カテゴリー別アーカイブ: 身体と気持ち

目標到達地点からの自己採点、という罠

私たちは毎日、人生、と呼ばれる時間を過ごしている。

そこで日々、いろいろなことをこなしながら、

あるときには理想や夢や目標を持ち、

その達成に向けての道を、テクテクと歩んでいったりもする。

 

Photo by (c)Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net

夢や理想や目標を持つことは、日々の生活に張りを与えてくれる。

それがたとえ、ダイエット等の一般的なものであったとしても、

目標に向かって「やりたい何か」が日常生活に加わるのは、いいことだと思う。

 

が、しかし。

ひたすらの頑張り屋さん、成功好きさん、

あるいはもう、失敗して自信がなくなっている人、などに見られるのが

「できたできない」の採点に、自分が囚われてしまうこと。

反省程度ならまだしも、それを「自分の価値」にまで絡めて採点し始めると

目標に到達できない間はずっと、自身を卑下し、

イジメることへつなげてしまいかねない。

 

頭のなかでゴールシーンを描くのはいいのだ。それは楽しいから。

やった! と思えている自分を思い浮かべるのはうれしいだろう。

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でも、そもそも、そのゴールまでの道のりを、「見えているもの」として

計画を立てると、どうしてもその途中段階の想像も、シンプルになっていく。

ここでこうして、ああして、という計画は練るものの、

目線がゴールに向いているため、頭の中で描くのが、

目標一直線にがんばるぜ! みたいな道のりとなる。

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うん、こういうふうに想像できるとわかりやすいし美しいよね。

ゴールを見据えて、進む日々。

そのための精進、そのための努力。

 

でも、さっき言ったように、あなたの目線がゴールに向いているだけだと、

途中の成果を判断するときに、必ず「到達地点から逆に見た、

今の自分がいるところ」という視点になる。

上の図で言えば、あなたが今日の努力の結果を見るときには、

ゴール地点の看板のほうから、今の、手前の「自分の居場所」を見ることになるのだ。

 

そうしたら、遠いよね。看板の位置から逆に見た今の自分、豆粒以下だ。

到達までの自己を採点するとなると、たいていの人はこんなふうに

謙虚に自分を捉えるだろうから、そりゃあ「まだまだダメです」になる。

そして、場合によっては自分の「進まなさ加減」にイライラしたり、がっかりしたり、

こんなの無理だよ、と落ち込んだり、あきらめたりもしてしまうことになりうる。

 

あのね、そうなったときって、

あなたがゴール「だけ」を見つめ過ぎているのだと思う。

到達地点を夢見るのはステキなことだよ、でも、途中経過もすごく大事。

「何を」身につけながら、覚えながら進んでいくかは、未来のあなたに

また新たなきっかけをも、もたらすかもしれない。

 

なのにゴールだけ見て「達成まで自分と勝負!」なんてことしてたら、

途中の経験はあまり大切にせず、もしかしたらそのまま置き去りにすることになり、

まったく自分の身につかないことにもなりうる。

 

すごくもったいないと思わない? それ。

せっかく、そこだけが絶対というわけではない「毎日の生活」を過ごしているのに。

いったん、休止を余儀なくされている人なら、

まさに今、自分のために、休めて、何が心地よいかも探れる最中なのに。

それにね、本当はそんな美しく一直線に、

ゴールばかりも見つめていられないでしょう?

