カテゴリー別アーカイブ: 自分という存在

自分が「好き」とか「嫌い」とか。その(1)

昨日の話に続き、私もまだまだ学び中なテーマ、その2です。

弱い部分、つまり上手くいっていない部分を自分がただ否定したら、今の、鬱々としている気分では

そこしか見えないので、そりゃあ、100%に近い勢いで、自分が嫌いになるだろう。

そしてたいてい、「他の人は……」と比べてしまうことになる。

また、図を使ってみよう。そのときのあなたの自己イメージは

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となっていて、周囲の人、世間の人については

sukikirai_tanin

になってしまっている。2つめは、別名「隣の芝生」とも言う(^^;)

でも、あなたは他の人の「家庭の奥の奥にある事情」も完全には知らない。

悩みがなさそうな人でも、実は「越えてきた」とか「始まりそう」だったりする。

人生ずっとこうだった! と言い切る人は「勘違い」とか「気づいてない」だったりする。

あるいは「そうは見せてないけれど、本人が、実は結構がんばってる!」だったり、ね。

まれに、「自然に昔から苦労なし」に見える人はいても、それは、たまたまあなたにとってはそう思えるだけ、

ってことかもあるかもしれない。生まれつきお金持ちの家に育って裕福な暮らしの奥さんとかさ。

でもその奥さんが、その暮らしにうまく「合っている」かどうかは、本人しかわからない。

あるいはその分、実は「周囲の人ががんばってる」こともあり得るのだ。

他人のことって、たとえばクセ毛の人がストレートヘアをうらやましいと思い、逆にストレートの人は

クセ毛がうらやましい、なんてことと同様、基本は「ないものねだり」。

生まれ育った環境を妬んだところで、あなたはその人と同様になれるのか?

努力して、いつかそうなれればいいけど、ムリならずっと、つらいだけだよね?

上の図の、あなたの思い込みはウソだ。あなたも他の人も、それぞれみんな、

人生で上手くいってる部分とそうでない部分があって、

上手くいってる部分については「気づいてない」「そんなものだと普通に思っている」ことのほうが多い。

自分のできていること(たとえば健康であることだって、とても大きいプラス要素だ)を遠くから

見直したら、今の自分がどんな「状態」かは、もうちょっと冷静に客観視できると思う。

自分を好きになる、というところまでに至るには、もう少し準備も、練習も必要だけど、

ああ、私ってこういう状態だよ、と客観視できれば、

自分が恵まれている部分(普通以上、の部分)もあって、

それは「上手くいってる」あるいは「普通にOK」なんだ、とわかるはず。

無理矢理、自分のよい部分を誇張しろ、と言ってるわけではない。

でも、こうやってブログを読んでいられる状態に、少なくとも今、あなたはなっているわけだ。

それは果たしてダメなのか? 恵まれてない、上手くいってない部分なのか? という「冷静」な視点を

まず、持ってほしい、と。

そんな、「細かい部分だけ」とか「下」を見たらキリなんてない、と思うかもしれない。

じゃあ、「夢」とか「上」だけを見てもキリはないじゃない。

なんで「上」ばっかりみるの? って話にもなる。

だって明日以降、どうなるか不安なのだもの、って人は、

明日以降、あなた次第で、あるいは周囲の人の協力によって、“逆に”よくなるかもしれない部分を

まったく「見ていない」のである。

もちろん、今すぐ絶対なんとかしろ、って言ってるんじゃないよ?

でも、前から言っているように「口を開けてエサを待ってる」だけ?

「魔法使いのおばあさんが現れるまで、何もできない、私はしない」ってこと?

それを前提に人生を見渡していくの? これからも? ずっと? 

