カテゴリー別アーカイブ: 生きるか、死ぬか。

自分を愛する≠自分だけを愛する

今日は誤解が生まれないように配慮しつつ、

ほぼ自分のために(ごめんよ(^_^;)、そういうのも必要なのさ)書く。

 

自分に自信を持つって、つまりはきちんと「自分を信じる」こと。

信じ「られる」という可能性の話、を越えて「それがデフォルト」になっていくこと。

そういう過程の練習なんだよな……と思う。

 

私は何かが上手! と「他者に自慢できる」ような部分を持つこと、が

自信、と解釈されがちだけれど、それさえも結局はまだまだ、

「自分自身へそう言い聞かせて、自分こそが本気で信じようとしている」

その練習の最中であると思うのだ。

 

で、最近、2つの種類の「言い聞かせ」を実践されている人たちに注目していて、

1人の方に対しては、読者登録をあっさりしたのだけれど、

もう1人の方については、うむむ、と引っかかってしまって、登録まではいかない。

どちらも、とても強いし、

私の好きな「オッサン要素」的な割り切り(笑)もお持ちだし、

肚も座ってらっしゃるのだけれど、

なんていうのだろう、『自己愛、かつ、他者からの愛され要素』の方向性が、

「女性を含むけれど男性側にわりと理解されやすい」か、

「男性を含むけれど女性側にわりと理解されやすい」かの違い。

 

わかりづらくてごめんね~。要はどっちのほうがすんなり、

私が心に落とし込みやすいか、だけの違いで、

お2人とも本当に、練習の仕方がすごいの。

言ってしまえばどちらも女神(笑)

 

自分を『本気で』愛すると、他者のことも本気で愛するし、

他者からも本気で愛される。

本気で愛する他者を守れるし、直接の関わりがない他者への愛、

つまり人間愛的な要素も、しっかり現れる。

 

妬んでくる相手がいても気にしなくてよくなるし、

自分が必要とするなら、現実的にも他者によって守られる

(そういう存在がちゃんと現れる)。

 

これって、強い、としか言いようがないのだけれど、

母性的な愛って本当はそういう強くて大きな受容も含む。

だから、強さをPRできても愛が伴ってない、または

愛があっても強さを含んでいない、なら、どちらも

自己愛の言い聞かせ=自信、の練習が足りていない証拠と言えるのだ。

 

たとえば直接的利害のない他人の言動にケチをつけているなら、それは、

まだまだ「こういう私を認めてよ!」ってやってるってことで、

つまり「私を認めてよ!」ってやってるってことは

あなたこそ自分を信じられてないじゃん、それ

って話なわけです、やっぱり。

そういうふうには、他人を使うなよってこと。

 

あ、なぜ、語尾が「じゃん」なのだろう(笑)

関西弁でも言っておこう(爆)

自分こそ、自分のこと信じられてへんやん、ソレ

こっちは1つめと2つめの「自分」の違いを感じてくれれば幸いです(爆)

 

とまあ、おふざけもほどほどにして。

遠い他人に批判をかぶせる暇があったら、

私も自分のこと、もっと愛する練習をしようと、思えるのだ。

まあ、自分の周りの状況では、まだまだプチなところから

練習してみるしかないのだけれど。

 

たとえば最近、本気でかの「お姉さん」の妙な言動をスルーしていたら、

どうやら他の人よりは、ずっとイライラしていなかったらしい。

それに気づいて周りの人に笑ってもらい(本当に無視できてるのねー、と)

ああ、なるほど、じゃあ私、ラクじゃないか、とわかった。

いちいち彼女の言動にチェック入れないから、イライラしないですむ。

だって本当に、自分とは違うだけだから、どうでもいいんだもの。

 

ごくたまに、そのイヤミな態度があからさま過ぎて

噴き出してしまうため(2週間に一度くらい?)、

きっと彼女から、腹は立てられているだろうけれど。

 

彼女の、社会性の面でのお子様加減が、笑えてしまうこと。

さすがにそれまで私から遠慮して、我慢する必要はないかな、と。

 

この前なんか、ついうっかり「へえ~」とだけ、返事をしてしまい、

そのまま平然としちゃったしね。

実は私に対し、珍しく自慢PRしたつもりだったろうに、ゴメンよ(^_^;)

あとからそれに気づいたから、修復もせずでした。わ~(笑)

