カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

そうであると「知るだけ」の練習

前の記事では、自分が、

何らかの思い込みから発生する感情に振り回されていることに、

どう気づいていけるか、ということを書きたかった。

 

で、振り回されていることに気づいていけた場合、

次は、そういう自分なんだな、と『認識する』練習をしてみることで、

変わり始めるものがあることを、書いてみたい。

 

だがこれは、感覚的なことなので、表現するのが難しい……。

そして物事をどう捉えるかは、もちろん、

その人自身が決めていいことなのだけれどね。

でもあえて、書いてみる。

 

まず、気づいたことに対して、すぐに

良いだの

悪いだの

というジャッジをする癖がある人は、

それをやめてみる。

 

逆に、気づいたことを、すぐに忘れる傾向にある人は、

メモに残すなどして、それをときどき、読み返してみる。

そういう工夫をすることで、気づいたことから始まる『次』があることを、

体感してみてほしい。

 

すぐにジャッジしたがる人は(私もその傾向がかなりあった)、

「そのとき」の思考で物事を判断しがち。

その瞬間に、自分が「まだ」見えてないこと、

思い出せていないこともある。

ふだんはそうでないのに、怒りから、悲しみから、

見落としてしまうものもある。

なのに見えてないまま、そこで「即断」したら、

結論は狭まった、偏ったものにもなりかねない、

ということを「あらかじめ知っておく」。

 

直感で、スコーン! と腑に落ちるものとは違い、

頭でジャッジするものは、過去の経験が、そのときの判断について

かなり「邪魔をする」可能性もあることに、

留意しておかないとな……と思うのだ。

 

そもそも、そのときの自分が捉えている世界たけが『すべて』ではない。

それはある種の謙虚さにも通じることで、

だからその瞬間の良い悪い、だけを的確な判断だと信じ込む、

それをやめる練習をしていく感じ……だと、思ってもらえたら、幸いだ。

 

逆に、自分が感じたことを忘れがちな人は、

とくに自分が「イヤなこと」については、

見ないようにする癖があるのかも。

 

見なければ消えるのか?

というと、結構、これが消えないこともあり……。

そして見ないようにすることで、

逆に繰り返し味わう羽目にもなり、

そのたびにモヤモヤしてしまうようにも思える。

 

だから、繰り返し味わうときは、なぜそれがイヤなのか、というところまで

落ち着いて踏み込んでいってみる。

そして「なぜ」の部分で思い当たる理由が見つかったら、

そのあと、さらに

本当にそれしかないのか?

というところにも、触れてみる。

 

こうすることで、その自分の「イヤ」という気持ちの奥に隠れていることにも、

徐々に目が向けられたりするのだ。

 

そして「それをしたあと」で、双方に共通して言えることだけれど、さらに!

そういう自分であることを、そのまま「そうなんだな、私って」と

淡々と思ってみる……という練習を

してみていいのじゃないかな、と思う。

 

罵倒しちゃいたい自分、とか

忘れがちな自分、とか、

そのこと自体を「そうなんだな」と。

 

もちろん、とくに最初のうちは、

感覚的にモヤモヤします、これまたね。

納得できない感じ。不満が残るような感じ。

でもそれをまた否定したら、元のモクアミなの。

そのモヤモヤを持っている自分、という状態を、

そうなんだ、と、事実として認めてみる。

ただ単に『今のところ、そういう自分なんだな』と認識する「だけ」ね。

 

そういうふうに、フラット、平坦、淡々としてみること、も、

意外に、練習できるのですよ。

で、やってみたらわかるのだけれど、

練習する以前の自分って、

逃げてたな、とか、逆に偏りすぎてたな、と

「勝手に」感じられるようになるの。

 

これは、やってみないと感じられないことだから、

練習、本当に、してみてほしい。

 

あなたの今の「良い悪い」、

あなたの今の「おびえ」、

そこに注目し過ぎるのでもなく、

逃げ出すのでもない、ただの自分の観察。

 

