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うまくいかなかった『ショック』

ねえ、そのショックを引きずるのは

「私は物事をうまくいかせられないダメ人間」という

思い込みがもともと自分の中にあったり、

「認めてもらいたいのに」という依存があるから、ではないのかな?

 

自分ができていることは「当たり前だもの」とか言って

それが今、できていること、その環境への感謝も持たないで

ひたすら「認めてもらってよい気分になれること」ばかりを望むの?

 

逆に、自分が、どこかの他人から何かを望まれたとき、

その他人に対して「どうしてもその気になれない」こと、あるよね?

そのことは自分で普通に選択できるよね?

 

なのに、自分が望む相手から、

自分の望みとは反対のこと(その気になれないから断る)をされたら、

それは「許されないこと」だったり、

「私が悪いからだわ」なんていう思い込みにまで、発展するの?

 

相手がその気になれないのは、相手の選択の自由ではないの?

自分がその気になれないことは、断るのだから、

相手もまた、自由に選んでよいのではないの?

 

なぜそれは、許せないの?

なぜそれを「私が至らないからだわ」なんて形にまで、

発展させる必要があるの?

 

しかも、過去の例まで持ち出して、

「だからやっぱり私は」なんていう

『自分のダメさ加減の証拠集め』に使うのはなぜ?

そんなふうに証拠集めをして、何を意図しているの?

 

その過去の記憶もさ。

良い思い出は、思い出したあとで必ず、

「今はそれがない」という気持ちにつなげて、

「それを失ったのは自分のせいだわ」とかいうふうに

いつも自分を卑下するために使ってるよね?

 

未来に、もう、そんな良いことは起こらないのだ、

と勝手に決定して嘆いているよね?

 

なぜそんなふうに、良いことは二度と起こらない、につなげるの?

未来なんて、決まっている人、いないのに。

 

逆に悪い思い出は、いつも、そのまま全部を場面ごと、

今、まさに目の前で起こっているかのようにしっかり思い返して、

記憶の中に保っている、暗い感覚をわざわざ『強化して』味わい、

最後には、未来にもまた、

それが繰り返されるに違いない! と決めつけているよね。

 

つまりは、過去の記憶を、良かろうが悪かろうが、

『今と将来の自分』を傷つけるための道具として、扱うんだよね。

それを、自分で選んで決めてるんだよね。

 

なぜ、そんなことになるかというと、

他人から認めてもらわないと、良い状態とは言えないんだ!

と、あなたが信じ込んでいるからだよ。

 

私も過去、仕事方面でこれをやっていた。

で、その思い込みって、常識だと思ってたよ。

確かに鬱のど真ん中に至るまで、私もやっていたんだ。

 

自分の悪い部分は、消さなくちゃダメ。

いけないところは無くさなくちゃダメ。

周囲の人より、できるだけ素晴らしくならなくちゃダメなんだ!

って感じで「認めてもらうために頑張る」をやってた。

 

だから、認めてもらえない=私がダメな証拠。

だからその都度、あらゆるダメ出しをして

最後には、常軌を逸した手段で頑張ってみるしかなくなった。

人間としての「通常」を超えた範囲の無理を、自分に強いるのは、

私も昔、得意だったんだよね……。

 

さらにその後、

「鬱」という、脳みそが暗い回路のほうへつながりやすい状態になったら、

もうひたすら、動けない自分にダメ出しして、

自己を罵倒して、自分をわざわざ傷つけるだけだった。

 

前にはできていたのに! などとしか思えなかった。

そんなことを思うから、過去の記憶も、

悪いことばかりに、私もつなげたりしてた。

それを当たり前のこととして、やってたんだ。

 

なんせもうね、

『気をつけていないと、私はすぐに

至らないことをしてしまう、至らない状況になってしまう

本当は弱くてダメな人間』と信じ込んでたから。

で、勉強もスポーツも仕事もやる。

心の奥で、怖いと感じていたからこそ、やりまくる。

 

歪んだ優等生ごっこしてたなあ、

びくびくしてたなあ、

至らない自分がいることがバレるの、

めちゃくちゃ怖がっていたなあ、と思える。

 

その「リキミ」、ものすごく無駄だし、

自分を痛めつけることにしかならない。

 

そんなことしなくても、

おびえを動機にしなくても、自分が楽しみたいから、で良かった。

やること自体を楽しみたいから、頑張って良かったんだよ、私。

 

あなたも今、おびえからやっているなら、

あるいはおびえから、できない自分を罵倒しているなら、

昔の私のように、そこには必ずヘンな思い込みがあるからさ。

何かができるようになるとかじゃなく、

その思い込みのほうを、解除するのが先だよ。

ただ解除してみよう、ってやるだけでは、そのおびえを消せないから、

そもそもどうして、そのおびえが存在しているのか、

自分がどんな思い込みを今まで『自分の常識』にすり替えてきたのか、

そこは、怖いだろうけれど、

きちんと向かい合わなきゃいけないと思うよ。

 