 

こんな感じで、さすがにお姉さんを愛するところまでは

いかないけれど、放置はできつつある。

つまりは、

私は私でいいの。

だからこそ、他者もまた、他者のままでいいの。

という練習をするのって、あくまでも「結果的に」だけれど、

自分が楽になれて、しかも勝手に強い人に

(周囲からもそう見られるように)なっていくってことなんだな、と。

 

あとはね、その受容、に、自分が母性愛(笑)的な要素を

ちゃんと組み入れて表現できるか、ってことです。

PRでなく、自然に含めた表現を使えるように練習するってこと。

 

これ、自分が女性だからやるわけではない。

男性でも、できている人はできている。それは最近、気づけるようになった。

ただ性別が違うと「表現の仕方」が少し変わるだけなのよね。

見守り方、その要素と、表現方法の違い。

 

私にまだまだ、練習が足りないのは

「女性だからやりやすい、通じやすい表現方法」の部分であり(笑)、

そこは本当は、読者登録をまだしていないほうの、

もう1人の方が参考になるんだけれど……。

まあもうちょっと、自分にいろいろな許可を出す練習のほうを

やっていこうと思えている。

 

いずれにせよ、本気で自分を愛すれば、他者のことも批判しなくなっていく。

究極の自己受容は他者を排除しない「で済む」ことに、

気づけたことを感謝。

 

最後に、2人の女神について、感謝のリンクをば。

強くてたくましくて、愛らしいお二方、

当然どちらも、心屋さんのいうところの「突き抜けた前者」です

(前者・後者の説明については→こちらから)。

あーうらやましいな、最強前者♡

中途半端な前者は、エッセンスをもらって学ぶのみ♪(笑)

 

◎美女養成講座☆高橋ナナ さん
http://ameblo.jp/at-last/

 

◎子宮委員長 はる さん
http://ameblo.jp/jj-haru/

 

私がまだ読者登録できてないのは

もちろん、はるさんのほうです(爆)(^▽^;)

 

2016_03_02

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Pixabay

 

私のために

私は

私のために 悲しんで

私のために 怒って

私のために 泣いて

私のために 相手にあきれて

 

私のために ご飯を食べて

私のために 飲み物を摂って

私のために 私って小っちゃいなー って笑って

私のために でもそんな自分が少し愛おしいや と思って

 

私のために もう 落ち込むのも ジワジワ減らしていこうと決めて

私のために 柔らかい布団で寝て

私のために 髪を梳かして

私のために 少しお化粧して

 

私のために あんな人やこんなことにわずらわされるの やめていこうと思えて

私のために ゆっくり 呼吸をしてみようと思って

私のために 働いてみようと思って

私のために 歩いてみようと思えたりもして

 

そう 無理に何かをしなくても 歩くだけでもいいんだよ

ほんの少し お日様浴びたりしながら ね

 

私のために 私は すべてを選ぶ

小っちゃい小っちゃい 情けない私だからこそ

その今 ここからまた 新しい一歩を 始めてみる

 

すべては 

あまりにも弱くて 小さくて 愛しい私のためなのだ

人生なんて ただ それでいいのだ

 

2016_02_29

Photo by werner22brigitte
Pixabay

 

不安な気持ちを人に投げつける、ということ

不安感を基礎に置いて、人間関係を作ろうとするときに、

起こりうることのお話。

 

不安なの

自信がないの

こんな自分で

本当にいいのかな

どう? どう? 

本当にこれでいい?

 

不安の中身は自分の性格だったり、態度だったり、

好きでいてもらえるかどうかだったり、まあ、いろいろだよね。

こういう形で誰かとの人間関係を築き始めるとき。

 

最初は、相手だって、

あなたに好意的であれば、

 

そうか 不安か……

大丈夫だよ

それでいいよ

 

と言ってくれるかもしれない。

 

でもあなたは、そんなことだけでは当然、

本気で心の底から『ずっと』は安心できない。

 

だからまたいつか、やり始める。

 

そんなのじゃ 不安なの

なぜそうするの?

ねえ 私はこれでいい?

どう? どうなの?

 

さあ。

逆の立場で、これを感じてみようよ。

 

いつまで経っても、ことあるごとに不安を訴え

言葉がけや思いやりをもらおうとしてくる相手。

 

あなたがそんなようなことを、

延々と繰り返し、何かあるたびに言われたら?

