたりと座りながら準備するのだけれど、

準備を全部整えたあと、さて、と思って、立ち上がれなかった。

足がなんだかふにゃっとして、ひざに力が入らない。

あれれ、と思っても、動けなかった。

そのうち、正座のように座ってしまい、

そのままぼーっとして、気づけば、電車を乗る時間を過ぎている。

そうやって、遅刻と休みを繰り返すようになった。

実は、無理しているという身体のサインは、もっと前から現れていた。

締め切りを抱えての、徹夜と終電帰りの日々。

終電で帰宅したときには、近所のファミレスで遅すぎる夕食を食べ、

自宅まで歩いた。

だいたい、その帰り道の途中で、自分が発熱していることに気づいた。

「あ、また微熱だ。寝てないもんなあ」

これを何ヵ月間も、何度も繰り返していたのだ。

今から考えたら異常な話なのだけれど、そのときは、

担当していた業務内容やクライアントの環境、諸々が過渡期だったので、

私の中では全部「仕方がないこと」だった。

すべての無理を、そのひと言で自分に納得させていた。

そんなふうにして、まともに出社できない日々が続き、ついに休職。

死にたくなるほどの苦しさは、ここから始まった。

~長くなるので、つづく~

はじめに

私は、今はもう、死にたいと思っていません。

まずこのことをご承知ください。

私が死にたいと強く願っていたのは2004年の10~12月、

36歳のときでした。

社会人となって以降、20代は、とにかく仕事を面白く感じ、

できることもだんだん増えて、充実していました。

恋愛も、こんなに惚れてもいいのかしら? と思うような恋をしたり、

結果的に籍は入れなかったものの、式までは挙げ、

お互いの親が認めてくれた相手がいたこともありました。

そんな私の人生が変わり始めたのは、30代に入った頃。

まず、当時おつきあいしていた人が、死ぬかもしれない大病を患いました。

彼とはいろいろなことがあり、結局は支えようとして支えきれず、別れました。

その痛手を、私は仕事で癒そうとしたのです。

自分の足でしっかり生きていくんだ、と、当時は思っていましたが、

何のことはない、つらさを紛らわすために

ワーカホリックへと走っていました。

そのまま、仕事のしすぎで、生まれて初めて鬱病を発症。

2004年10月のことでした。

自分を思いきり自己否定し、死にたいと思いました。

そのとき、私の死にたい気持ちをとどめてくれたのは、

12月に、友人が事故で急逝したことでした。

長い間、思い出を共有してきた仲間が急にいなくなる。

葬儀に出て、その悲しさは本当に文字通り肌身に沁みました。

さらには一緒に深く悲しむ仲間たちを見て、

ああ、少なくとも今は死んじゃいけないな、

彼女たちをさらに傷つけてしまう、と思ったのです。

そうして、とりあえずなんとか、時短で仕事場に復帰した半年後。

ちょうど同じ頃に鬱病にかかった知人が、再発病、入院の末、

自死を選んだことを知りました。

そこから2年後にはさらに、知人の自死で悩んだことがきっかけで、

鬱をわずらった別の知人も、自死を選びました。

それぞれのときの周囲の動揺、悲しみ、混乱状況、そして自分の胸の痛み。

どうして私は、次々とこんな経験をするのだろう。

どうして私は死なず、知人たちは死ぬことを選んだのだろう。

そんな思いがずっと心に残りました。

私の自死そのものは、そうした経緯から「できなく」なりました。

残された者の悲しみが、自分自身の胸にこれほど突き刺さっているのに、

「次に私が死ぬ」という選択は、もうできませんでした。

たぶん、こんな形で死を思いとどまったからでしょう。

「生」を選び、未だ100%ではないかもしれないものの、徐々に立ち直ってきた私が、

本なども読みつつ、これまで考えてきた「生と死」のこと。

それを、綴ってみたいと思いました。

今、まさに、あの苦しい苦しい二択にとらわれている人のお気持ちが、

少しでも変わるきっかけになれば幸いです。