人には人の……

他者のモノの見方 他者の事情というものは 

その人の生きてきた人生のなかで

いろいろ複雑に絡んで 湧いてきたことだったりするから

自分にも理解させてもらおうとして なぜなの どうして を連発したところで

その人本人にも 説明できない気持ちだってあるかもしれない

 

だから 根ほり葉ほり聞くことが親切ではないし

それでわかったつもりになって 相手にあれこれ言うのも

本当なら ちょっと違うのかもね

 

もしかしたら だけど

あなたがそのとき 自分のことを認めてもらおうとして

良さを 知ってもらおうとして 自分のことを見て やっているかもしれないよ?

 

そうじゃないかもしれない でもそうかもしれない

あなたもまた 自分の奥の気持ちには 気づいていないだけかも

 

私たちは そんなふうにして他者と関わっている

たとえそれが親子であっても 本当のところは 本人しかわからないってこと

あるかもしれないよね

本人さえ 気づけないでいること あるかもしれないよね

 

だから「私はこう思う」と 自分の意見を伝える そのときには

相手の意見を聞く時間もまた きちんと持つことは たぶん必須なのだと思える

 

たまにね この時間を 逆に相手に与えてあげないまま

なのに 気持ちを理解できるよねって 他者に迫ること ないかな

何も言わなくてもわかってくれるよね

きちんと説明するのは今はイヤ またはできない

 

そういうときは わかってくれるかどうか わかんないよ

説明することを ある意味 手抜きしたの あなただから

 

うまく説明できなくて困っているのだとしても

その 困っているということを 伝えないと

何がどうなんだか 相手にはわからない可能性あるよね

 

このあたりのこと 結構さぼってて なのに なぜわからないのよと怒るとき……

自分の気持ちを 表現して 説明していないのは 自分だってこと

気づいてもいいと思える

 

求めるのなら 自分の想いも きちんと出そう

いつも言ってるでしょ とか そういう言い方もやめて

今 の 自分 の 気持ちが どうなのか 伝えようよ

 

本当には わかり合えないかもしれないことが前提だからこそ

少しでも 共感がお互いに湧き 通じ合えたときには とてもうれしくなる

それが コミュニケーションというものの 醍醐味なのかもしれないよ

 

本当に全部丸々を わかり合えるようになろうとするから

おかしくなることも あるのかもよ?

 

あなたと私は 違う人間

あなたと私の間には 共通の気持ちを持つための 意識が必要

それを前提にするからこそ 余計にうれしさが増すってことを

今まで なぜなの? なぜなの? とばかり捉えていた人は

練習してみてもいいのだと 思えるの

 

その そもそもの 前提を変えれば

わかりたい わかってもらいたい相手 という存在のありがたさにも

もっときちんと 気づけるようになると思うしさ

 

まずは 相手を判断して決めつけるクセ やめてみるのはどうかな?

自分と他者は違う というのも 

奥に隠れている気持ちがあることも

当たり前 にしてみたらどうかな?

他者もあなたも 当然のことながら 

いつだって自由でいいのよ……

 

2015_06_20

Photo by HebiPics
Pixabay

 

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