自分を喜ばせる練習

自分が知ったこと、自分の中に入れたものは、

それを「練習するつもりで」使ってみることを、本気でおすすめする。

何もしないで鬱々してしまうのは、本当はかなり、もったいないから。

 

自分に否定的なときは、できるはずがないとか、

先にいろいろとイヤな仮定を思い浮かべて、仕入れたものを

自分を卑下する材料に変えてしまいがちだけれど、

そうやって否定しているなら、やってみてから否定しても、実は同じではないかな。

 

「もっと、できない自分」に直面しちゃう気がして、

それが怖いのかもしれないけれど。

それでもね、やってみれば、

「試してみた自分」というものを、ほめてあげることはできるのだ、本当ならね。

 

あなたは成功しなくちゃ、何かをやってはいけないのかな。

そんなに立派な人で、そんなに完璧に振る舞わなければいけなくて、

見事にこなせる自分でないと、許せないってことかな。

 

自分のアタマの中の『理想の自分像』が、ハードル、すごく高いんだね。

そうであらねば格好悪いとか?

誰に対して見栄、張ってるんだろう、それ。

ザックリ捉えている、イメージとしての「世間」?

あるいは一般的、平均、平凡であっては、自分はいけないのだという思い込み?

 

誰でも最初は平均以下から始めるのに、なぜそれは「当たり前」だと思えないかな?

誰でも、練習しないとうまくいかないことのほうが多いだろうはずなのに、

なぜ自分は「一発でキメなくちゃいけない」のかな?

 

ゴメンね、こういう表現、今日はあえて使ってみるけれど、

その、自分は完璧にならなくちゃいけないという『つまらない見栄』が、

自分を、平均以下どころかずっと、

始めることすらできないところに置いてしまっていることには、

絶対、気づきたくない?

 

そんな恐ろしいもの、見たくもないかな? 目を背けていたいかな?

本当は心の奥で、あなたも気づいているはすなのに。

 

まだ知らないなら、たとえ失敗しても、失うものは少ないよ。

そもそも今までは自分には『なかった』ことを

得ようとすることになるかもしれないから、

得られなくても、別に『ない』という状態が変わらないだけで済む。

そういう意味では損はしないよね、その部分では現状維持でいられる。

 

でね、他の部分で、あなたは必ず『得られる』のよ。

それをやってみた自分、という『変化』をね。

 

やってみたら、コツが少し、わかるかもしれない。

やってみたら、あんなに憧れていたはずなのに、そうでもなかったかもしれない。

やってみたら、他にもやりたいことが、連鎖的に、見つかるかもしれない。

そして何より「チャレンジしてみた自分」という明らかな事実も、一緒に残るのだ。

 

本当の意味での「成功しか見つめない人」というのは、

折れようが失敗しようが、たどり着きたい人だよ。

失敗は練習だとしか捉えない。

単に、そう自分が「決めていく」だけのこと。

それが『成功しか見ていない人』の、本来の姿だよ?

 

成功ばかり夢見ていて動けないというのは、

妄想して、今とのギャップを見つめて、自分にがっかりしているだけ。

そして、何かに成功すること「そのもの」よりも、

「成功して得られる他者、あるいは世間というものからの評価」

のほうを見つめているのだと、私には思える。

 

つまりね、人目ばかり気にして、自分にチャレンジさせていないか、

チャレンジさせても、人の評価だけ(つまりPRできそうな結果だけ)を気にして、

やること「そのもの」を、本気で味わっていないのだと。

 

そんなふうに「他者からの評価の目」を通じて、

自分がやることを捉え始めたら、いずれは

成功さえすればいい、という短絡思考に、陥るかもしれない。

成功と思えるものを形作るためには、どんな手段でも使いたくなるかもしれないよ?

 

成功(と自身でなんとか感じられるもの)によって

認められる、心地よくなる、注目を浴びる。

そこ『だけ』にハマって、それ『だけ』を見つめちゃった人の極端な例が、

あの、秋葉原の無差別の事件じゃない?

 

あんなにも「自分が求めた成功」だけを気にして、

他者に認められたいのに他人を踏みつけにするところまで、自分を持って行きたい?

 

あと、最近気になっているのは、他者のメールアドレスを集めるために

『人見知り克服』というネタを扱う人がどうやらいるみたいでさ。

それも「成功さえすれば」と同じ方向を向いている気がするから、

気をつけたほうがいいのじゃないかなと、勝手ながら私には思える。

 

この世の中から、人見知りで苦しんでいる人を減らしたいのであれば、

別に誰かのメルアド、集めるって作業まではいらないよね。

あなたの経験を素直に綴るほうが、よっぽど、他者の役に立てると思うよ。

メルアド集めてウニャウニャ、のほうを「第一目標」にすると、

他者の役に立つことは、残念ながら

「自分をごまかして納得させるための言い訳」に変わってしまう。

いいことを、なぜか悪いことの材料に、自分で変えてるよ、わざわざ、さ。

 

こんな辛い目に遭ってるんだから、ちょっとくらい

「自分だけが」得をしたっていいじゃない、とか?

でもね、それ、長続きできないよ。自分に後ろめたいことやってるもの。

もし万が一、長続きしたとしても、

そんな方法「でしか」やっていけない自分、というものを

どんどん、罵倒し始めると思う、心の奥で。

そうすると、他者との信頼関係を作りにくくなるほうへ、

他人をますます疑うほうへ、傾いていく可能性もあるからさ。

 

せっかく、辛い思いを乗り越えたいはずであろうのに、

わざわざ新しい苦しみへ、新たに自分をハメる必要、ないんじゃないかな?

っていうかそれ、苦しみが増えていくだけじゃないかな?

 

他者からの評価を求めて動く、あるいは怖くて動けない人は、

こうしたズレにも、やがて気づけなくなるしね。

自分がうれしくなりたいときに、安易に「自分にとって後ろめたいやり方」を、

選んでしまう人になっていく。

手っ取り早ければOK。その後のことは考えない。

苦しい人生、続くよね。

 

それはあなたが本当に『自分を喜ばせる』ことにはならないから、やめようよ。

自分に後ろめたいことでない方法、選ぼうよ。

 

そして勇気を出して、「本気で自分が楽しくなれること」を、やってみてほしい。

そうすれば必ず、同じように

『自分に後ろめたくない本気のうれしさ』

を、楽しんで練習している人たちとも、つながっていけるよ。

類は友を呼ぶ、それは本当の話なの。

 

どうか、自分に後ろめたくない範囲のことで、

やらない後悔よりも、やった後悔のほうを、

いつかあなたが、いくつも練習していけますように。

すぐにはうまくいかなくても、本当はだいじょうぶなの。

結局そのほうが、あなたにとって、近道になるよ。

 

「それでも私はチャレンジできた」という気持ちを、

『自分への言い訳』でなく『本物の自負』として持てる、使える道が、

あなたにも見つかりますように。

 

2015_06_19

Photo by Pezibear
Pixabay

 

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