モヤモヤ、鬱々とする自分がいることを、

遠くから見るような感覚が掴めれば、

それはやがて、感情に振り回されない練習にも、つながる。

感情に振り回されないでいられると、

どうなるか……それは、

あなた自身が、体感してみてください。

 

冷めろ、とかいう話でもない。熱いときもあっていいし、暗いときもあっていい。

そして見つめる練習をするときも、あっていいのだということ、だけ。

見つめる、今のことを知る、という練習。

熱もない代わりに、冷たさもない状態。

ヤカンでも氷河でもない自分、という感覚。

抽象的で申し訳なく思うけれど、

そういう状態が自分に何を「もたらすか」にも、理屈でない形で

少しずつ、気づいていってもらえたらと願います。

 

2015_07_01

Photo by cameralends
Pixabay

 

持つことの……

怖いのは 自分には何もないと

かみしめること

 

そう感じている人って

結構 いると思うのだけれど……

 

その前提にあるのは

「持っていないとダメ」

という気持ちじゃないのかな

 

身体一つで生まれてきた私たちは

生まれるにあたり 何も持っておらず

また 何かを所有したまま 一緒に消えることはできない

最後はたぶん 記憶くらいかな

それも持っているとは 言えないものだし 記憶も不変ではないよね

 

別に何も持っていないこと

それは基本で自然なことなのに

あなたはなぜか

持っていないと ダメだと信じ込んでいる

 

持っている「ように感じられるもの」を

たくさん所有しなければいけない

しかもなるべく立派で

人から賞賛されそうなヤツをね

 

お金や物に限らず 

人間関係 地位 生き甲斐 

はい その他には何を並べよう?

 

ねえ ならば生まれたての赤ちゃんは

この世の中で最も ダメで 劣る存在かな?

赤ちゃんは いるだけで 微笑むだけで

人々を笑顔にさせてくれたりもするけれど

あなたの捉えているルールに従えば 

この世でいちばん 何も持っていないから 

いちばんダメな人なんじゃない?

 

この世に自然に在るものは

たいてい 何も持っているようには思えないけれど

人間だけが それほどまでに 持っていないとダメな存在?

 

欲を持つな って言ってるんじゃなくて

持っていないと『ダメ』

この『ダメ』ということばかりに注目したら

そりゃ全人類 不幸ですわ……

 

あらゆる人間には 必ず何か 持っていないものがあるよね

少なくとも人種の違い 国の違い 生き方の違いなどがあって

それを『どの程度ダメか』で採点し始めたら

本当に『すべてを持っている』人など存在しなくなるよ

簡単に言えば 黒い瞳の人は 青い瞳にはなれないしさ

 

要はね それを『ダメ』と捉えるかどうかの話なんだよ

 

わかるかな

欠けているものをダメと捉え始めたら 

欠けていることに注目し続けたら

ありとあらゆるものに ダメが見つかる理由が生まれるよね

でもそれは単純に あなたが採点し始めて

しかも『ダメ』という気持ちを 使うからなのだ

 

これはダメだからこうしよう と思ったときに

なぜ私はこれをダメと思うのだろう?

その奥にはどんな『欲』が隠れていて

その『欲』は それこそ 備えていないと人間失格なのか?

 

そういうふうに 根源から 捉え直してみて欲しいんだ

 

たとえば恋人がいないと人間失格 なんて思いは

ただの『条件あと付け』でしかなくて

恋人を持つことで「何を得ようとしているか」なんだよ

その「何」をどんどん 奥まで 見つめてほしいのだ

 

それは 得なくては人間失格なことなのか

それだけが すべてなのか

ほかにも 別の何かがあるんじゃないのか

普通って? 基本って? 当たり前って? 標準って?

その基準を あなたはいつ どこから

何を持って決めて そう思い込むことにしたの?

