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役割分担、的な話

今日の心屋さんの記事や、その他の方々のブログなどを読んだりして、

世の中って関わりのある人同士がそれぞれ、

役割分担してるんだなー、とやっぱり思えた。

実際の作業面だけでなく、相手がただ、存在してくれていることで表れてくる、

ありがたさや安心感、安定、自信、モチベーションのようなもの。

 

たとえば、心屋さんの記事っていうのは、

専業主婦さんが自己卑下してる話と、

ご主人さんが「俺のほうがオマエより偉い」という感じに比較してる話で

要はそれって、自分自身に対する気持ち(心の奥)を

相手に見てる訳だよ、ってことなんだけれど。

 

それ以前にまず、誰かと協働する、ともに過ごすことを選ぶとき、

それが肉親だろうが他人だろうが、ある種の、

一緒に、あるいは分担し、お互い協力してやろうね、の『約束をしてみる』わけで。

 

サラリーマンと専業主婦なら、

外で働く担当の人と、家の中の業務を担当する人、になる。

 

自分の家の中のことをする人が、別途いてくれるから(家事、育児、介護等)、

外で働く人担当の人は、日々、数時間『外で働くことだけ』に専念できる。

 

で、お金という道具は、たまたま今、外で働くことによって得やすい世の中で、

その道具を使うと、いろいろなものに交換できて便利。

なのでそういう仕組みが世の中で発達している。

 

外働きして家に帰ったら、自分の子孫が病もせず楽しそうに過ごしてて、

家の中がそこそこ整理されてて、風呂にもすぐ入れて、

ご飯も寝る場所も確保され、ある程度整えられているから、

翌朝も自分は病気にならずに起きられて、外働きへと、動き出せる。

 

そんなふうに、お互いが役割分担を問題なく機能させられて、

お互いに約束を守れ、大きな不都合も起きず、

今日もまた、とてもラッキーな1日でしたね、って話。

 

しかもね、この状態を続けていきたいな、と思うことで、

自分の役割に対するモチベーションも上げられる。

愛情がそこにあって、ゆえに安心感や信頼も持てていて。

とてもステキな役割分担ですね、お互いに、ってことだ。

 

たとえばそういうことが、家族を作るという基本だと、私には思えるわけです。

子どもたちは、その環境が『約束された役割分担』の結果だとは、

大人になるまで気づかないけれど。

たまたま、親同士の信頼関係が見えれば、

その環境に『安心感の存在』を感じられ、

自然に馴染み、自分の学びにできたりする。

 

子どもでも、家族に限らず、親戚だろうが、施設の人だろうが、

それぞれ、知らないうちに『その人がいることで成立する安心感』は

自分の学びにできるのだと。

そして大人になるにつれ、学校や会社等、選択可能な環境が増えていく。

 

でね。

その環境の中で、たとえば相手が感情をむき出しにしてきた、

そんなことがあったとしても。

少なくとも、あなたがそこに『存在していていい』ことは、

すでに先に容認されていて、だからそこで過ごせて、問題に出会った、と。

 

そしてあなたもまた、日々、仕方ないなー、なんてふうに、

どこかで思うことがあっても、その環境、その分担協力を

『そこに存在する』という点ですでに、受け入れてはいる。

 

本当に嫌なら、全部ひとりで、新しく作ってもいいのです。

どんなに非難されようと、本当に本当に、どうしても苦しくて嫌なら。

苦しい関係を断ち切って、一から新しく、お金の流れや、他者との間の信頼や、

分担協力するための約束をできる関係を、新たに作っていい。

与えられた、と思える環境を飛び出してみていいのだと、私には思えます。

 

あなたが存在することは、すでに世界の中でゆるされているから、

あなたは現在、そこにいて、『あなたの今』がある。

 

生まれた国、育った場所。選んだ経験や選んだ環境。

そこで関係を持った人。その中で、自身が選んでいるもの。

義理が、人情が、一応約束してみた役割分担の責任が

(親役、子ども役、社員役、社長役、彼氏役、彼女役、等々ね)、

自分の体調が、愛情が、信頼関係が、などの条件から、

『どこの環境で自分がどう存在するか』を常に選び続けている。

 

