木元見春 のすべての投稿

”存在として大丈夫じゃなくても”

自分が、自分のことを、

ゆるして優しくなってあげる。

そこ理由はいらなくて、

気づき、だけでいいのだと。

 

そういうことを感じさせてくれた記事を、リブログします。

にゃあさん、書いてくれて、ありがとう。

 

『存在として大丈夫じゃなくても』
http://amba.to/2a7fiRJ 

 

2016_07_17_1

Photo by beeki
Pixabay

 

昨日のつづきで ついでに究極の押し出し記事もご紹介

昨日 書いた文章のなかで(久々に自己リンク張ってみよう)

『自分にもダメな「面がある」と 冷静に見ること』

という表現 使ってみたけれど
  ↓
◎自己否定は必ず 比較と関係しているよ
http://miharu.feeling.jp/?p=3907

 

そもそも その「ダメ」って あなたの主観で

しかもあなたの そういう種類の主観って

「絶対」とか 「そうじゃないといけない」ものではないことも 多いと思えるよ

 

それは

あなたが 勝手にそう思うことに「決めている」

だけの話

 

だからそれが苦しいなら

決めているのは自分なのだから やめれば? っていうことなの

 

たとえば ケンカしたときに 相手から

苦し紛れに言われた「悪口」があったとして

 

その相手は 苦しいがゆえに 

黙らせようとして あなたに八つ当たりの 罵倒言葉を吐く

そういう手法 やり方を使うのは 「相手側の問題」ゆえなのだけれど

それをいちいち 「事実」とか「やっぱり」とか「私のせい」とかいうふうに

受け止めて信じてしまうのは「あなたのほうの問題」

 

そこで信じてしまうのは

「すでに自分が 薄々にでも そう思い込んでいた」からで

そう思っていなければ

「は? 何それ」

な 謎の話になるわけです

 

わかる?

あなたがすでに先に 自分に悪口 吐いてたのよ

相手が言い出す前にね

 

自分は日ごろから 自分を罵倒しまくっておいて

他者がそれに『乗じて』同じことをやってきたら

とたんに

「傷つけられた! ひどい!」

とかいう被害者モードになって しかも恨みが晴れなかったり

 

そういう人は ほぼ間違いなく

あなたがそれを 先に自分に言っていて 

すでに自分を 傷つけていたのよ

 

痛いところを突かれたから怒るの 

被害者気分になるのは

自分の「どうしようもない」感情を投影して 

相手のせいにしている部分 思い切りあるのよ ってこと

 

だから 自己罵倒を「なぜ自分が選択するのか」を知って

それを手放すことで

そんな傷つき方も する必要なくなるんだってば

 

大切なのは 

「他人からそんなことを言われなくなるようにする」

ことじゃないの

なぜ自分がそれを信じて

今まで自分に投げつけ続けているのかってこと

 

そもそも自分に 他者との違いがあったとして

それがなぜ「悪」だと 決めつけてるの?

 

たとえば よ 鼻が低いのは 悪

高すぎるのも 悪

へえ それが「悪」だから それが「原因」だから

悪いこと起こってるんだ

鼻が低いから あなたは言葉で殴られたりしたわけだ

 

違うよ 他者との違いを悪く捉え

そうなるに決まってると あなたが信じてきたから

その出来事が起こったら必ず あなたがそう解釈するだけだよ

 

相手の八つ当たりを「ほらまた『悪』だっていう証拠が出てきた」って

お菓子のオマケ集めみたいに せっせと溜め込んで

「立派な事実なのよっ!」って ずっと自分に差し出してるだけ

 

鼻が低くても あなたが言うところの「幸せな人」なんてゴマンといるのに

そこは一切 スルーですよ

だって「思い込みたい事実に」反するからね 都合が悪いものね

 

あなた自身の悪は あなたの言うところの 自分のダメは

ただの「ひとつのものの見方」であって

悪でもダメでもない

ってことに 気づいていってくださいますように

 

最後に 心屋さんが ある種の究極の

「ところてん押し出し型」チャレンジの 

記事を書いてくださっていたので 紹介してみるね

ここで言うバットは 

比喩に解釈してもいいし 実際に「持ってみる」のもいいと思える

(相手を ころ す ことまでは 正当化してません 

それは激情型の「意見の押しつけ」で 相手とまったく同じやり方だから)

 

要するにそれくらい覚悟して 本気で 自分の感覚に向き合ってみろや

 

ということを 他者のためにわざわざ

こういうふうに表現できる「心屋さん自身の覚悟」には

本当にいつも 頭が下がります……

 

◎心屋仁之助 さん
『★虐待する親が神って??』
http://amba.to/29EEdah

 

2016_07_16_2

赤じゃないといけないのに と 決めつけ 言い張るのではなく
私は赤が好きで大事 それが私の「好み」なのよ と
ただ それで いいのにな

Photo by AlexanderStein
Pixabay

 

自己否定は必ず 比較と関係しているよ

自己否定の気持ちは

理想や願望と 今の自分とのギャップによって

生まれるものだけれど

 

そういう「否定」に至るような願望の場合って

必ず比較して ギャップを感じているわけだよね

 

で 今の「自分の度合い」を測るためには

必ず「他者」の存在を必要とするのよ

 

だって 他者がいなければ

自分がどの程度なのか 測りようがないじゃない?

 

つまり 自分を嫌いになるためには

他者との「差」を否定的に捉える必要があるの

 

でさ さらに 差 つまり 単なる違い を

自分がわざわざ否定的に捉えるときって

必ず タテ目線使っているわけ

あっちのほうがいい 優れているのに私は

っていう形で比較してる

 

そういう比較のタテ目線のことを

優劣とも呼ぶの

 

つまり あなたの自分嫌いが「自己否定」にまで至っている場合

(自分にもダメな「面がある」と 冷静に見ることと

自分を否定してバカにすること この2つは まったくの別ものです)

自分に思い切り 優劣という採点 つけているのに

他者と自分を 比べてはいないと思ってる……のかな?

