カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

「気づき」を見つけた人

ご自身の気づき。

それを大きく、強く、深く、

表現しておられる記事に、出会いました。

 

必要な方に届くことを祈り、

リンクさせていただきます。

 

私の説明など、いらない記事だと感じます。

読んでみてください。

 

自分が自分を苦しめている、ということ。

それに気づかれる人が、

現れてくださいますように。

 

◎Takamiさん
「仁さんにふられて良かったーーー!! 仁さん、ふってくれてありがとーー(≧∇≦)!!」
http://amba.to/1IydLZV

 

2015_06_24

Photo by Ana_J
Pixabay

 

嫌っていたら 浅いところでとどまるよ

私が悪い 私がダメ

そこだけでとどまっていると

どうすればいいか なんてところまでは

本当に深くまでは やらなくてよくなっていく

 

だって「どうせ私 ダメだもの」

そこで理由をひとまとめにしちゃうから簡単

それ以上 捉える 感じる必要はなし

 

なのに嫌いな自分を 他人が傷つけると

今度は反対に ものすごい勢いで被害者にチェンジする

相手が私を傷つけた

私は傷ついた 私は傷つけられた

悲しい 悔しい

相手がひどい ゆるせない 

どうして私の気持ち わかってくれないの

 

でね また そこで とどまるの

 

ねえ 傷ついたと思っているその瞬間 

あなたはすごく自分のこと 守ってるよ?

守りたいから 相手をそう判断する

その瞬間 すごく自分を大切にしてるからこそ

そうやって被害者の状態に『浸れる』のよ?

 

それ 自分のこと 全然 嫌ってないじゃない

自分のこと すごく大事にしてるじゃない

本当のところ あなたは自分を嫌っているのじゃなくて

「うまくいかない状態」がイヤなだけ

それを自分か あるいは他人のせいにして

そこでとどまって おしまい にしてるだけなんだと

私には思えるよ?

 

本当に嫌いな人を 他者が傷つけている場面を見たら

まあ 冷たいようだけれど ある意味 仕方ない面あるよね……とは感じない?

 

そのときは ひどい なぜ どうして なんて気持ち

特に出てこないでしょう?

 

自分のことを 自分がいじめるのはどんどんやるけど

他人がやったら ものすごくショック

うん それ 自分を自由自在に(今は上から目線で悪いほうへ)扱っておきながら

 

でも他人からは尊重されたいってことで

根っこでは 自分を嫌いなわけではなく

ただ 何かが起こったときに 何か誰かのせいにするべきだと

「信じている」だけの話だよ

 

そこでとどまらないで もっと別の見方したらダメなのかな?

 

あなたが自分で自分の雑巾 乱暴に扱いました

それを見た他人が ああ それ そうやって扱っていいのね と思って

その雑巾を雑に扱った瞬間!

なぜ雑に扱うのよ! 大事にしてくれないのはなぜなのよ! なぜわからないのよ!

とあなたは怒り 悲しみ 苦しんでいる

 

ね? 矛盾してるよね?

どうせ私は雑巾レベル と 自分を粗末に扱うと

なるほど そうなのか それでいいのか と他者もまた 思ってしまうかもしれない

その可能性には なぜ気づけないんだろう?

 

自分で自在に自虐して たまには被害者の立場に立って

それをいつか やめさせてくれる人 待つの?

それをやめさせて「あげるよ」と言う人は

あなたをコントロールしたがる人だから

いつでも また すぐ被害者気分を味わって

いつまでも そこにとどまるけど?

 

自分の楽しさは

自分が 自分に与えるものであることを

根本的に 拒否していることが「謙虚で正しい」あり方なの?

 

まあね こういう書き方すると

そうね どうせ雑巾なのだわ 私 

だから雑巾らしく扱われる「べき」なんだわ 

とか言い出す人がいることも 容易に想像つくけれども

それ また「べき論」だよね 頭で考えてるだけ

腑に落ちていないのに 納得した振りするだけ

 

単純にさ 自分のこと 雑巾だと決めて 何か楽しくなれることはないよね

うまくいかないこと 多くなるよね?

 

あなたが本当に本気で 本心から

自分を雑巾扱いにしたくて それが喜び なら 止めないけれど

苦しみ なら それ あなたが「自分で」選ぶわけだから

別に「他のほう」を選んでもいいんじゃないの? 

 

なぜ わざわざ苦しいほうを 自分が選んできたのか

そっちを やめる方法を 探せばいいんじゃないの?

人生 楽しんでも いいんじゃないの?

喜んでも いいんじゃないの?