生活、という部分で見れば、便利な『お金というツール』を、

どんな役目でどう受け取るか、まで含めて、自分が選んでいる。

 

家族、という部分で見れば、どこの位置で何の役目を背負うか、

相手の期待や自分の気持ちや実際の負担レベルまで含めて、選んでいる。

 

言われて仕方なく従う……のもまた、自分が『受動的に』選んでいるのです、

それに従うこと、のほうを。

 

だからさ。

自分がなるべく心地よく『その環境に自分を置いて』、

かつ、何かの役目を『さらにいろいろ、果たしてみたい』なら。

 

自分の気持ちや相手の気持ちや、

そのとき発生している状況や、その他を加味しながら、

選び続けて、存在し続ける、

ついでに任された役目を果たしていくという、

その練習は続くわけです。練習なのだから、

もちろん、疲れたら休んでいいわけです。

 

休むの、ゆるさなーい! と叫ぶ他者がいたら、

なぜ休みたいのか、真摯に伝えようよ。

続けていきたいからこそ、疲れたときには休むってことを。

 

伝わらないなら、ゴメンね! って真剣な気持ちで謝って、今は休む、を選ぶ。

そこでおびえて、無理して、相手の主張だけを受け入れる必要もないし、

逆に自分の我だけを通せればそれでいいわけでもない。

 

あなたも心地よい、相手も心地よい、が両立できれば、一番いいよね。

で、もう、どうしても両立、無理! だったら、離れていい。

 

毎日、毎瞬、私たちは選んでいる。

そして自分以外の、自分と関係を持った他者と、協力し、協働している。

 

存在している、まずそのことだけで何かの役目を、

勝手に果たせているし、さらにいろいろな協力を

これからもしていっていいし、そのために調整も努力する。

そして、それらがうまくいったとき、とてもとても、『自分が』幸せになれる。

 

卑下してるだけで一生、終えなくてもいいよ。

非難してるだけで、一生、終えなくてもいいよ。

あなたは、あなたが幸せになれる『他者とのよい協力関係』を

自分自身で、常に、選んでいっていいのです。

はい、たとえ今、90歳になっていようとね。

 

そのためにも、自分の身体と、自分の心を、しっかり『大切に』してね。

そして自分の気持ちと感情は、

自分の心の奥や身体全体の調子に気づけるバロメーターだから、

無視しないで、丁寧に扱ってね。

 

相手だけを大事にせず、自分だけを大事にせず、

全体、をバランスよく大事にする練習、していってね。

 

もう一度言う。

あなたはこの世の中で、いていい存在だから、生まれて、生きてきた。

そして現在も、選んで、あるいは受動的に、今、そこにいるのです。

だから自分で選んでいっていいのです。これからも。

 

種が、ある場所へ到着した。

そこで芽を出し、成長して花を咲かせ、

新しい場所へさらに種を届ける。

それを間違っている、とは思わないでしょう?

だからあなたも、今いて、この先も選んで、いいのです。

それは自然なことなのです。

 

休息を上手に取りつつ、なるべく心地よくいられることを目指して、

でも、自分に決して無理させ過ぎないように、怖がり過ぎないように、

その役目の楽しい部分も見つけながら、練習していこう。

イヤなら自分から自分のために、流れや状況を変えてみる、

その勇気の『出し具合』もまた、練習していいのです。

本当は、それって調整してみる練習なだけで、

難しいならさらに、選択や調整方法を変えて試していく、の連続。

だから『失敗』とかいう概念も、本当は、そこには必要ないのです。

別に何を選んでみても、何をやってみても、本当は、いいのだから。

 

2015_01_11_1Photo by Pixabay

 

選ばれなければ 認められなければ いけないって?