 

そしてそういう状態を 苦しいと感じているんだよね 

だったら 

どうやったら タテ目線の「優劣感覚」でなく 

横並びでの 他者と自分の

「違い感覚」のほうへ 自分の感性を変えていけるか

その方法を 知ったほうが 

自分がラクになれるんじゃないかな?

 

それは逃げではなく 勇気を出すか出さないかの問題なんだよ……

 

でね

タテ目線を 横並びに変えるには

「なぜ私が タテ目線しかないと今まで信じてきたのか」を

解きほぐす必要 どうしてもあるのよ

 

そこの理由を知らずして 無理矢理 

横目線 横並びの練習 したところで

自分が 横並びであってもいい理由 を確信できるところには

なかなか 至りにくくて

やがては自分がタテ目線であることを 今度は

新しく 否定し始めるようになるだけだと思うのよね……

 

横並び感覚に「ならなくちゃいけない」 などと 

また「~べき」論を持ち出して

自分に禁止事項増やす羽目にもなるしさ

 

横並びの感覚って 自分の中で腑に落ちて 初めて

勝手に「そうなっていく」ものであって

「自分にそうさせるべき」ものでは まったくないのよ

 

どれほど自分が辛かったかを延々 語り続ける人が

それで周りを幸せにすると思う?

どれほど自分のことが嫌いかを 熱弁しまくれる人が

聞いている人の「痛みを感じる心を刺激」しないでいられると思う?

 

わかるかな その状態のまま 自分自身が よ

他者との横並び感覚 

頭でなくて感覚でつかめて 理解できると思える?

 

他者に何をしてるか じゃないのよ

自身が どんな環境を 自分に与えているか の話

 

そして こう書いた瞬間

きっと 「語りまくり」をやっている人は

「他人に迷惑かける やっちゃいけない」

などと速攻 禁止に走るのだろうけれど

いいえ タテ目線に自分が「はまってきた理由」を知って解放すれば

禁止なんてしなくても そんな訴えや熱弁が「いらなく」なるの

する必要がなくなるのよ それを見つめなくてもよくなるから……

 

禁止することと 自然にやらなくてもよくなることが

全然 違う種類のものだということは わかるよね

禁止の場合 必ずそこには意志の力が必要なこと 知ってるよね

 

この場合の意志って 

「頭で考えて無理矢理 自分に強制させる」ことだから

頭が(=身体が)疲れている日には そんな強制 できなくて当たり前で

なのにできなければ きっとあなたは 

その状態をまた 自分を罵倒する材料に使うよね……

だったらやらないほうがマシなんだよ 禁止なんて

 

考えちゃいけない!

というのと

そういや前は そんなこと考えてたっけ

になること

これらは 意味も種類も感覚も 違うこと わかるよね?

 

あとね ちょっと話を別の言い方に変えてみると

心屋さんの手法は 『ところてん』みたいに

ぐいぐい「違うやり方」を自分に入れて

過去の「自分にとって違和感のある『常識』を 

押し出して手放す」ようなやり方なのだと 私は捉えていてさ

 

ブログによく書かれている

「自分を素晴らしいということにしてみる」という手法は 

「ひたすら入れていく」やり方だと思えているの

 

でも「入れる」「押し出す」ためには 最低限

伸び縮みする袋か

少なくとも「空白のスペース」は必要で

それがあるから ところてん方式が使えるのだと

 

ところが ですよ

ガチガチの「~べき」 ガチガチの理想

そこにとどまって 比較を続けている状態って

そんな伸縮や余白 全然ないのよ

新しいモノを 押し入れ 古いモノを押し出していく

そのためのスペースさえないの 

鉄の箱に鉛の玉 ぎっちり詰まってるようなものだからさ

 

だからね やがて 

言われた通りやってるのに パッカンできない! って怒り始めて

またそこで 

私が劣ってるからだ! という罵倒の理由に変えたくなったりするの

あるいは心屋さんを 嘘つき呼ばわりするとかね(笑)

 

「ところてん的なやり方」を 上手に使いこなすため

ぎゅうぎゅうの心の鉛の玉を 捨てたほうがいい人もいて

その人の場合 やはり自分に優しくしつつ

(なんせ その鉛と鉄箱 どちらも重くて疲れるのよ)

鉛の玉そのものを見つけ 手でつかんで捨てていく方法も

同時にやったほうがいいと 私には思えるんだよね……

 

でさ 鉛の玉を つかんで捨てるためには

何が「自分の鉛の玉」なのかを 知る必要はどうしてもあって

それを知ることが出来るのはまた 自分しかいないんだよね……

 

ということで 自分がタテ目線のなか「だけ」で生きているなら

それはあたなたにとって ひとつの「鉄箱」で

その鉄箱のなかにこそ 

捨てれば 自分をゆるめられる鉛玉が入っているのだ ということを

どうか自覚していってもらえたら と思います

 

ところてん方式は 楽しそうに見えるけれど

そのためにも スペース つくっていってほしいと願うよ

鉛のほうも 風船くらいに 

押し出しやすいものに変えていって欲しいと願うよ

 

鉛がぎゅうぎゅうに詰まった鉄箱を見つめ 

鉛玉を取り出して手放すのって

たしかに重たい面はあるけれど

「大きな解放」へと自分を導くことになるよ……

 

と 今日も長くなったわ ごめんね

 

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Photo by jackmac34
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