いっぺんに全部でなくてもいいから、

一つずつ、ヘンな思い込みをほどいていかないと、

いつまでたってもあなたは、思い込んだまま、他人に何とか

してもらおうとする(実際に相手に求めるかどうかは別として、

他人に認めてもらえることばかりが正しい在り方だと信じ続ける)。

そしてその思い込みがあるからこそ、同じ失敗を繰り返しては、

ショックをそのたび、延々と引きずって、悪い記憶を強化する。

で、さらに「やっぱり私は」をまた強化する、そのループの中に

とどまり続けるのだと、今の私には、感じられるよ。

おまけに過去の記憶を、悪いほうにしか使えないままだ。

 

過去に同じ経験をしたからこそ、私は今、あなたに言うよ。

自分をもっと、ゆるめてあげよう。

そのヘンなループは、自分に必要ないのだから。

そのためにやるべきなのは、

勇気を出して、

『ループが始まった原因』を知ること。

何かのやり方を変えることではなく、

ループしている理由のほうを、知っていくことなのだ。

 

2015_12_18

Photo by vickisdesigns
Pixabay

 

せっかくのゆるやかな時間を

自分で 自分を追い詰めることに使うの?

なぜ疲れていても 休んじゃいけないのに

とか言って 自分を責める時間を過ごすの?

 

なぜ そんな『自分を責める思考に陥るか』の

理由は感じようとせず逃げるの?

 

認めてほしいとか でないのなら

堂々と 痛んだ自分を 休ませてあげれば?

 

社会人として立派に と言ってる段階で

社会に認めてもらいたい 以外の『理由』が

見あたらないように 私には感じられるよ?

 

なぜ そのところは 

見つめてみようとしないのかな?

なぜ 大義名分ばっかり 並べて

自分の気持ち は 無視し続けるのかな?

 

……風邪を引いても『恐ろしくて休めない』のは

立派な社会人としての発想では 決してないよσ(^◇^;)?

 

 

頑張りすぎて壊れている人は

これ以上頑張ると 失敗することのほうが

ずっと多くなる可能性が高いから

頑張る以外の「気持ち」を持つことを選択していく練習を始めないと

自分を壊したまま 辛くなる一方なんだよね……

 

ただ まあ 私も自分で 頑張る 以外のやり方を知らなかったとき

自分の肩にどれだけ力が入っていたか 知らなかったから

気づき始めるには きっかけが必要だということも知ってはいる

 

私の場合 自分の「頑張る」の気持ちの

奥にある「おそれ」「おびえ」に気づいていったんだ

 

頑張らないと自分がどうなってしまうか

それを自分で どんなふうに「信じ込んで」いたのか

 

なぜ 頑張る を そんな「おびえの裏返し」みたいな信念 として 

自分の内側にガッチリ 食い込ませて植え込んで繁殖させていたのか

そういうのを一つひとつ 解きほぐしていって

そこで初めて自分が「恐れていた」気持ちに いくつも出会って

そのたびに うああ なんだとー! 何これ! と

ある意味 ビックリしたのであった

 

そして自分が 肩に力を入れっぱなしだったことも

そこでやっと気づけていった……

肩に力入ってる と 言われて心配されたことはあったけど

それ こういうことだったか……みたいな感じ

 

いやあ 歯はくいしばってたわ 肩はいからせてたわ

心の中は「恥をかかないか」でビクビクしてたわ

いろいろさんざんな「小心者」の自分を発見していく道のりだったよ

途中から笑えるようにもなったけれど けっこう泣いた

 

もうね その「何が何でも 何しても頑張る」は 

あなたには 合わない方法に なりかかっていて

なのに延々 まだそれ「だけ」でやろうとしてるってこと

気づいてもいい頃じゃないかな……

 

そんな人 たくさん いるような気がする

意地張って 孤高を頑張る も そのひとつだろうしね

 

今の私は 頑張る ではなくて

自分に嘘をつかない 

っていうのを練習してるんだ

誰から何を言われようと 

自分に嘘をついてまでごまかすことほど

自分に害を及ぼすものはないなあ……って実感したから

 

だから 「知らないうちに自分を力ませること」からも

脱することができるようになってきたんだと思う

かのお姉さん みたいな人も 

もう本気でどうでもよくて 放置できるようになってきたんだと

私は 正しさを 証明しなくてもいいんだし とか

けっこう 脱力することも ま 少しずつだけれど 覚えていけている

 

これって ラクチンで すがすがしくて 肚も座ってきた感じで

オッサン脳の私でも(私だから?) 

意外に合っている信念だなと感じる今日この頃

 

「おびえ」からやってしまう自分へのオオカミ少年状態 

自分にとって 何が本当で 何が嘘か わからない状態を

勇気を出してやめてみるっていうの 

けっこう いや かなり 大切かもよ?

 

2015_11_29

Photo by zzzArt
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