カテゴリー別アーカイブ: 死と責任感

いいかげん、自分の「人間としての良さ」に気づいていいよ

私のブログを読みに来てくださる方って、

このきついブログタイトルにもおびえないどころか

その苦しさが「どういうものであるか」を肌で感じていて、

しかも「そこから離れたい」という意識があるから

たどり着いてくださるのだろうと、

書いている私は考えて、だからこそ、

最初からこのタイトルを選んでいます。

 

普通に幸せで、そういう「自分にとって重いところ」から

離れたい、などの意識がとくにないのなら、

このような私からの勝手な話しかけ記事、は

正直、読まなくてもいいから、です。

 

私自身が「他者からどう思われるか」におびえていたらかこそ

鬱になって、その経験を、こう考えるようになりましたよ、

こう感じるようになりましたよ、って「勝手に話しかけ」ている。

 

つまりね。他者を無視したくない私がいて、その私の書いた

このブログを悩みを持ちつつ読んでくれている時点で、

あなたは人のつらさも肌で感じる、

「他者の立場のことを感じられる人」ではあるのですよ、間違いなく。

このブログ、意味わからなくて読めない人、いると思えるもの。

 

さらに、「自分からそういう情報を探そうとしている」のは

それ、何のためかというと「自分のため」ではあるでしょう?

その部分、必ず含んでいるでしょう?

 

その意味であなたは「まだ自分を完全に見捨てない」気持ちも

ちゃんと、持てているのですよ。

自分に自信がある・ない、ではないよ、

自分のこと「完全に見捨ててはいない」からこそ、

「どうすればいいか」の答えを、探し求めることができている。

 

だからね、この2つの事実で

あなたは、他者のことも自分のことも大事にしようとする『感覚的要素』、

そうしたものを

すでに

備えていて実は使っている、ってことは明白なのです。

間違えないでね、これから、でないよ、すでに、だよ。

 

そういう「もうすでに持っていて、でも自分では気づけない」点を、

いろいろ「気づかないまま抱えている」からこそ、苦しいのです。

死にたいほど、苦しくなることもありえるのです。

 

私はそもそも、はっきり言う部分を持っている人間だから、

ここでもはっきり言うけれど

「まずは自分だけがうまくいきたい(そのためには

他者を犠牲にすることも仕方ない)」という腹黒さを抱えて、

しかもそこに表面的な言い訳をいっぱいくっつけて

「それを自分へのごまかしにする、自分で見ないようにしている」人は、

私の記事を読みに来ても、そのうちだんだん、読めなくなると思う。

自分の腹黒さに向かい合わなくてはいけない、

そういうふうに、その方が「勝手に受け止めてしまわれる」から

(と、この一文を読んで「ケーッ!」って思われる方、

すみませんねー(笑)、本気で意図してますので、こう表現しますよ。

その黒さから「抜け出したい人」もまた、来てくだされば、という願いは

こめています。本来、必要ない黒さだから)。

 

もちろん私も、それくらい覚悟は決めてやっています。

確かに、ゆるゆるした記事を書いていることもあるし、

私の「思い込み」な記事も書いているけれど。

こんなタイトルつけた段階で、死を意識している人たちに向けて書くのだ、と

自分ではっきり、決めたからね。

記事を書こうとするたびに、自分のブログタイトル、

毎回、自分で見ることにもなるから、

その意識が「抜けた」ことは、自分ではないと思ってる。

 

だからこそ、言い切ります。

私のブログを含め、そうした「苦しいからこそ、どうしたら」を探しているあなたは、

間違いなく「何らかの、よい方向へ働かせられる力」を

すでに持っています。

あとはそれを「自分で気づいて、意識的に使える」ように

していけばいいのです。

 

あなたは自分にとっても他者にとっても、

すでに「良い」人だよ。

あなたが思っているようなダメな人、悪い人じゃないよ。

そこは本当に、間違いないことなので、

今はまだ、そう思えなくても、どうかまず「信じて」いってくださいね。

 

2015_09_08

Photo by Lopshire Photography
ID: 201503240700
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

「瞬間の自分の心地良さ」を見つめる練習

今日は練習の話。

とても怖くて、とてもドキドキするけれど、やってみる意味はある練習。

 

たとえば認められたい人、なら、何かをするときに

「これをした結果、上司や恋人や家族や友達その他がどう感じて受け止めるか」という

発想が必ず頭の中をよぎる。それを「示した」瞬間の、相手の反応について

必ず、予想を立てようとするはず。

 

はい、この発想自体を、やめる。まるっと、採用しない。

その代わりに見つめることは

「この今の瞬間、何をどうやったら、どんなふうにどんな手順でやったら、

私が楽しめそうか

私が心地よくなりそうか

私が面白さを感じられそうか?」

のみにする。結果でなく、やること、に対して意識を集中する。

 