何をそんなにいろいろ 頭で決めつける必要があるの?

 

いつまでも 私はダメで ときに 私は かわいそうな人

ねえ そこから抜け出すのに

いったい 誰の許可が必要?

 

他人から分けてもらう可能性だけ 追求して

分けてもらえなければ不幸 分けてもらえたら 幸せ

でもいつも幸せになれるのは一瞬 

そりゃそうだ 他人任せだからね 

あ だから抜け出す許可まで求めたくなってるのかな?

 

任せているからいつまでも ちょうだい ちょうだい って言い続ける必要がある

私は雑巾 でもそんなちょっとじゃ足りない! って不満を 持ち続ける

ずっと自己批判しながら クレクレちょうだい! な人生 歩むの

そんなさ 自分に対する 人任せ放置型の べきべきな嘘つき人生

いつまで続けるつもり?

 

一生 夢見る夢子ちゃん

自分で自分を幸せにしていいことは 一生 無視して

どうして他者は 私が望むように 与えてくれないのよ! って

自分と他者への不満だらけのまま 老人になるつもり?

 

お互いが「自分自身」を大切にしつつ

「与えられる範囲で与え合う」からこそ

言葉で表現しきれないほどの 深い感動や感謝が生まれるのだと 私には思えるよ

 

いい加減 自分を見捨てておきながら

他人からばかり もらおうとするの やめてもいいんじゃないかな

自分を大事に出来ない人は 結局 

他人の思いも バキュームのように吸い取るだけで

大事に扱えないからさ

すぐに次も また次も さらに次も って

せっかく分けてくれている人に対して

永遠に 吸い取るだけになっちゃうからさ……

 

あなたが 自分で 自分のこと 雑巾扱いするのを「やめる捉え方」を探すのが

絶対的に と言えるほど先だと 私には思える

うまくいかないからと苛立ち クスリを飲んだり身体を縛ったり傷つけたり 

そんな自分をいじめれば済む みたいな方法ばかり

「~べきだから」という思い込みのもと 試すのではなくてさ……

 

2015_06_21

Photo by Ebowalker
Pixabay

 

自分を喜ばせる練習

自分が知ったこと、自分の中に入れたものは、

それを「練習するつもりで」使ってみることを、本気でおすすめする。

何もしないで鬱々してしまうのは、本当はかなり、もったいないから。

 

自分に否定的なときは、できるはずがないとか、

先にいろいろとイヤな仮定を思い浮かべて、仕入れたものを

自分を卑下する材料に変えてしまいがちだけれど、

そうやって否定しているなら、やってみてから否定しても、実は同じではないかな。

 

「もっと、できない自分」に直面しちゃう気がして、

それが怖いのかもしれないけれど。

それでもね、やってみれば、

「試してみた自分」というものを、ほめてあげることはできるのだ、本当ならね。

 

あなたは成功しなくちゃ、何かをやってはいけないのかな。

そんなに立派な人で、そんなに完璧に振る舞わなければいけなくて、

見事にこなせる自分でないと、許せないってことかな。

 

自分のアタマの中の『理想の自分像』が、ハードル、すごく高いんだね。

そうであらねば格好悪いとか?

誰に対して見栄、張ってるんだろう、それ。

ザックリ捉えている、イメージとしての「世間」?

あるいは一般的、平均、平凡であっては、自分はいけないのだという思い込み?

 

誰でも最初は平均以下から始めるのに、なぜそれは「当たり前」だと思えないかな?

誰でも、練習しないとうまくいかないことのほうが多いだろうはずなのに、

なぜ自分は「一発でキメなくちゃいけない」のかな?

 

ゴメンね、こういう表現、今日はあえて使ってみるけれど、

その、自分は完璧にならなくちゃいけないという『つまらない見栄』が、

自分を、平均以下どころかずっと、

始めることすらできないところに置いてしまっていることには、

絶対、気づきたくない?

 

そんな恐ろしいもの、見たくもないかな? 目を背けていたいかな?

本当は心の奥で、あなたも気づいているはすなのに。

 

まだ知らないなら、たとえ失敗しても、失うものは少ないよ。

そもそも今までは自分には『なかった』ことを

得ようとすることになるかもしれないから、

得られなくても、別に『ない』という状態が変わらないだけで済む。

そういう意味では損はしないよね、その部分では現状維持でいられる。

 

でね、他の部分で、あなたは必ず『得られる』のよ。

それをやってみた自分、という『変化』をね。

 

やってみたら、コツが少し、わかるかもしれない。

やってみたら、あんなに憧れていたはずなのに、そうでもなかったかもしれない。

やってみたら、他にもやりたいことが、連鎖的に、見つかるかもしれない。

そして何より「チャレンジしてみた自分」という明らかな事実も、一緒に残るのだ。

 

本当の意味での「成功しか見つめない人」というのは、

折れようが失敗しようが、たどり着きたい人だよ。

失敗は練習だとしか捉えない。

単に、そう自分が「決めていく」だけのこと。

それが『成功しか見ていない人』の、本来の姿だよ?