そういう「視点」のことを、尋ねているのだ。

自戒をこめて書いているため、だんだん厳しくなっていきそうだ(^^;)

まず、自分の現状を客観視する、それをどう捉えるかを見直す、ってところをやってみてほしい。

紙とペンを使って、箇条書きで並べてみたらいいかもしれない。

「すでに持っているもの」を、やがてぜひ、武器に変えていってほしいから。

「この先、失ったらどうしよう」などと、今はとりあえず考えないで。

自分が好き、というところまで辿り着くのは、なかなか難しいテーマだよ……(^^;) 明日にもつづく。

「弱い」は強い。

ひとつ前のブログでタイトルのこの言葉を書いたとき、ああ、自分の弱さを認めることについて

掘り下げていくのか……この言葉、とうとう書いちゃったよ(^^;) と、思っていた。

なぜならこのテーマについては、私もまだまだ、まだまだまだまだ!(笑)探求中、だからだ。

っていうか、これって、人生のなかで常に起こってくる話だよな、別に鬱じゃなくても……と思う。

弱さを認めること、ってどういう意味なのか。

私の感覚では、「弱い自分もそのまま好き」、少なくとも「OK」でいられるようになる、ってことだ。

ほかにも「肯定」とか、「ゆるし」とか、まあ、いろいろな表現はあると思うけれどね。

まずは、子どもの頃を思い出してみよう。

何かで失敗しちゃった……とする。

鉄棒で逆上がりができない、とか、テストでうっかり答えを書き間違えた、友達と言い争いしちゃった、など。

今から考えればたいしたことのない話だけど、人生で、そういうチャレンジしかなかった「初心者」の時代だから、

自分のなかでは結構切実な、「ああ、やっちゃった……」「どうして……」というテーマであったはずだ。

このとき。

確実に言えると思うが、「だから自分はダメだ。死のう」とまでは、思わなかったはず。

ここでは、イジメとか虐待とか、そういう重くのしかかってくる問題は、また別の話としてほしい。

「失敗した」自分を「だから自分はダメ」に置き換えなかったはずだ(そもそもこの「失敗」というのも、

エジソン的に言えば「うまくいかないやりかたを新しくひとつ、覚えた」ってことだ。

そう捉えれば学びでしかないんだけどね……)。

「ダメな出来事 ≠ 自分はダメ」。イコールじゃなかったのだ。

「どうしたらうまくいくんだろう」「どうしたら仲直りできるんだろう」と悩んで、新たな方法を模索はしても、

「なんで私はこうなの! 私なんてもうダメ!! 大嫌い!」

と、強く自分を卑下することなんて、あっても一瞬だったはず。

しかもその卑下すべきところは「自分のなかの一部分」であって、

自分を死に追い込むほど全部、ではなかったはずなのだ。

たぶんそのとき、あなたは、「反省」はしても、「自分を全面的に嫌い」ではなかったのだ。

これが、私のいう「弱い部分も自分にある」と認める状態だ、と言えば、少しは理解しやすいだろうか。

そして今も、そういう観点から見れば、そこまで自分のこと、実は「嫌い」ではない、ということも。

起こってしまった出来事に対し、どう反省して「次」を生み出せばいいのかがわからず、

その「わからない」ことが今、つらくて、「死」という手段を使ってでも、そこから逃げ出したいのだ、と。

それなのに、「逃げ出したい自分」をさらにまた「弱い」と感じ、そこだけを今は見て、

「だから自分はダメ」につなげて全否定してるのだ、と。

言葉で書くと、難しい。図にしてみるね。

子ども用か! というくらい、簡単だけどお許しを(^^;)

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ものすごく単純に図式化すれば、こういうこと。

私の話している「視点の違い」が、わかるだろうか。

「弱い」自分を知っていること。でもそれが自分の全部じゃないし、どうすればいいのかな、って部分も、

即、解決できないのなら、もう死ななくちゃいけない、という話ではない。

あなたは、そんな「弱い」だけの人間じゃないのだ。

黄色い部分まで含めて全部「自分」、そういう自分が「まあ、ダメな部分もあるけどOK、やっぱ好き」であれば、

ただ、それでいいんですよ、と。弱い部分もあると知ってれば、強くなれるんですよ、と。

次はどうしたらいいのかな、と考えていけば、いつか成功にも辿り着く。本当はね。

今は、そう思える心になれるように、その「病気」を治すほうが先決だけど。

あと、もうひとつの利点。自分の弱い部分を認めると、他の人の弱さもある程度「見逃せる」ようになる。

ああ、この人の場合は、こういう部分が弱いんだな、と、思えるようにもなるのだ。

それもまた、自分が強くなれる、って話につながると思う。

最後に、たまたま巡り会ったカウンセラーさんの本をご紹介。

この話を書こうとしたら、今日、そのタイミングで、まさにこういう話に巡り会ったから、

たぶん、お役に立つと思います。直観だけど、なんせ目次がもう、そのまんまなので(笑)