途中で、

 

なぜそこまで不安なのさ。

その不安 本当はどこから来るの?

幼児ではないのだから

もうちょっと自分でも何とか 

原因なども探して

解決しようとしてみたら?

 

って、ならないかな?

 

そうはならなくて、

「不安なことを訴えてくれるのは私にだけだわ」

ってウットリしたい?

 

本当に、それを望むかな?

 

あなたは、相手には、

どちらかと言うとウットリしてほしいのよ。

自分が感じている『相手への信頼の度合い』を、

そこから相手にバッチリ感じてもらい、

そんなにも信頼してくれているなんて! と

ウットリ、になるくらい思い切り、

自分のことだけ、見つめてほしいのよ。

 

それ、うん、ゴメンね、ハッキリ言うけど

実の母親であっても、キツイわ。

 

逆の立場でも、自分にはできる!

とか思うかもしれないけれど。

 

何度アドバイスしても、覚えているのかどうかわからないほど

何かあるたび似たような不安さ加減で尋ねられ、

本人はいつも、落ち込むたびにその調子で訴えてくるだけ。

 

あなたは、相手が安心できる答えを渡すまで、

相手からいろいろ訴えられて、でも当の相手自身は

自分で答えを探そうとはしてないような感じで、

あなたから「納得して安心できる答え」が受け取れるまで

不安感の中身ばかり説明して、

シクシクしながら待ってるだけ。

 

日々、仕事や勉強などをこなしながら生活していて、

その中で、そんなふうにベッタリ頼りきりになられて。

 

ねえ、それで、どこまで相手のその態度に、

ウットリし続けていられるかな……。

 

俗な言い方をすれば、どれくらいの間、

お互いにその形での「蜜月期間」を保てるかというと、

まあ1ヵ月間、長くても半年じゃない?

 

そこに婚姻関係などがあって、

世間体、とかいうものがくっつけば、

それを理由にして続けていけることもあるけれど、

少なくともウットリするから

お互いが続けていけるわけではなく、

あくまでも他の理由による

『ガマン』『耐える』状況になるだけ。

 

だって、自分自身の不安感を人に丸投げする限り、

その不安は根っこから消えることなんてあり得ないし、

一瞬、表面的に消えたかのように感じることがあっても、

消えたら消えたで今度は、

変に自分が明るく変わったら、捨てられてしまうのでは、

とかいう訳の分からない、影の不安も生まれるし。

 

不安なの

そうか

 

なんてお互いがやっていられるの、

よほどの金持ちで、それ以外やることない人……

くらいじゃないかな。

 

普通に生きているなら、不安を投げかける側の人は

『こちらをまた不安にさせて!』

って悲しむことになるし、

 

不安を解消する側は

『いい加減、自分でも、もっと何とかしたら?』

あるいは『こっちの言うこともっと聞いて、ちゃんと応用効かせろよ!』

という怒りが募るようになる。

 

それ、うまくトラブル回避していくためには

お互いが、他の他人とは一切深く関わらない、

その人だけを見て、その人だけとつきあう、

くらいの世界の縛りが必要となる。

実際、他の人と関わること自体が、

「不安のきっかけ」となって、もめることになるし。

 

うん、お互いがお互いを、牢獄へ閉じ込めて、

相手の自主性さえ、自分のために発揮させないと

気が済まないようになるわけだ。

 

お互いがお互いにとって

常に看守であり、同時に罪人。

そして一生、相手と不安についてのやりとりばかりを繰り返し、

ほんのたまになら、もしかしてウットリできるかも……。

 

それを幸せ、と呼びたいのなら、

まあそれは、ご自由に。

友情だろうが愛情だろうが、

『相手を監視し続けないと不安』なんていう幸せ、

私には想像できないけれどね。

 

でも、その不安を、

他人になんとか解消してもらおうと投げつける前に、本当は

自分が(今はまずダメなままの)自分を「先に」信じる、許す、認める

というプロセスを練習できれぱ、

 

監視のいらない自由な、

お互いの自主的な信頼関係に基づく『安心感』

 

という人間関係が、

ほかでもない『あなたの』元にやってくるということだけ、

私は伝えておくわ……。

 

2016_02_28

Photo by vero_vig_050
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