山のような書類の入力が目の前にあったら、

それを「入力し終わった後のこと」でなく、

文字を、数字を、打つ、という動作だけに意識を向ける。

集中して、指を動かすことのみに専念してみる。

 

料理もそう。手の動かし方、手順、火の扱い方、タイミング。

そこだけを見る。

洗濯なら、洗濯槽に投入するとき「美しく入れてみる」とか。

 

そう、「型」を味わうのもいいかもしれない。

とくに書く文字はなくても、書道の道具を広げる。

美しく整えた卓にまっすぐ座り、ゆっくりと、墨を摺ってみる。

自分の呼吸と摺るリズム。立ち上ってくる香り、墨の音。

そうしたものに、意識を集中してみる。

 

とくにやることがなければ?

お風呂に入って、シャワーをわざと、下から噴射させてみよう。

まっすぐ伸びて、散らばる水。そのカーブの美しさ。

水の筋が光を反射するところも、見つめてみよう。

シャワーの位置を少し高くして、自分に降りかかるしぶきを味わってもいいよ。

子どものとき、やった覚え、あるよね?(*^_^*)

 

そう、つまりは瞬間を味わって「自分が意識して」楽しむのだ。

書類を整える動作、ものを動かす動作。一つひとつを素早く、美しく。

緊張ではなく、集中。イメージ、伝わるかな。

 

やって楽しい部分、を見つめるの。ただ、それだけ。

時間が限られているなら、なおさら段取り、必要だよね?

では、その段取りをきちんと捉えて、一つひとつ、進めていこう。

 

こうした「100%Now」への集中。

やってみるとわかります。終わった後、ちょっとすがすがしいよ。

慣れてくると、道の歩き方一つにも、集中できるから。

 

これが何を生むかは、やってみて、気づけると思う。

自分のなかの余計な思考パターンをそぎ落とし、

自分が、自分のために、それを「味わう」という感覚。

 

あなたが幼かった頃。

きっと、シャボン玉を飛ばしたことあるよね?

あのときのあの瞬間は、自分が口から吹く息と、

できあがって飛んでいく泡だけを見つめていたよね。

その様子を見ること自体、吹くこと自体に、

自分がワクワクしたりウキウキしたり、

いずれにしても「軽く」「さわやか」な感覚を味わったはず。

 

あるいは、プールに飛び込みする前の自分。

集中して、すっと身体を整え、「なにがしかのゾーンに入る」ような感じ。

そのあとで、えいっ! って、足で地面を蹴ったはず。

 

そういう「状態」を、自分に作るのだ。

結果でなく、過程でもない、一瞬一瞬の「所作・振る舞い」を見つめる。

それが自分にとって「心地よく」なれるやり方を、瞬間ごとに、選ぶ。

瞬間の連続、瞬間の繰り返し。それを見つめ続けることで、

結果的に、後から『経過』も生まれるような感覚。

 

それくらい集中して、「自分が楽しく」なれることを、味わってみてください。

 

何も為さなくて、成さなくていいから。いっぺん本気で、体感してみてほしい。

足の指で感じる「地面や床」、指先の振る舞いひとつに至るまで、

緊張でなく「意識して感じてみる」の。

自分のやるとことそのものを、見つめて味わう時間というものを、作ってみる。

心地よくなる「やり方、動かし方」に集中する。

 

こうした所作を「選択」できるクセをつけると、

ものごとの捉え方まで、勝手に変わっていくよ。

瞬間を大事にできる意識が、自分の中に生まれるから。

 

流れる時間は、瞬間の連続。

その瞬間一つひとつは、「独立」していていいのです。

変に先回りの思考をして結果ばっかり出そうとしてつなげるから、

おかしなことにもなり得るのよ。

そうではなく、瞬間・瞬間の心地よさを、自分が意識して、積み上げてみて。

 

この練習があなたに「何らかの感覚」を、

いずれきっと、もたらすと、私には思える次第です。

 

2015_08_28

 

 

あのさ、他者の命とは

誰かの都合で勝手に消し去っても『よい』ものではないよね。

 

火事を消す消防士の振りをして

わざわざ海外へ

殺人鬼になりなさいと、日本の若者を送り込もうとすることが

なぜ『日本を守る』ことになるのか。

 

あなたの嫌いな猫が、チョッカイをかけてきた。

その猫は自国で「自治区」の民族を好きなようにいたぶっている。

 

だからといって、自治区でも属州でもなんでもない「別の国」が、

なぜ、同じ目に遭うに違いないと怯え、戦う準備をしなくてはいけないのか。

なめんなよ! って、自分たちもツッパリたいのか?

        ↑

わかる人にしかわからないたとえ(笑)

あえて写真は載せませんよ(^^)

 

しかも。

戦う準備どころか、他国の人殺し現場へどんどん、しゃしゃり出る必要が、

今、どこにあるのか。

 

自国で作った武器を携えて、なぜか地雷を撤去しに行け、まで?