ものすごくゆっくりとね 何度も繰り返しながら

今日は書いてみるよ

どの順番 どのタイミングで あなたに届くのか わからないからさ 許してね

 

誰かに 選んでもらえたら

誰かに 認めてもらえたら

私は 自信が持てるの

 

どうしてそこまで 

ひたすら何かを待つ必要があるのかな

それ 何の オーディションなのだろう

素晴らしい人間コンテスト とか?

 

つまりはイコール 誰かに認めてもらえるまで

私は 素晴らしくないの ってこと? 

なぜ自分の価値を最初から低く設定して

そんなにまで他人に

評価を委ねないと いけないのだろう?

 

選ばれるってことはね

その代わりに 他の人を蹴落としていいってことだよ

誰かに対して 優劣をつけるってことだよ

それ 何の戦いなんだろうね

何のための 戦いなんだろう

この世はすべて 戦い 争いでできていて

常に優劣だけで 成り立っているのかな

 

誰がそんなことを あなたに教えたのだろう

 

人間は選ばれるために 努力するのかな

自分が気に入った他者から 

優劣をつけてもらうために 努力するのかな

誰かを蹴落として 自分が優位に立つ

その発想 その視野自体を

丸々全部 やめるって方法もあるのだけれど

そっちをやめたら 人間失格なのかな?

 

誰がそんな競争を あなたに信じ込ませたのだろう

 

他者と 優劣を 競わねばならない

他人は 蹴落とすべき存在である

そして自分が認めた範囲の ステキな人

雲の上の誰かに 認めてもらって 選んでもらうの?

その雲という存在こそ 偽りだよ

雲の上の人たちって すでに勝った人?

人生を 勝っている人?

その他大勢は ダメな人ってこと?

 

自分が 雲の上の人よりは

何が何でも絶対に 劣っているのだという視点

人生は 人に優劣をつけるためにあるという その世界観

自分が赤ちゃんのときには 存在しない視点

それを 誰かに教わり 刷り込まれ

他者は蹴落とすべき存在だと 学ばされたかな?

あなたは劣っているのだと 決められたかな?

 

そういうことを言うヤツのほうが

よっぽど井の中の蛙で 品性が下劣だけどね

その下劣さを 信じる必要が なぜあるのだろう

 

人は皆 違っていて

それぞれに 素晴らしい面を 備えている

それをどう表現するかが 自身の選択次第なだけで

それぞれに優れた面を持っている事実に 変わりはない

 

なのに ある一面だけを比べ 優劣をつけることに

どんな意味があるのだろう?

 

そんなの スポーツや芸能界に生きる人に任せなよ

日常の暮らしの中にまで

私は劣っているのだ とかいう 視点を

わざわざ持ち込むこと自体 やめばいいんじゃない?

あなたと その人の 素晴らしさが違うだけだよ

ときには自分との違いが多いので 

相性として 合わないだけだよ

 

本当の姿は 

あなたはあなたで 素晴らしい

あの人はあの人で 素晴らしい

それがあるだけだよ

なのにわざわざ 自分でも 自分を蹴落としながら

誰かからの何かを 待っていく人生を歩むの?

そんな必要が なぜ あるのだろう?

 

あなたの心根の優しさや 思いやりや 愛を

すべて競争に使い

あるいはそんなもの捨てて

見た目の美や お金や 地位や立場や名誉

その他 優しく立派な家族や彼氏彼女を持つこと などで

わかりやすく「優位に立ったように見える」形に

なる必要があるってわけ?

 

それさ もう一度 聞くよ

誰に 認めてもらいたいのだろうね

誰に ほめてもらいたいのだろう

誰に 仕返ししたいのだろう……?

 

すでに今 あなたが見比べ 見下し始めている

まさに あなたが勝ちたいと思っている 世間かな? 