体調も変わるし、いろいろやることもある。

日々、何かが起こり、そのたびに、選択肢も変化していくのだから。

 

実際、私たちは、何かを選んだその先で、見知らぬところへたどり着き、

そのたびにまた「ひとつの機会」というドアを、毎回どんどん開けているのだ。

 

ドアの向こうは、開けてみるまでわからない。

もし行き止まりだったら、少し引き返すことになる。

引き返せなくて、予想外の細い道をそのまま進んでみることだってある。

本当は、私たちの日々って、大小の選択をしながら

「機会という、開けてみないとわからないドアの向こうに

行ってみる」ことの連続なのだ。

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これがあなたの本当の状態なのに、理想のゴール地点から逆方向に

自分の今の位置ばっかり確認しようとしたって、どうしても無理がある。

ドアの向こうにも、また新しい選択肢のドアが現れるのだから、

その予測や採点は、どこでどう変わるか、わからないのだ。

 

ここで以前にも一度、ご紹介したことのある

高田郁さんのある小説の一節を、再び引用してみる。

 

 勝ちたい一心で精進を重ねるのと、

 無心に精進を重ねた結果、勝ちを手に入れるのとでは、

 『精進』の意味が大分と違うように思いますねぇ。

 勝ちたいというのは、すなわち欲ですよ。

 欲を持つのは決して悪いことではないけれど、

 ひとを追い詰めて駄目にもします。

 勝ち負けは時の運。その運を決めるのは、たぶん、

 ひとではなく、神仏でしょう。

 神さま仏さまはよく見ておいでですよ。

 見返りを求めず、弛まず(たゆまず)、

 一心に精進を重ねることです。

(『みをつくし料理帖 今朝の春』 p240~241)

 

目標は、持っていていい。目指していい。

でもやるのは目の前のことをひとつ、からでいいのだ。

達成したい、自分に勝ちたい、にこだわると、

ときに自分を自分で追い詰め、痛めつけ、ダメにしてしまうかもしれない。

 

このドアをどれかひとつ、自分が選び、自分で開けるのだということ。

それは「機会」でありチャンスであるのだということ。

開けてみたあと、ドアの向こうに何があっても、そのさらに先にはきっと、

自分が目指すものが待っていると信じること。

 

実際、本当に手に入れたいものなら、どのドアを開けて

どの道を選んでいってもいつか、たどり着けるようになっているはず。

手に入れたい形そのままではなくても、何か、自分のタメになるものを得るのだ。

それはやってみる、開けてみるからこそ、わかること。

 

そして、同じやるならドアの開け方、道の選び方のほうに、注目してほしい。

その一つひとつを「精進」として捉えれば、

目的を達成し、ゴール地点にたどり着いたときには

「自分の内側の財産」をたくさん蓄えた状態になれるわけだから、

さらにその先で訪れることになる機会を、もっともっと、楽しめるんじゃない?

 

目標地点から逆算的に自分を評価する習慣がもし、あるのなら、

それによって今、自分をダメと捉え、傷つけているのなら。

 

その発想自体をやめて、代わりに意識を

「日々訪れる『機会』というドア」を、選んで開けていくことのほうへ

向けていってもらえたら、うれしいです。

 

 

経験と思いやりと

たとえば過去に ある出来事を自分が経験していて

その後 身近な人が それと似た経験をしたことを 知ったとする

 

そのとき 自分の過去を振り返って

ああ 似ているな と思うことはできるけれど

あなたの経験と その人の経験は 同じ ではない

共通する部分が「あるかもしれない」というだけの話だ

 

相手の気持ちや感情が わかるようでいて その 「わかる」と思える部分が

厳密には違うのだということを 私は いつも肝に銘じるようにしている

 

あるいは

自分の気持ちを 相手にわかってもらえないとき

「あなたには こんな経験がないから わからない」というふうに

相手を非難することが もしかしたら あるかと思う

 

でも たとえ似た経験をしていたって 厳密には「違う」のだから

あなたの 今の感情そのままを すべて 完璧 100%

相手が把握し 理解できることは ありえないし

経験を積んでいるほうが「上」だとか

「わかっている」「知っている」ということでもない

 

言い換えれば あなただって その経験を

ある状況 ある環境 あるタイミングにおいて

一度か あるいは 数回 経験しただけなのだから

それが「すべて あるいは よく知っている」ことには

厳密な意味において ならないのだ

 

でも ありがたいことに

私たちには 想像力があり

私たちには 共感 という力もある

たとえ似た経験は していなくても

相手の気持ちに寄り添い 苦しいのですね と受け止め

心情的に そばにいてあげることは できるのだ

 