 

できれば自分を罵倒したい気分のときでなく

少し静かに落ち着いているときに

本当に一度 そういう根源の部分を見つめて欲しいのだ

幸せのかたち その視野を 広げてみるためにも……

 

あなたの今の『思い込み』は 

他の角度から見た場合 わりとすんなり

外せることも多いと思えるよ

 

『持っていないとダメ』というおびえで 何かとつながる 増やすのは

最初からそれを 自分の都合で「穴埋め」に使おうとすること

つまりある意味 それを恐怖心から利用したいのだということ

 

何かと最初から そんなつながり方をする必要は 本当はなくて

それがない自分でも別に 豊かで「あってよい」のだということ……

 

それが人であれ 物であれ 環境 立場であれ ね

 

禅問答みたいかな でもそうなのよ

いつか 気づいていってもらえたらと 祈ります

 

2015_06_30

Photo by geralt
Pixabay

 

自分が決める、決めていい

一つ前の記事では、紹介した方の話が

力強くて素晴らしかったので、

あえて何も書かずにリンクさせていただいたのですが、

その内容に関することもちょうどいくつか、下書きしていたので、

今日はそのうちの一つを書き上げ、アップしたいと思います。

 

「~ねばならない」が心にしっかり、食い込んでいる人、信念になっている人は、

何かを達成すれば、自分の力を認めてあげられると思っているかも。

私は、過去の自分も振り返りつつ、そう感じています。

それは裏を返せば、何かを自分で「うまくできた」と感じられない限り、

自分を認めない、と決めつけているってことでもあります。

 

自分に条件をつけて、できなければ許さないなんて、

実はとてもスパルタ。とても厳しい。とてもマゾ。

 

そんなことを一切、しなくてもいいのに、なぜかしなければいけない、

そうでなくては自分が堕落してしまうと決めている感じ。

 

これを延々、自分に課せば、

常に緊張して、自分に注意を払って見張ることを

続けることが「当然」となります。

ミスしないか、できているかをチェックし続ける。

ずっと肩に力が入りまくることになるのです。

 

そんな緊張状態が、自分のデフォルト。見張りが基本です。

そりゃ、ずっと張り詰めて採点しまくって見張っていれば、

やがて自分で疲れてしまうのも当然ですが、

その人にとってはそれが、あまりにも当たり前の姿勢なので、

自分の緊張状態にさえ、あまり気づけない。

 

そしてダラケていたり、怠けていたりするように見える人、

自分とは逆の状態にあると「自分が捉えた」人のことを、許せなくもなります。

 

で、ついでにそういう人のことも常に見張って、悪い点を見つけては

「ムキーッ!!p(`Д´#)q」と怒ったりもする。

イヤなモノをわざわざ見つめてわざわざ怒るのです。

 

わざわざ、黒くてイヤな感情を、自分の中に湧き上がらせては、また疲れる……。

はい、これもマゾ的ですよね。

 

以前に話したお姉さんも、私が

「うちの部署だけでなく、大きな全体としての流れを見て」

業務分担を改善した(だから上司にもスンナリ提案が通った)ことが見えておらず、

ただ、目の前の彼女の仕事が増えて、

逆に私の仕事がその部分では楽になったから、怒っている。

それはそれで、間違いというほどのことでもはなくて、

ただ私とは見ている部分が違うだけ。

 

本当はその分、私も他の面での仕事を

より増やしているのですが(上司の要請でね)、

そこのところはお姉さんに直接関わりがないため、お姉さんは気づかない。

 

私が増やした部分は、大きな流れのなかでは、

お姉さんの部署にも役立っているのだけれど、

お姉さんの直接の仕事量には関係がないため、お姉さんはそこを見ないのです。

 

そして勝手に、怒っておられる。

 

だからといって私は、自分の都合しか見てないのはお前のほうだー! などと、

お姉さんに怒る気はありません。

単に違うだけと思えるから。

私は私で、会社の役に立てて、仕事の流れが良くなっていれば(実際なっているし)、

それで心地よいので、お姉さんが何を思おうと、別に関係ないのです。

 