世間を見下したいという視点を 願いを抱えながら

なのに私の素晴らしさを認めて って 

世間に 誰かに 認めて! って 頼んでるよね それ

 

うん その矛盾した考え方ごと いらないと思うよ

この世界がそんなところだという視点で生きるから

すべて競争しなくちゃいけなくなり しかも

自分ですべてを 優劣という結果に落とし込んでから

『世の中を観る』形になってしまってる

 

それはもう 自分という存在を 

すべて他者からの意見に委ねてるだけ

他者から選ばれる 他者から輝いて見える だけを願い

『自分という人間の大切さ』が 自分の中に

どこにもいない人 だもの 

何も楽しめないよね 楽しむことすら 難しい

すべては他者からの評価待ち だから

 

自分という存在を 競争のみに使ったら

そんな世界しか 見えてこないよね

ねえ 本当に なぜあなたは 

自分の存在価値というものを 他者からの判断に委ね

人生そのものを オーディションにしなくちゃいけないのだろう……?

 

勝って 見下した相手から 素晴らしいと言われ

雲の上の人たちに 素晴らしいと言われなければ

あなたは生きている価値がない存在なのかな……?

 

勝ったときに初めて

ふふふ 俺って 私って 素晴らしい人間だわ と微笑み

やっと自分を認め 自己満足して ウットリするのかな

 

……私にはそれ ただの自己チューの  

傲慢な勘違いヤロウにしか思えないよ 

ゴメンね そんなの目指して どうするの? と

本気で 聞きたいよ……

 

自分が見つめ 願い 望んでいく世界は 

突き詰めればそんな結果になるのだということを

その明らかなズレを 知ってほしいと願うよ

世間から 認めてもらわねばという その視点 視野自体を

やめてみればいいのにと 祈るよ……

 

そんな競争の勝ち負け 必要なしに 

あなたは自分がいていいことを知り

自分で存在を大切にしてあげて

他者に対しても また 

素晴らしい面に注目して 付き合いを楽しんで

泣いて笑って 誰かを愛して 

一緒に 対等に 仲間として……

そんなふうに 生きていっても いいんだよ

そんなふうに 誰でも 生きていいんだよ

あなたは そう生きて いいのに……

 

それでもなお 外側の認めてもらえる条件をくっつけられるまで

自分を 非難し続けていきたいのかな

そうやって そんな世界観のままで 

いつか何かに 勝つまでは そのままでいたいのかな?

 

2014_12_23何をもって 勝ったと思えるのかが明確でない

終わりのない 勝利探し

 

 

私が私を保てることのありがたさ

私は、今日、ゆっくり眠ることを許されている。

自分がそのように眠るための家があり、

交通網トラブルくらいなら、たいていの場合、

最悪でも数時間歩けば帰ることのできる場所に暮らせている。

 

室内温度や風呂などの、清潔を守り、身体の健康を保つ仕組みや道具も、

日々、持つことができている。

家という建物、寝具、さらには町その他、それらをしっかり、

つくったり守ってくれている人たちがいたからこその、今のこの環境。

 

また、その状態を保てるだけの身体を持てていて、

さらに、心も壊さないよう気をつけて扱うことを学べた。

 

こうした形態を持つことを、結果として与えられたのだ……。

大人になり、自活できる能力を持てるようになるまで、

誰か(家族や学校や友人など)に育ててもらえた。

 

そして今、愛や、自分を大切にしていいことや、

他者との間で育まれる思いやりなどについて、

さらに学ぶことができている。

 

もっともっと視野を大きく観れば、地球という星が、

今のこの環境を保つことを可能にしてくれている。

 

地球の上にいる、人間という生きもの、としての私。

そのために、ほかの生き物の命をいただきながら、

命の大切さ、生きることの基本を、こうして教えてもらえている。

 

宇宙の仕組み自体が、そのような機会を

私にも、与えてくれているのだ。

 

普通で当たり前であるように思えるすべてのものは、

他者の協力と、他者への信頼、

また、そうしたことを自分ができるという、

今のこの環境によって、与えられている。

今、私がいる社会が、親切で平和なのだ。

地球もまた、誕生の頃のように延々と暴れまわってはいないからだ。

 

夜中にふと目覚めて気づけた、これらのこと。

ただ、感謝。

 

2014_12_18

Photo by kantokuruza