カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

何かしないと「もらえ」ない

実績あげなくちゃ

思いやり示さなくちゃ

常に点数取らなくちゃ

 

そうじゃないと 私は 与えてもらえない

 

これがベースになっていると、

必ず何かをしないと、自分は

「してもらえない」存在なのだと、

自身へ言い聞かせているに等しいこととなる。

 

それで、かえって、ときには評価を奪いに行ってしまう。

「どう?」「これでいい?」「うれしい?」

「素晴らしい?」「さあ、点数つけてよ」

って他者に(態度や視線で訴えるのも含めてね)、言いに行ってしまう。

 

それって、他者が自分から「いいね」と言い出すチャンスは、

少なくとも、奪っているわけなのですよ。

相手が自由に感じて、思いをめぐらせる隙間を、与えないのです。

 

自分がそうするのはなぜか?

不安だから。

 

じゃあ、あなたが不安だったら、相手の自由、奪ってもいいのかな?

他人に気を遣っているつもりで、実は他人に気を遣わせてばかりになってないかな?

 

もし近い関係の相手なら、あなたの不安を取り除くためには、

相手が常に常に常に、

あなたを「良いと評価し続ける」必要があることになってしまうよ、それ。

 

不安のほうを、自分で、自分のために、手放す練習、したほうがよくないかな?

もらおうとすることに注目するのでなく、

なぜここまで私は奪いに行こうとしてしまうのか、の根っこにある

「自分への不信感」について、探ってみてもいいんじゃないかな?

 

そしてまた、自分を外側からだけ、変えようとしたら、

そこでも「何かをしなくちゃ」いけなくなるよ。

 

何かをすることで自分を変える前に、

何を感じているのか、それはなぜなのか、

なぜこんなに不信感や不安だけに、自分がわざわざ注目しているのか、のほうを、

『違うやり方』で探ってみてもいいのだと思う。

 

夢がないとか、お金が、ステキな見た目が、などの「得る」こと、

やった結果という『do』の部分でなくてね。

自分を信頼して呼吸できること、っていったい、

どんな感覚なのかな、ってことを、覚えてみる、知ってみる練習、

始めてみてもいいんじゃないかな?

 

誰にも構ってもらえない、見捨てられた状態、

つまりそういう『be』が怖いんだよね?

 

でもあのさ、基本的なところで、自分が自分を見捨てていなければ、

別にそんな「見捨てられている状況」なんて、発生しないのだよ。

 

発生しないの。本当に、本当の話。自分が常にそばにいる、ある、から。

 

つまりね、逆を言えば、

常にあなたが『自分を見捨てて外側から受け取ること』を当たり前にしているから、

それが基本の『状態』(be、あり方)だから、

何かして(do)、結果を受け取ることに注目しちゃうのだと、私には思えるの。

相手がどう受け止めるかは、相手のそのときの状態(be)によっても変わるから、

相手の状態(ご機嫌、be)を読み取るには?

そしてよい結果を出す(示してもらう、

相手にも反応をdoしてもらう)には?

そのためのよいやり方とは? のほうにばかり、注目しちゃう。

 

で、その結果、やってみて起こる『状況』は、

相手側が示そうかどうか、示すのなら、どう示そうか、

という思いをめぐらせる自由をなくしてしまう、

そういう形で相手に「良い評価の強制を求める」可能性さえあるんだよ?

 

それって結局、

『自分本位』と受け止められてしまうかもしれないよね? 相手には。

意図したことと、真逆の事態が起こるよね。

 

あなたが自分を今のようにただ批判しまくって嫌っていたら、

周囲には自分本位と取られかねない。

そんな悲しい『状況』って、嫌だよね?

 

だからさ。

私がやってあげる、あるいはやってしまう、

誰かに対する何か、が問題ではないの。

 

あなたにとっての「自分という存在」との、

良い関係づくり、がポイントなのよ。

 

自分に対してイラつく点、腹が立つ点、たくさんあると思うけれど、

それ全部、きっと「誰かに言われたこと」がきっかけ、

誰かからの反応がきっかけなはず。

求めに行きまくっているわけだから、当然、ほとんどが他人がらみだと思う。

そしてそれを、失敗などと、捉えているはず。

自分を嫌う理由、根拠にも、しているはず。

相手にも都合や気持ちがあるから、たまたまそのとき、相手がよくない状態(be)で、

だからこちらが、よくない反応、評価の言葉(相手のdo)という結果を、

受け取っただけかもしれないのに。

 

