カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

経験と思いやりと

たとえば過去に ある出来事を自分が経験していて

その後 身近な人が それと似た経験をしたことを 知ったとする

 

そのとき 自分の過去を振り返って

ああ 似ているな と思うことはできるけれど

あなたの経験と その人の経験は 同じ ではない

共通する部分が「あるかもしれない」というだけの話だ

 

相手の気持ちや感情が わかるようでいて その 「わかる」と思える部分が

厳密には違うのだということを 私は いつも肝に銘じるようにしている

 

あるいは

自分の気持ちを 相手にわかってもらえないとき

「あなたには こんな経験がないから わからない」というふうに

相手を非難することが もしかしたら あるかと思う

 

でも たとえ似た経験をしていたって 厳密には「違う」のだから

あなたの 今の感情そのままを すべて 完璧 100%

相手が把握し 理解できることは ありえないし

経験を積んでいるほうが「上」だとか

「わかっている」「知っている」ということでもない

 

言い換えれば あなただって その経験を

ある状況 ある環境 あるタイミングにおいて

一度か あるいは 数回 経験しただけなのだから

それが「すべて あるいは よく知っている」ことには

厳密な意味において ならないのだ

 

でも ありがたいことに

私たちには 想像力があり

私たちには 共感 という力もある

たとえ似た経験は していなくても

相手の気持ちに寄り添い 苦しいのですね と受け止め

心情的に そばにいてあげることは できるのだ

 

だからこそ 人は 他者に話すことで

力を 救いを もらえたりもするのだ

 

そうしてあげたい と思うなら

また 自分が苦しいときには いずれ 力を借りたいのなら

まず先に 「自分から」 開こう

相手へ思いやりを示し

受け止めてあげる 小さなことでいいから

 

風邪を引いたみたいで のどが痛い と聞けば

そうか のどが痛いのは つらいですね と

まず 受け止めてあげていいのだ

そこでいきなり「私は『○○のど飴』で治しましたよ あのときはね……」

というふうに 自分の話に切り替えたりせず

まず 相手の話す言葉を 聞こう

 

この「先にまず いったん受け止める」というやり方は

先日もお伝えした 渡辺和子さんの本の続編『面倒だから、しよう』や

岸見一郎さんの『困ったときのアドラー心理学』にも載っていて

心理学的にも 説話的にも 大切だと語られているポイントだ

 

そして 相手が 何かよい方法がないかを探していると もし言えば

そのとき初めて のど飴の話をすればよいのだと思える

意識しないと なかなか難しいかもしれないけれど

それが「思いやり」を さらに深い「思いはからい」へと進めるやり方だと

私には 思えるのだ

 

もっと小さな たとえで言えば

街で見かけた 困っている人に 手を差し伸べるとき

それは「親切」という別名もある 思いやりとなる

でもその際 どうしてほしいのかを その人に確認しなければ

その親切が「無駄」になることもある

スクランブル交差点で 相手が右へ渡りたいのに

うっかり正面に渡ってしまったら  二度手間だよね?

 

もちろんそんな状況は 街で見かけた人に対しては

普通は起こらないだろう だってこちらが「どうしたいか」自然に尋ねられるから

 

でも それが 身近な人であったら どうだろう?

きっとこうに違いないと決め 押しつけたりは していないだろうか?

さらには こうしたら喜んでくれて もっと私のこと こうしてくれるに違いない と

取引の材料に ときには使ってしまっていないだろうか?

 

自分にだって 自身の気持ちがわからないこともあるのだから

相手の気持ちや感情や考えは やっぱり確認したほうがいいよね

相手が望むことを してあげたとき

それは「思いやり」を「思いはからい」へと 進めることにもなるのだから

 

たまたま最近見た ネットのニュースで

「自分の社会的権利」の正しさを主張し

それを『認めてほしい』があまりに

他者の欠点を さらし出し おとしめるようなやり方をしている人を 見かけた

せっかくその「主張」が 社会的検討に値するにも関わらず

そこに現れていたのは「自分勝手で傲慢な 子ども」のような人の姿

 

残念だよね その人は本気で 相手を思いやることを拒否し

自分の権利のみを 主張していて

思いやりなんて示すと 他者はつけ上げる一方だというようなことさえ言って

私たちは正しいと 言い張っていたのだから

 

どんなに 主張に「ある種の正しさ」が含まれていたところで

その証明のために 他者の弱い部分をあえて いたぶり さらしている段階で

情報を知る側には 生理的な嫌悪感が生まれて

たとえその主張の「内容」はいつか通っても

「その人自身」はきっと いつまで経っても 認めてもらえないだろうと思える

 

思いやりを与えれば与えるほど 相手は増長するに違いないから

こっちは損をするだけだ という主張の仕方は

悲壮ささえ 感じさせてしまうのだ

 

絶対に 還ってくることが決まっているのなら

まあ 自分が先に 思いやりを示して「あげてもいい」よ だなんて

それは思いやりでなく 上から目線の ずるい取引 だよね……

 

