「いのち」というものをもった自分という存在

私たちの身体は、あまりにも強い衝撃には耐えられない。

酸素がなくなったり、栄養を吸収できなくなっても保てない。

それなのに、やわらかい皮膚を持ち、わりと大雑把な仕組みの「五感」で外界を判断し、

事故や病気などから自分を護りながら、生きている。不安定とされる、二足歩行で。

脳は、さまざまな判断を行っていくために徐々に大きくなり、

生きていくための重要な行動である「移動」のために車や飛行機まで操れるようにもなった。

移動距離を飛躍的に伸ばし、自分の縄張りを越えたところでも他の人間と交流し、生活を営むようになった。

普通の人でもそういうことができるようになっていったのは、ほんの200年ほど前くらいからの話だけれど。

もともと私たちは、自分の体内で栄養分を生成できず、常に「食物」を必要としている。

植物を他の動物が利用するようになってから、長い長い年月が経ち、こうした「いのち循環」を作り出した。

なぜ、そうした形で「いのち」というものが維持され、新しい「いのち」をつないでいくようになったのか。

その本当のところは、誰にもわからない。

わかっているのはただ、そういう「仕組み」であることだけだ。

この「いのち」という仕組みに、何の意味があるのか。

どうして私たちは、動物や植物は「生きている」のか。

神様がいて、その人が仕組みをつくった、という話も、正解か不正解であるかは、

誰も正確には、答えられないのである。

でも、たとえば今、私は椅子に座り、PCにむかって文章を書いている。

その「私」という人間は、ここにいる。

私のいのちは、私の内側にある。

それは、紛れもない事実である。

この五感で捉えた世界のなかで、私が生きること。

食事を食べ、寝て、起きて、活動して、ということを行うのは、私自身の判断だが、

生まれてから今まで、そうやって日々を過ごし、やがて「老い」と呼ばれる成長の最終段階を経て

死を迎えることは、私の判断ではなく生命体としての「仕組み」なのだ。

そんなふうに考えると、この私というものは、「すべて私だけのもの」ではないような気がする。

何かがあって存在させられることになった、もともと受け身の部分を持った存在。

わりと弱い、でも複雑な身体の仕組みを「持たされた」うえで誕生したもの、という気がする。

どんなに生活が便利になり、さまざまな医学的・技術的進歩があっても、

やがて身体は衰え、呼吸が止まる日が来る。

そのとき、自分がどういう気持ちで死ねるかはわからないけれど

(もちろん、途中で意識がなくなってしまう可能性もあるけれど)、

願わくば、与えられた「仕組み」をつかって、お迎えが来る最後の瞬間まで

温かい気持ちや穏やかな心をたくさん感じていきたいと思う。

この仕組みは、宗教的な感覚の人が言えば「生かされている」ことになるのだろう。

せっかくそのような「いのち」をもった形でなぜか今、私は存在しているのだから、

自然に呼吸が止まる最後の日まで、それを、自然に感じていきたいと思う。

つらいことも楽しいことも、まだまだこれから、たくさんやってくるだろう。

それを自分がどう感じ、どう越えていくのか、捉えていきたいと思う。

そう、一度限りで与えられた、この身体、この気持ち、この「いのち」なのだ。

もっと、あるいはもう少し大事にしてあげてもいいのだと、私には思える。

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