なのでね、全部、いったん、地面に埋めちゃってください、

その自己評価、というか、自己批判。

相手のそのときの都合、混ざりまくってるから、きっと必ず。

 

一切がっさい、捨ててください。

ただ捨てるだけでなく、地面に埋めちゃって、

さらに、平らな土地にならしてしまってください。

 

もう、その過去は、いいから。

十分、その思い出、苦々しく味わい尽くしたから。

地面に、還してあげてください。

 

本当に本気で0から、

改めて始める、自分との関係。

そこに、注目してあげてくださいね。

その覚悟ができるかどうかは、この先、とても大きな違いを生むと思います。

 

他人の失敗を延々恨んでいたら、ちっとも幸せになれないままだよね?

それと同じく、自分の失敗を延々、呪っていたって、

何も変わらないし、変えられない。

逆にそれは、変えることを拒否さえしてしまう態度でもあると、

私には思えるのです。

 

完全に埋めちゃって、ならしちゃえ、まず、自己批判そのものを。

目の前から、消してしまってください。

 

そこからが、スタート、だよ。

 

2015_05_22

Photo by フリー写真素材 Futta.NET

 

1兆人分DNA

千年前にさかのぼった 両親の数ってね

女性が25歳で産んでいったと仮定したら

累計 1兆人 いるらしく

 

20歳で計算すると

累計 1,100兆人に なるらしい

 

まあ 親戚での重婚とか その他いろいろ

あるだろうけれどね

 

この中のひとりでも欠けていたら

あなた

は 生まれていなかったという不思議

 

私たちの親 千年前の段階で それぞれに

少なくとも1兆人 いるんだよ

今は西暦でさえ 二千年経ってるから

とんでもない数のDNA 自分につながってるよ

 

だから あなたという人物は 最低

1兆人分の幅があって そこから紡がれている

 

1兆人もいれば さすがにその中には

自分の好みの人 混ざってるよね

 

この親たちを 東京ドームに収容したいと思ったら

必要なドームの数 1,800万個以上だよ?

万 だよ 単位 間違えないでね

 

想像してみて 18個の大福が乗った丸皿を

それが100枚で 1,800個

1,000枚でも 1万8,000個

1,800万個って お皿がなんと100万枚で

その大福の一つひとつに

5万5,000人……クラクラしちゃうよね

 

それが全部つながって あなたが今 ここにいる

さすがにその1兆人の中には 

あなたがステキだなと思う人 絶対 何人も混ざってるよね

 

その親の血も あなたは本当に受け継いでいるのだから

変われないだの どうしようもないだの

そんなこと 簡単にあきらめないでも よくない?

 

1兆人分以上のバリエーション幅を持って生まれたという 奇跡みたいな話を

自分で活かしてみても いいとは思えるんだ

 

あなたには まだまだ 

とんでもない可能性が 秘められていて

それはあなたに見つけてもらえるの 待ってるよ

 

だいじょうぶ これは事実としての DNAで

それを持つあなたは 現実に今 存在している

 

そこは揺るがない 真実だから

投げやりになるのも すねるのもあきらめるのも そろそろやめて

1兆人のうちの 誰かのステキさを 

再び あなたが受け継いで 体現していいと思えるよ

 

だからあっさり あきらめたりしないで 

その許可を まずは

自分自身に出してあげてね

 

2015_05_16_2

Photo by jelly
ID:201311031100
GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

参考:知る蔵campus
http://www.siruzou.jp/otaku/2634/

 

何かを してくれる人だけが「好き」?

たとえば の 話から入るね

今 自分が 憧れている 好きな人が いるとする

あなたはその人のこと ステキだな と 心の中で 思っているとする

人を想定するのが無理なら 好きな動物でもいいよ

 

さて そのとき

あなたはその人の『業績』や『自分への尽くし方の度合い』で

その 好き という気持ちを 抱いているだろうか?

 

その人が 何かを成し遂げたから 好き?

何かを 自分にしてくれるから 好き?

 

自分になんらかのモノを 貢いでくれるから好きで

貢いでくれないときは 途端に 嫌いになる?

 

好きになるきっかけのときには

確かにそういう面 多少はあるかも知れないけれど

好きになったあとは そんな即物的な駆け引き感覚ではなくて

きっと その人自身のほうを見て『感じる』んだよね

 

芸能人を 好きになるときだって

どんなに好みの外見でも

最初から根性悪くて 批判や悪口ばっかりの人なら

なあんだ ってガッカリして すぐ好きじゃなくなるからさ

 

好き という気持ちは

その人や動物の振る舞い の さらに奥にある 内側の部分を見て感じるモノ

言ってしまえば その『あり方』みたいな部分だということは

わかるかな?