 

成功ばかり夢見ていて動けないというのは、

妄想して、今とのギャップを見つめて、自分にがっかりしているだけ。

そして、何かに成功すること「そのもの」よりも、

「成功して得られる他者、あるいは世間というものからの評価」

のほうを見つめているのだと、私には思える。

 

つまりね、人目ばかり気にして、自分にチャレンジさせていないか、

チャレンジさせても、人の評価だけ(つまりPRできそうな結果だけ)を気にして、

やること「そのもの」を、本気で味わっていないのだと。

 

そんなふうに「他者からの評価の目」を通じて、

自分がやることを捉え始めたら、いずれは

成功さえすればいい、という短絡思考に、陥るかもしれない。

成功と思えるものを形作るためには、どんな手段でも使いたくなるかもしれないよ?

 

成功(と自身でなんとか感じられるもの)によって

認められる、心地よくなる、注目を浴びる。

そこ『だけ』にハマって、それ『だけ』を見つめちゃった人の極端な例が、

あの、秋葉原の無差別の事件じゃない?

 

あんなにも「自分が求めた成功」だけを気にして、

他者に認められたいのに他人を踏みつけにするところまで、自分を持って行きたい?

 

あと、最近気になっているのは、他者のメールアドレスを集めるために

『人見知り克服』というネタを扱う人がどうやらいるみたいでさ。

それも「成功さえすれば」と同じ方向を向いている気がするから、

気をつけたほうがいいのじゃないかなと、勝手ながら私には思える。

 

この世の中から、人見知りで苦しんでいる人を減らしたいのであれば、

別に誰かのメルアド、集めるって作業まではいらないよね。

あなたの経験を素直に綴るほうが、よっぽど、他者の役に立てると思うよ。

メルアド集めてウニャウニャ、のほうを「第一目標」にすると、

他者の役に立つことは、残念ながら

「自分をごまかして納得させるための言い訳」に変わってしまう。

いいことを、なぜか悪いことの材料に、自分で変えてるよ、わざわざ、さ。

 

こんな辛い目に遭ってるんだから、ちょっとくらい

「自分だけが」得をしたっていいじゃない、とか?

でもね、それ、長続きできないよ。自分に後ろめたいことやってるもの。

もし万が一、長続きしたとしても、

そんな方法「でしか」やっていけない自分、というものを

どんどん、罵倒し始めると思う、心の奥で。

そうすると、他者との信頼関係を作りにくくなるほうへ、

他人をますます疑うほうへ、傾いていく可能性もあるからさ。

 

せっかく、辛い思いを乗り越えたいはずであろうのに、

わざわざ新しい苦しみへ、新たに自分をハメる必要、ないんじゃないかな?

っていうかそれ、苦しみが増えていくだけじゃないかな?

 

他者からの評価を求めて動く、あるいは怖くて動けない人は、

こうしたズレにも、やがて気づけなくなるしね。

自分がうれしくなりたいときに、安易に「自分にとって後ろめたいやり方」を、

選んでしまう人になっていく。

手っ取り早ければOK。その後のことは考えない。

苦しい人生、続くよね。

 

それはあなたが本当に『自分を喜ばせる』ことにはならないから、やめようよ。

自分に後ろめたいことでない方法、選ぼうよ。

 

そして勇気を出して、「本気で自分が楽しくなれること」を、やってみてほしい。

そうすれば必ず、同じように

『自分に後ろめたくない本気のうれしさ』

を、楽しんで練習している人たちとも、つながっていけるよ。

類は友を呼ぶ、それは本当の話なの。

 

どうか、自分に後ろめたくない範囲のことで、

やらない後悔よりも、やった後悔のほうを、

いつかあなたが、いくつも練習していけますように。

すぐにはうまくいかなくても、本当はだいじょうぶなの。

結局そのほうが、あなたにとって、近道になるよ。

 

「それでも私はチャレンジできた」という気持ちを、

『自分への言い訳』でなく『本物の自負』として持てる、使える道が、

あなたにも見つかりますように。

 

2015_06_19

Photo by Pezibear
Pixabay