どこの地雷? アジアに限られるのか、それ?

そうやってあらゆる他国へ、人殺しの手伝いに行け?

そんなところへ行かせる一番のメリットって、結局は

『使い方実例指導員付き・国際武器見本市 出展』ってところではないの?

 

さらに数年後には、そうやって、わざわざ『他国からのテロ』を呼び寄せた挙げ句、

「ほら! 攻めてきたでしょ!」という方向へ持って行きたいのでは?

自衛隊員と非戦闘員の命、数人か数十人か数百人、

わざわざ犠牲にしてから、後付けの理由にして

ほら、こういう世の中だから仕方ないでしょ! 

っていうふうにしたいだけでは、本当にないのか?

 

それができるようになりさえすれば、もう自動的に継続発展させられるもの。

その理由が成立できればOK。自国の若者をどんどん見本市へ派兵しつつ、

異国人もいったん労働力として文句言わせず取り入れて、

国籍を与えさえすれば、その人たちも見本市という戦場へ送り込めるしね。

 

チョッカイをかけてきた猫の国周辺へ、あるいは遠い石油の国へは利権も求めつつ、

税金払わない貧乏な人、送り込みまくり。

武器、作る許可のキックバック。

やがては徴兵まで持っていける。万々歳……?

 

そんなシナリオさえ作れれば、原発ムラに続く『武器ムラ』が

永久成立するし、気に入らない相手には難癖つけて、非難して、

戦地へ行かせればよくなるから、あっさり追い払える。

 

無理して飛び降り自殺に見せかけなくてもよくなるよね、戦地なら。

NHK解説員やテレ朝のディレクターみたいな裏工作、しなくて済む。

いろいろ反対している若者も中年も、根こそぎ徴兵してさ。

 

あ、これは推測の話ね。自死を選ぶ時期だと思えない方が

すごく誰かだけにとって都合のよいタイミングで亡くなられているから

そういう推測が成り立つという話。

 

さあ、こうした、欲深い老人たちの妄想かもしれない世界へと

日本が移り変わる可能性を、

どれだけの人が、どれほど「それこそ左派の妄想だ!」と無視していけるかしら。

 

派兵を火事と言い切るバカな権力者は、

10代女子にさえ「個別自衛権をもっと充実させればいいだけじゃないの?」

というツッコミを受けて、逃亡しましたが?

 

『護憲だ』という専門家もたくさんいる、と主張したバカな権力者は、

たとえばどなたですか? という記者の質問に

名前を答えること、できなかったそうですが?

 

命を軽く扱っているのは、戦争法案だと主張する左派でしょうか、

原発はテロの格好の対象だと訴える左派でしょうか。

それとも側近のバカの方々を含む、あの……?

 

ということで今日は、

命の話なので、メインブログにて述べさせていただきました。

 

最後に、情報源のリンクです。あ、笑えるヤツと、

おびえまくって、左派を妄想とか非国民だとすぐにおっしゃりたがる方への、

はたしてさあ、それはどこまで左派の妄想なの? の部分ね。

 

◎IWJ
【スクープ!】「集団的自衛権行使容認の閣議決定」が覆る決定的根拠!
「昭和47年政府見解」の知られざる真実を小西洋之議員が暴露!!
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/246547

 

◎まとめ その1(ちょっと言い張ってみましただ、の巻)
菅官房長官、合憲説の学者は誰かと聞かれて具体名挙げず
http://www.tweetmatomemory.com/4140

 

◎まとめ その2(10代女子、GJ!)
【悲報】総理補佐官の礒崎陽輔 (@isozaki_yousuke)が、
ツイッターで喧嘩をふっかけるも論破され、
相手が10代女子とわかるとブロックして逃走←バカ
http://togetter.com/li/832562

 

お互い、これ。

でも持つのは武器……自分の都合だけで相手を殺す道具。

その世界をうれしいと喜んでいるの?

 

2015_06_09

Photo by kontenten
ID:201212111000
GATAG フリー画像・写真素材集 3.0

 

怒りとおそれに駆られて、自分がどのような世界の実現を

「本当に」望んでいるのか。

自分がやらなくてよい、関わらなくてよいから、言える話では?

他者の命は使ったりなくしたりしてもいいと思っているの?

それならただの卑怯者でしかないけど、その部分はどう捉えてるの?

自分が見たくない『都合の悪い可能性』の部分は

見ないようにしているってことは、本当に、ないのかな?

 

自分の身体を張ってても、権力者のおっしゃることに

まず自分から従って乗り込んでいきたいから、なのかな。

 

本気で、そこを、見つめてほしいと願います。

次世代に、さらにその先の世代に、今、私たちが、何をつなごうとしているのかを。