 

好きであれば その人の 多少の失敗も

微笑ましく ゆるせるだろうし

その人がいてくれるだけで うれしい と思う気持ちは

その人に会っていない 直接あなたに 何かをしてくれない時間にも

自分の内側に 保てているよね?

 

片想いなどは そのわかりやすい例だと思えるけど

そう言えば 何となくは 伝わるよね?

 

好きな人のこと 常に採点 しないよね?

採点して そのたびに 

この件では嫌いになろう ガッカリしておこう なんて

積極的には 求めないよね?

 

そしてまた その人のこと いろいろ知ってみたいと思うし

知って 他の面も好きになれたら さらにうれしいよね?

 

わかるかな 逆に あなたに直接 暴言吐いたり

殴る蹴るをする人は 感覚的にもう 好きではなくなる

あなたを採点して 悪口言う人は 感覚的に 嫌いになる

 

だったら あなたも 自分を 好きになること可能なんだよ 本当はね

 

自分を気持ちのうえで殴る蹴る 暴言吐く

それをするからこそ さらに 自分嫌いになっていくのよ

だって『自分を勝手に傷つける人』だもの それ

感覚的に 嫌いになる一方だよ

 

だからさ

自分を罵倒するの なるべく やめてみたら?

自分を採点するの できるだけ やめてみたら?

コントロールしまくろうとすること 極力 やめてみたら?

 

そんなことしてくる人 あなた 嫌いなはずだよね?

なのになぜ 自分に対しては それをやるの?

 

言うこと聞かない人 殴りまくったら いつか

その人って あなたを好きになるの?

 

罰を与えまくって 常に非難しまくったら

その人 あなたを好きになるの?

 

何かをするから 何かになるから 何かができたから

自分を好きになるんじゃないよ?

 

それともあなたは 自分が好きになった人のことも

常に常に 何かにつけ 微に入り細に入り 見張りまくって

延々 こまめに採点してるのかな?

何をしてくれるか 自分への貢献度合いによって

しょっちゅう 好きの気持ちのレベル 変えるのかな?

結局 あなたの『好き』という感覚 感情は 

その人の『貢献の度合い』を見張るために使うモノ?

あるいは直接の関わりなら 見返り欲しさに使うモノでしかない?

 

そんなことは ない はずだよね

 

昨日も言ってみたけど

根本的な視点が違うっていう意味 少しは伝わるかな?

 

きっかけさえあれば

あなたは 自分を好きになれるし

本当はそもそも きっかけがなくても 自分は 自分を好きでいていいんだよ

 

何の根拠もなく それでいい

単純に 土台の部分で好きでいられるからこそ

信頼も信用も できるようになるんだよ?

 

そうした自分との関わり方

土台を作るのための レッスン

視野を変えてみるためのレッスン

そちらのほうが

何かになったり 成し遂げたり 何かを努力するよりも

実は 他人との関わり方よりも

優先なのだと 私には思える次第

 

他人から 今は何かをもらえなくても

そちらが優先 なのだと思うよ

 

難しく考えないで

まずはね 『微笑レベルの笑顔』でいてごらん

どうしても泣きたいときや 心が痛むときは 無理しなくてもいいけれど

それ以外の普通のときは できるだけ意識して

まったく何の理由もなく 口角 少しだけ 上げ続けてごらん

 

仕事中でも 移動中でも お風呂の中でも 朝起きてから 寝るまで

イヤなこと考え始めたら それも なるべく止めるようにして

代わりに口角を 意識してごらんよ

 

怪しい人? バカみたい? 

うん どうせ 自分はバカなんでしょう?

だったら良いじゃない

自分を罵倒する行為よりは よほどマシだし

少なくとも すれ違う周囲の人を

ちょっとだけでも ホッとさせられるよ?

 

同じバカなら 自己罵倒バカでなくて 微笑むバカに なってごらんよ?

 

最初はね 本当に そんな小さな練習からでいいのよ

なるべく意識して ホント1週間以上はやってみてね 

やってから 感じ始めるようになることがあるの だからやってみてね

微笑みやすくするために 穏やかな音楽とか使っていいから

この練習の意味は 自分でやがて わかるから……

 

2015_05_15

Photo by gaborfejes
Pixabay