これもまた、自分がどこを見るか、という選択ですよね。

きちんとしていきたいのは、私もお姉さんも一緒。

捉え方、捉える範囲がお互い、別なだけ。

 

お姉さんがプンプンせずに、なぜそんなふうに? と質問してきたら、

その辺のことを私はたぶん、説明しただろうけれど、

勝手にブチ切れて勝手に怒っている人に説明したところで、

悪いようにしか受け止めてもらえないかもしれないので、

相変わらず緊張状態を勝手に作り出してくれていますが(笑)

放置しているのです。

 

この例からもわかるように、自分が視野を変えて見てみたら、

必要のないところに、わざわざ黒く反応している可能性もあるわけですよ。

 

そして一つ前の記事にもあったように、

「目標にした何か」を成し遂げたり、自分が立派にならなくても、

そういう自分が今、見ている世界、捉え方は、自分で変えられます。

 

ご紹介したTakamiさんは、何かを達成したわけではありません。

ただ、何が苦しいのかを探していき、ふと、気づかれた。

 

やったことは、自分を責めすぎずに見つめる、客観的視点の練習だけ。

何かの達成感から自分を許せたわけでもなく、

なのに周囲の人に対する気持ちも、自分への気持ちも、

180度に近いくらい、変わっている。

負担に思っていたことが、他の面では良さも持っていたことにさえ、

目覚められたりもするのです。

 

何を成さなくても、立派に為さなくても、大丈夫だと私が言うのは、

まさにこのこと、なのですよ。

 

そして苦しい人ほど、そのチャンスを「捕まえる機会を持っている」と言えます。

なんせ、苦しみを手放したい、何とかしたい、変化させたいという気持ちが、

そこに「すでに」あるのですから。

 

だから、どうか、あきらめないでください。

成功だの立派だの美しいだのなんだの、

一般的で、王道なやり方だけが、すべてではありません。

人からわかりやすく認められるやり方「だけ」が、正しいわけではないのです。

それも別に悪くはない方法ですが、そのやり方でなくても、別に全然、

問題はないのです。あなたが他の方法はダメだと思い込んでいるだけの話。

 

Takamiさんはこれから「自信を持つ練習がますますできそう」な気がしませんか?

そういうふうに変化した人に、他者からは見えますよね?

そう、自分が気づいたあとで、周囲がそうやって

自分のことを見る目を、勝手に変えてくれる可能性も生まれていくのです。

あなたが今の自分を、マゾ的に責めることを、やめていけばね。

 

そこであきらめてしまったら、実現はしません。

あきらめないからこそ、さらに他の道も探そうという

別視点の気持ちも「より、持てる」ようになる。

そして道を探せば、出会えていくのです、自分に必要な人と。

 

もう一人、出会うまであきらめないことの例を挙げておきます。

一見、普通っぽいこの方も、周囲からバカにされようが、

自分にとって気になることを探すのは、あきらめませんでした。

あえてこういう表現をしてみますが、このおじさんが、

大好きな宇宙と、モロにつながる仕事でイキイキと仕事をされていること、

道ですれ違ったときに見抜けますか?

 

そういう意味で、世間一般と比べて自分の勝ち負けを捉えることの

くだらなさも、伝わってほしいと願います。

 

気づいていける。変えられる。挑戦できる。

自分でそうしようと、決めてやっていくだけでね。

だからこそ、人の力は、素晴らしいものを秘めているのだと、私は言い続けます。

こちらも以前に紹介した動画ですが、再び、プロフィールつきで

ご紹介して終わります。

 

あなたが、自分の世界を、自分で変えられるのですよ。

そのために苦しいやり方を必ず選ばなくてもいいのですが、

少なくとも、今、苦しいからこそ、あなた自身がその機会を作り出せるのです。

 

◎植松 努さん TEDでの紹介ページ
http://tedxsapporo.com/speakers/tsutomu-uematsu/

 

一方向からだけ見て「閉じ続けず」に、

かつ、あきらめずに、別の角度から、自分を開いてみてくださいね。

 

2015_06_25

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