だからこそ 人は 他者に話すことで

力を 救いを もらえたりもするのだ

 

そうしてあげたい と思うなら

また 自分が苦しいときには いずれ 力を借りたいのなら

まず先に 「自分から」 開こう

相手へ思いやりを示し

受け止めてあげる 小さなことでいいから

 

風邪を引いたみたいで のどが痛い と聞けば

そうか のどが痛いのは つらいですね と

まず 受け止めてあげていいのだ

そこでいきなり「私は『○○のど飴』で治しましたよ あのときはね……」

というふうに 自分の話に切り替えたりせず

まず 相手の話す言葉を 聞こう

 

この「先にまず いったん受け止める」というやり方は

先日もお伝えした 渡辺和子さんの本の続編『面倒だから、しよう』や

岸見一郎さんの『困ったときのアドラー心理学』にも載っていて

心理学的にも 説話的にも 大切だと語られているポイントだ

 

そして 相手が 何かよい方法がないかを探していると もし言えば

そのとき初めて のど飴の話をすればよいのだと思える

意識しないと なかなか難しいかもしれないけれど

それが「思いやり」を さらに深い「思いはからい」へと進めるやり方だと

私には 思えるのだ

 

もっと小さな たとえで言えば

街で見かけた 困っている人に 手を差し伸べるとき

それは「親切」という別名もある 思いやりとなる

でもその際 どうしてほしいのかを その人に確認しなければ

その親切が「無駄」になることもある

スクランブル交差点で 相手が右へ渡りたいのに

うっかり正面に渡ってしまったら  二度手間だよね?

 

もちろんそんな状況は 街で見かけた人に対しては

普通は起こらないだろう だってこちらが「どうしたいか」自然に尋ねられるから

 

でも それが 身近な人であったら どうだろう?

きっとこうに違いないと決め 押しつけたりは していないだろうか?

さらには こうしたら喜んでくれて もっと私のこと こうしてくれるに違いない と

取引の材料に ときには使ってしまっていないだろうか?

 

自分にだって 自身の気持ちがわからないこともあるのだから

相手の気持ちや感情や考えは やっぱり確認したほうがいいよね

相手が望むことを してあげたとき

それは「思いやり」を「思いはからい」へと 進めることにもなるのだから

 

たまたま最近見た ネットのニュースで

「自分の社会的権利」の正しさを主張し

それを『認めてほしい』があまりに

他者の欠点を さらし出し おとしめるようなやり方をしている人を 見かけた

せっかくその「主張」が 社会的検討に値するにも関わらず

そこに現れていたのは「自分勝手で傲慢な 子ども」のような人の姿

 

残念だよね その人は本気で 相手を思いやることを拒否し

自分の権利のみを 主張していて

思いやりなんて示すと 他者はつけ上げる一方だというようなことさえ言って

私たちは正しいと 言い張っていたのだから

 

どんなに 主張に「ある種の正しさ」が含まれていたところで

その証明のために 他者の弱い部分をあえて いたぶり さらしている段階で

情報を知る側には 生理的な嫌悪感が生まれて

たとえその主張の「内容」はいつか通っても

「その人自身」はきっと いつまで経っても 認めてもらえないだろうと思える

 

思いやりを与えれば与えるほど 相手は増長するに違いないから

こっちは損をするだけだ という主張の仕方は

悲壮ささえ 感じさせてしまうのだ

 

絶対に 還ってくることが決まっているのなら

まあ 自分が先に 思いやりを示して「あげてもいい」よ だなんて

それは思いやりでなく 上から目線の ずるい取引 だよね……

 

還ってこないことも 確かにある

せっかく思いはからいにまで 進めても

相手が「ありがとう」を返さないときだって 確かにあるのだ

 

でも 「それができた自分」については 何も後ろめたさを感じないで済むし

もし還ってきたら そのときは 心がホッコリするよね

 

