今日は練習の話。
とても怖くて、とてもドキドキするけれど、やってみる意味はある練習。
たとえば認められたい人、なら、何かをするときに
「これをした結果、上司や恋人や家族や友達その他がどう感じて受け止めるか」という
発想が必ず頭の中をよぎる。それを「示した」瞬間の、相手の反応について
必ず、予想を立てようとするはず。
はい、この発想自体を、やめる。まるっと、採用しない。
その代わりに見つめることは
「この今の瞬間、何をどうやったら、どんなふうにどんな手順でやったら、
私が楽しめそうか
私が心地よくなりそうか
私が面白さを感じられそうか?」
のみにする。結果でなく、やること、に対して意識を集中する。
山のような書類の入力が目の前にあったら、
それを「入力し終わった後のこと」でなく、
文字を、数字を、打つ、という動作だけに意識を向ける。
集中して、指を動かすことのみに専念してみる。
料理もそう。手の動かし方、手順、火の扱い方、タイミング。
そこだけを見る。
洗濯なら、洗濯槽に投入するとき「美しく入れてみる」とか。
そう、「型」を味わうのもいいかもしれない。
とくに書く文字はなくても、書道の道具を広げる。
美しく整えた卓にまっすぐ座り、ゆっくりと、墨を摺ってみる。
自分の呼吸と摺るリズム。立ち上ってくる香り、墨の音。
そうしたものに、意識を集中してみる。
とくにやることがなければ?
お風呂に入って、シャワーをわざと、下から噴射させてみよう。
まっすぐ伸びて、散らばる水。そのカーブの美しさ。
水の筋が光を反射するところも、見つめてみよう。
シャワーの位置を少し高くして、自分に降りかかるしぶきを味わってもいいよ。
子どものとき、やった覚え、あるよね?(*^_^*)
そう、つまりは瞬間を味わって「自分が意識して」楽しむのだ。
書類を整える動作、ものを動かす動作。一つひとつを素早く、美しく。
緊張ではなく、集中。イメージ、伝わるかな。
やって楽しい部分、を見つめるの。ただ、それだけ。
時間が限られているなら、なおさら段取り、必要だよね?
では、その段取りをきちんと捉えて、一つひとつ、進めていこう。
こうした「100%Now」への集中。
やってみるとわかります。終わった後、ちょっとすがすがしいよ。
慣れてくると、道の歩き方一つにも、集中できるから。
これが何を生むかは、やってみて、気づけると思う。
自分のなかの余計な思考パターンをそぎ落とし、
自分が、自分のために、それを「味わう」という感覚。
あなたが幼かった頃。
きっと、シャボン玉を飛ばしたことあるよね?
あのときのあの瞬間は、自分が口から吹く息と、
できあがって飛んでいく泡だけを見つめていたよね。
その様子を見ること自体、吹くこと自体に、
自分がワクワクしたりウキウキしたり、
いずれにしても「軽く」「さわやか」な感覚を味わったはず。
あるいは、プールに飛び込みする前の自分。
集中して、すっと身体を整え、「なにがしかのゾーンに入る」ような感じ。
そのあとで、えいっ! って、足で地面を蹴ったはず。
そういう「状態」を、自分に作るのだ。
結果でなく、過程でもない、一瞬一瞬の「所作・振る舞い」を見つめる。
それが自分にとって「心地よく」なれるやり方を、瞬間ごとに、選ぶ。
瞬間の連続、瞬間の繰り返し。それを見つめ続けることで、
結果的に、後から『経過』も生まれるような感覚。
それくらい集中して、「自分が楽しく」なれることを、味わってみてください。
何も為さなくて、成さなくていいから。いっぺん本気で、体感してみてほしい。
足の指で感じる「地面や床」、指先の振る舞いひとつに至るまで、
緊張でなく「意識して感じてみる」の。
自分のやるとことそのものを、見つめて味わう時間というものを、作ってみる。
心地よくなる「やり方、動かし方」に集中する。
こうした所作を「選択」できるクセをつけると、
ものごとの捉え方まで、勝手に変わっていくよ。
瞬間を大事にできる意識が、自分の中に生まれるから。
流れる時間は、瞬間の連続。
その瞬間一つひとつは、「独立」していていいのです。
変に先回りの思考をして結果ばっかり出そうとしてつなげるから、
おかしなことにもなり得るのよ。
そうではなく、瞬間・瞬間の心地よさを、自分が意識して、積み上げてみて。
この練習があなたに「何らかの感覚」を、
いずれきっと、もたらすと、私には思える次第です。