還ってこないことも 確かにある

せっかく思いはからいにまで 進めても

相手が「ありがとう」を返さないときだって 確かにあるのだ

 

でも 「それができた自分」については 何も後ろめたさを感じないで済むし

もし還ってきたら そのときは 心がホッコリするよね

 

だから 自分がスッキリするために  「先に」思いやりを示し

さらには ときに 心が温かくもなれたほうが

結果的には より 心地いいと思えるんだ

その際には 最初に言ったような 「経験からの勝手な想像や決めつけ」でなく

相手を「まずいったん受け止めてあげる」余裕も ぜひ 意識して……

 

目の前のひとりに しかも 小さなことでいい

あなただからこそ できる 優しい示し方が きっとあるはずだから

互いの気持ちが循環し合う ホッコリな心地を

たくさん味わえる人生であってほしいと 願う

 

2014_08_30_anthurium

 

 

開き直る、という感覚

これはとくに、がんばってきた人、

あるいは「他人が怖い」人に向けての話……だけれど。

 

この2つはぜんぜん、違うものであるようでいて、でも実は、

その根っこには同じ部分があるのかも……と思えている。

何が同じかというと「自分を何かしらの方向で、良く見せたい」という願望の部分で。

 

もちろん、あなたにはもともと「良い部分」がある。

今の段階では、それを「信じられない」人もいるかもしれないけれど

もし万が一、100%悪人、っていう人がいるとすれば、

そもそも「がんばろう」とか「他者の目が」なんてこと、

気にしない……と思えるのだ。

だってたぶんそういう人って、本気で自分の都合しか考えないから。

 

他者を気にする、ということや、自分を自分でなんとかしよう、と思えること。

それは「他者のこと」をちゃんと意識し、考えられる人、ってことなんだと、

私には感じられるのだ。

 

で、こうした人たちに共通するのは

先ほども言ったように「良く見せたい」(良くなりたい)という願望、かな、と思う。

でもそれって行き過ぎると「見栄」につながる。

この「見栄」が、扱いを間違えると「自分に嘘をつく」ことになる……。

過去の自分を振り返ってみたときの経験もふまえ、そう思えるのだ。

 

強がり、意地っ張り、その反動としての「後から湧く」自己嫌悪。

見栄を重視し過ぎて、本当に自分が望んでいること、を超えて、

自分に無理をさせたり、自分を「ごまかしたり」する。

それはやがて「望んでもいない自分」を演じようとすることにつながる。

なぜなら、それをはるかに超えても気づけなかったり、

逆に「できない」と決めつけて怯えさせたりするから……。

 

ゆえにそれが、やがては「自分に嘘をつく」ことへつながる。

「望んでないもん!」って意地をはって「求めるものを見ないように」したり、

「もっともっともっと、きちんとできないと!」って、

すでにできてる部分まで「自分で見えなく」したりする。

 

今、現在、できていようと、できていなかろうと。

そもそも、そこまで完璧に、できなくていいのよ。

「いい加減」は「良い加減」でもあって、

できなさ過ぎるのも、でき過ぎるのも「度を越している」ことになる。

 

その「見栄」、そこまで必要じゃない。

必要だと「思い込んで決めつけている」のは「今の」あなた自身であって、

そう決めつけていることが「今」、まさにあなたを苦しくする。

 

実はそれ、ちょっとでいいの。少しずつでいいの。

やらないより、やったほうがマシ。そんな程度。

もう一度繰り返すよ、過ぎたるは及ばざるがごとし、なのだから、

やらなさすぎも、やりすぎも、「度を外れている」って意味では同じ。

だから、やりすぎる人がやってない(怖くてできない)人を

見下したりバカにするのも、実は違うし、

やってない人が「『やってる人』ってきっと、私をバカにしているに違いない」って

勝手に決めつけ、すねるのも、ある意味、失礼だよね。

少なくともその相手は「すでに実際、チャレンジをがんばっている人」なんだし、

そこですねたら、まるで逆恨みしているようにも、見えてしまうかもしれない。

 

ねえ、まずは、自分に「嘘」をついたり「ごまかし」をすること自体、やめようよ。

求めるのはいいことだよ、それ自体は全然、否定しないでいい。

でも、「自分で自分を『素晴らしい!』と自画自賛できるところまで」

求めすぎると、動けない、あるいは動きすぎることになる。

 

そんな自画自賛って、もしかしたらただの「自己満足」にすぎないのかも。

そっちを求めることによって逆に、

他者の心を「思いはかる」視点、消えちゃうのかも。

もったいないよね、そもそも今すでに、持っているのに。

 

怯えも、やり過ぎも、「見栄っぱり」すぎる自分がいるから。

失敗したっていいのよ。っていうか普通はみんな、

「失敗しながら」練習してる。

練習しないと上達しない部分は、確かにあるからね。

当然そこでは「失敗」(と自分が感じること)だって起こる。

 