ブログページごと、リンクを張っておきますね。書道家の武田双雲氏が、ツイッターで教えてくれた先生です。

心理カウンセラー 心屋仁之助 公式ブログ 「心が、 風に、 なる」

5/10日更新 「心屋動物園にコアラがやってきた」

http://ameblo.jp/kokoro-ya/entry-10887248708.html

自分を信じる、好きになる、ということについては、また明日以降……。

「いのち」というものをもった自分という存在

私たちの身体は、あまりにも強い衝撃には耐えられない。

酸素がなくなったり、栄養を吸収できなくなっても保てない。

それなのに、やわらかい皮膚を持ち、わりと大雑把な仕組みの「五感」で外界を判断し、

事故や病気などから自分を護りながら、生きている。不安定とされる、二足歩行で。

脳は、さまざまな判断を行っていくために徐々に大きくなり、

生きていくための重要な行動である「移動」のために車や飛行機まで操れるようにもなった。

移動距離を飛躍的に伸ばし、自分の縄張りを越えたところでも他の人間と交流し、生活を営むようになった。

普通の人でもそういうことができるようになっていったのは、ほんの200年ほど前くらいからの話だけれど。

もともと私たちは、自分の体内で栄養分を生成できず、常に「食物」を必要としている。

植物を他の動物が利用するようになってから、長い長い年月が経ち、こうした「いのち循環」を作り出した。

なぜ、そうした形で「いのち」というものが維持され、新しい「いのち」をつないでいくようになったのか。

その本当のところは、誰にもわからない。

わかっているのはただ、そういう「仕組み」であることだけだ。

この「いのち」という仕組みに、何の意味があるのか。

どうして私たちは、動物や植物は「生きている」のか。

神様がいて、その人が仕組みをつくった、という話も、正解か不正解であるかは、

誰も正確には、答えられないのである。

でも、たとえば今、私は椅子に座り、PCにむかって文章を書いている。

その「私」という人間は、ここにいる。

私のいのちは、私の内側にある。

それは、紛れもない事実である。

この五感で捉えた世界のなかで、私が生きること。

食事を食べ、寝て、起きて、活動して、ということを行うのは、私自身の判断だが、

生まれてから今まで、そうやって日々を過ごし、やがて「老い」と呼ばれる成長の最終段階を経て

死を迎えることは、私の判断ではなく生命体としての「仕組み」なのだ。

そんなふうに考えると、この私というものは、「すべて私だけのもの」ではないような気がする。

何かがあって存在させられることになった、もともと受け身の部分を持った存在。

わりと弱い、でも複雑な身体の仕組みを「持たされた」うえで誕生したもの、という気がする。

どんなに生活が便利になり、さまざまな医学的・技術的進歩があっても、

やがて身体は衰え、呼吸が止まる日が来る。

そのとき、自分がどういう気持ちで死ねるかはわからないけれど

(もちろん、途中で意識がなくなってしまう可能性もあるけれど)、

願わくば、与えられた「仕組み」をつかって、お迎えが来る最後の瞬間まで

温かい気持ちや穏やかな心をたくさん感じていきたいと思う。

この仕組みは、宗教的な感覚の人が言えば「生かされている」ことになるのだろう。

せっかくそのような「いのち」をもった形でなぜか今、私は存在しているのだから、

自然に呼吸が止まる最後の日まで、それを、自然に感じていきたいと思う。

つらいことも楽しいことも、まだまだこれから、たくさんやってくるだろう。

それを自分がどう感じ、どう越えていくのか、捉えていきたいと思う。

そう、一度限りで与えられた、この身体、この気持ち、この「いのち」なのだ。

もっと、あるいはもう少し大事にしてあげてもいいのだと、私には思える。