だから 自分がスッキリするために  「先に」思いやりを示し

さらには ときに 心が温かくもなれたほうが

結果的には より 心地いいと思えるんだ

その際には 最初に言ったような 「経験からの勝手な想像や決めつけ」でなく

相手を「まずいったん受け止めてあげる」余裕も ぜひ 意識して……

 

目の前のひとりに しかも 小さなことでいい

あなただからこそ できる 優しい示し方が きっとあるはずだから

互いの気持ちが循環し合う ホッコリな心地を

たくさん味わえる人生であってほしいと 願う

 

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今、何もできないからこそ、次がある。だから

できないときは、できないという状態を、しっかり、

感じていてください。ただ、それでいいのです。

その経験が、あなたを次の世界へと導きます。

 

渡辺和子さんの本を読みました。

タイトルを見て最初は「我慢が美徳」という内容なのかと思いましたが、

苦しみのなかにあってもまず、

自分が「自らをそこで咲かせてみる」ことが、

「自分のための『次』」へとつながっていく、というお話でした。

 

自身にも、他者にも、勇気を持って愛で、接するということ。

自分が、自分を、咲かせるということ。

文句をつけ、怯え、心配し、自分の未来を限定したり減らすような生き方でなく、

確かに、自分が咲く生き方を、自分で選んでいっていいのです。

 

できないときは、できないまま、そこで少し、待ちながらでいい。

理想を、以前のように巨大なサイズで「持ちすぎる」必要が、そもそもない。

できる範囲で、どんなに小さくてもいい、「自分から」咲く。

 

もちろんそこには、「選ぶ」勇気と「結果を引き受ける」責任は生じます。

でも、何もしないまま、自分に失望し続けることを

「選択しなければいけない」理由など、

本当に何もないのだと思えます。

 

暗闇を経て、初めてわかることがある。

そしてその後、薄明かりに移動してみて、またさらに初めて、

そこから先の新しい「世界」が見えていきます。

 

二・二六事件のとき、自分の1m先の目の前で、

父親が30人の敵に囲まれ、銃弾に倒れるのを目の当たりにし、

修道院に入り、たぶん、途中で結婚より修道を選ばれ、

若くして責任の重い仕事に就き、鬱による入院を経験され、

死をも考え、膠原病の治療による脊髄圧迫も経験された女性……。

 

その方の言葉は、キリスト教の用語を使われてはいるものの、

カトリックのシスター、という視点を超えたもの。

まさに苦しかったからこそ、会得されたものであると、

私には思えました。

 

なぜわからないの? と言って相手を攻撃したり、

言うことを聞かない人を殴るのでなく、

また、自分をむやみにそこで押し殺したりせず、

まずありのままに、自分から咲く。

 

すぐには受け取ってもらえなくても、陰徳を積むことのほうを選ぶ。

 

それによって「自分が」穏やかにいられるのです。

わかってくれない、と、押し付けたり、心で泣き叫ぶ必要はないのです……。

その相手がたとえ、自分の子どもであっても。

 

別に「暴力」については書かれていませんが、

なぜかそんなことを思わされた本でした。

他者へ「痛みを与える」ことは、結局、自分を傷つけるだけなのだと。

その反対に、見返り(効果)を期待せずに「愛を与える」ことは、

自分を「結果的に」、穏やかで豊かな気持ちにしてくれるのだと。

 

何もできないときにこそ、読んでほしい本です。

まさに、そこからでいいのだ、そこにいること「こそ」が、

この先、自分にとっての深い意味を、持たせられる。

それを感じられる本だと思います。

 

連続での書籍紹介を、こちらのメインブログで展開するのは

初めてですが、「自分の命」「自分の生き方の姿勢」について

説得力があったので、伝えたくなりました。ご理解ください。

 

Amazonリンク張っておきます。アフィリなしです( ̄∀ ̄)

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『置かれた場所で 咲きなさい』
渡辺和子 著  幻冬舎 刊 ¥1,028