必要なのは「何度、失敗してもいいから、いつか望む方向へ行こう」という

自分の思いを大切にできること、なんだと思う。

それを「開き直り」と呼んでもいいのだと。

ふてぶてしく、態度をわざと悪くするような「開き直り」ではなく

「いずれ、できるようになりたいから」の、静かな、ひそやかな決意の開き直り。

 

それは決して「厚かましさ」にもならないよ。

「練習の積み重ね」の原動力、につながるものなのだと思える。

 

だから、あきらめないで、よい意味で

「開き直って」ほしいと思う。

練習って「こうやったら、なるほど、うまくいく、あるいはいかないんだな」っていう

「方向性の確認」なのだから。

それって失敗、というより、

エジソンの言うように、1万回でも、方向性を確認してみて

「うまくいかない」部分と「うまくいく」部分を少しずつ、自分で体得すること。

だからこその「練習」なんだって、ことだと思う。

 

「自分が望む」段階ですでに、その能力はあなたの中に「ある」のだから、

あとは「自分が心地よい範囲で、上手に、バランスよく表現できる」方法を、

練習、するだけだよ。

 

ぜひ、あきらめないで、開き直りつつ、やってみてください。

いっときバカにされたように感じようが何しようが、そんなのどうでもいい。

あなたの求めるものは「その先」に必ず待っている。

練習して体得した先に「感じられるもの」は、きっと

とても素敵なあなたの「開花」になると、私には思えるから。

 

  よい開き直りで、順番に、「本当の花」を咲かせていこう。少しずつ。

 

 

今、何もできないからこそ、次がある。だから

できないときは、できないという状態を、しっかり、

感じていてください。ただ、それでいいのです。

その経験が、あなたを次の世界へと導きます。

 

渡辺和子さんの本を読みました。

タイトルを見て最初は「我慢が美徳」という内容なのかと思いましたが、

苦しみのなかにあってもまず、

自分が「自らをそこで咲かせてみる」ことが、

「自分のための『次』」へとつながっていく、というお話でした。

 

自身にも、他者にも、勇気を持って愛で、接するということ。

自分が、自分を、咲かせるということ。

文句をつけ、怯え、心配し、自分の未来を限定したり減らすような生き方でなく、

確かに、自分が咲く生き方を、自分で選んでいっていいのです。

 

できないときは、できないまま、そこで少し、待ちながらでいい。

理想を、以前のように巨大なサイズで「持ちすぎる」必要が、そもそもない。

できる範囲で、どんなに小さくてもいい、「自分から」咲く。

 

もちろんそこには、「選ぶ」勇気と「結果を引き受ける」責任は生じます。

でも、何もしないまま、自分に失望し続けることを

「選択しなければいけない」理由など、

本当に何もないのだと思えます。

 

暗闇を経て、初めてわかることがある。

そしてその後、薄明かりに移動してみて、またさらに初めて、

そこから先の新しい「世界」が見えていきます。

 

二・二六事件のとき、自分の1m先の目の前で、

父親が30人の敵に囲まれ、銃弾に倒れるのを目の当たりにし、

修道院に入り、たぶん、途中で結婚より修道を選ばれ、

若くして責任の重い仕事に就き、鬱による入院を経験され、

死をも考え、膠原病の治療による脊髄圧迫も経験された女性……。

 

その方の言葉は、キリスト教の用語を使われてはいるものの、

カトリックのシスター、という視点を超えたもの。

まさに苦しかったからこそ、会得されたものであると、

私には思えました。

 

なぜわからないの? と言って相手を攻撃したり、

言うことを聞かない人を殴るのでなく、

また、自分をむやみにそこで押し殺したりせず、

まずありのままに、自分から咲く。

 

すぐには受け取ってもらえなくても、陰徳を積むことのほうを選ぶ。

 

それによって「自分が」穏やかにいられるのです。

わかってくれない、と、押し付けたり、心で泣き叫ぶ必要はないのです……。

その相手がたとえ、自分の子どもであっても。

 

別に「暴力」については書かれていませんが、

なぜかそんなことを思わされた本でした。

他者へ「痛みを与える」ことは、結局、自分を傷つけるだけなのだと。

その反対に、見返り(効果)を期待せずに「愛を与える」ことは、

自分を「結果的に」、穏やかで豊かな気持ちにしてくれるのだと。

 

何もできないときにこそ、読んでほしい本です。

まさに、そこからでいいのだ、そこにいること「こそ」が、

この先、自分にとっての深い意味を、持たせられる。

それを感じられる本だと思います。

 

連続での書籍紹介を、こちらのメインブログで展開するのは

初めてですが、「自分の命」「自分の生き方の姿勢」について

説得力があったので、伝えたくなりました。ご理解ください。

 

Amazonリンク張っておきます。アフィリなしです( ̄∀ ̄)

2014_08_23_watanabe_okaretabasyo

『置かれた場所で 咲きなさい』
渡辺和子 著  幻冬舎 刊 ¥1,028