月別アーカイブ: 2015年3月

一度、失敗したら

失敗を延々悔やまれる方。

 

人たるもの、一たび失敗あらば

少なくとも10日以上は自分を責め、

自らを悔やみ、

自らを心で殴り、縛り、

いかに自分がつまらない、くだらない、ダメな人間であるかを

骨の随に染むまで、繰り返し考えるべし。

その後悔、決して止めず、24時間、繰り返し叩き込むべし。

 

間違ってもそのような失敗を犯した自分を許すまじ。

さもなくば、どんどん堕落の道をたどるのみ。

 

というような堅い堅い「お考え」を、誰かに吹き込まれましたか?

吹き込んだ人、まさに人生、失敗だらけかもですよ、実は。

でもあなたはそれに気づかず、

あるいはそれを本当にすばらしい教訓だと信じ込み、

今日もまた、あなたは自分を許さないのでしょうか?

 

あるいは、失敗したんです、ダメなんです、と言い続けることで、

「どんなメリット」を得ていますか?

 

優しく慰めてくれる人の登場? 誰かの慰め言葉待ち?

ならばいいよ、って、誰かが代わりにやってくれるの待ち?

慰めてもらって、なでなでしてもらって、ラッキー♪

代わりにやってもらって、自分は何もしなくてよくなって、ラッキー♪

弱いふりしてれば、みんな優しくするもの、私に。

私に注目して、私を大事に扱ってくれるもの。

 

この作戦、使わないテはないわ、ラッキー♪

って感じでしょうか?

 

失敗を延々悔やむメリットって、私にはそれくらいしか思いつかないし、

堅い堅い考えを忠実に守らなければ人間が堕落するなんて嘘っぱちな話も、

まったく、信用できないんです。なので本当に、

それをあなたがいつも長時間、そのことを考えることにする、

それを選んでいるメリットが、知りたくて。

 

そうでない? そんなことではない?

ではなぜ、あなたは、自分の失敗を見つめて、

わざわざくよくよする時間を、

そんなにたっぷり、使うのでしょうか?

その長い時間、何を味わっているのでしょうか?

疲れているのなら、さらに自分を疲れさせるのでなく、

しっかり休んではいかがでしょうか?

 

「後悔さんとデート」し続けるのが、そんなに好きですか?

思い浮かんだら、消す、という選択肢は、使わないのですか?

次はどうすれば改善するか、ということを、見つめたくないのですか?

 

そっちには時間を使いたくないけど、

後悔や自己非難にはたっぷり時間を割きたいのは、なぜですか?

 

「私がどれだけダメな人間で、自分をどれだけ嫌っているか」を

そんなにも「実証」することが、あなたにとっては大切なのですか?

 

何を自分が思い浮かべるか、を選んでいるのは、

あなた自身です。

暗いことしか浮かばないなら、考えること自体、いったん休憩させてもいいのです。

思考がやめられないなら、寝たっていいのです。

 

そして自分を嫌うことを選択しているのは、

紛れもなく、自分自身です。

自己否定は自分にしか、できない。

 

否定が止まらないなら、

それほどまでに自分が疲れていることを、もっと自覚してください。

そして疲れているなら、本気で、休んでください。

 

あるいは、また。それをやめないのは、本当に、

立派で完璧な自分でないと、好きになってはいけない、と

誰かに刷り込まれたからでは、

あるいは自分で思い込んだからでは、ないのでしょうか?

 

ああ、お堅く書くの、もう面倒だからやめるね。

その思い込み、ごめん、ただの「自分クソイジメ」だわ。

自分を認めてあげるって、自分を好きになるって、

立派だから完璧だからすばらしいから美しいからすてきだから頭いいから格好いいから、

○○だから、○○になれたから、○○できたから、

認めたり好きになるってことじゃないから。

全然、まったくもって、180度、違うから。

 

これ、心屋さん、武田双雲さんのみならず、

いろいろなカウンセラーさんたちが、口を揃えて言ってくれてることだよね。

悩みを受け止める人が、皆さん、そうだとおっしゃっている。

ってことは「何かできたから自分を認めるわけじゃない」って話は、

それなりに信憑性、あるんじゃない?

世の中のカウンセラーさん、全員嘘つきってことはあるまいに。

 

だからそこのところ、いいかげん、かたくなに思い込むの、やめてみたら?

失敗を見つめ続け悔やみ続けるのは、

自分にとって、よくないからやめよう。

ただ、それでいいのでは?

そう思って見つめることをやめる人って、自分と何がどう違うのか、

その視点を持つことをやめたら、自分がどう変わるのか、

知りたくは、本当にならない?

 

あ、もしかしたら、のメリット、もう一つあった。

誰かや何かのせいにして、しかもさらに自分を嫌っていれば、

自分から動かなくていいから。

そうなると、自分は、何の責任もとらなくていいから、

何か問題があったら全部、人のせいにできる。

私からやったわけじゃない、って感じで、

「ラクチン」ではいられるわ。人生、何も責任なし。

 

その代わり、自分からは動かないから、動かないでもいい根拠として、

ずーっと、不満を見つめて、

ずーっと、誰かや何かや自分を責めていく必要があるね。

それだけを見て生きていかないと、その位置、保ち続けること、できないもの。

 

だからあなたは、他者や自分に対する不満や批判や文句や、

ひたすら悲観するだけの人生を、見つめるための時間を、

そんなにもいっぱい、延々、使っているのかな?

自分で動いたその責任、負うの、面倒でイヤってことかな?

失敗したら笑われる。

笑われるのは、自分の責任。

笑う人は、ヒドイ人。

 

そんなふうにして動かず、ジッとしていること以外にも、

選択肢、あるんじゃない?

笑われなくなるよう、練習するってことも、可能なんじゃない?

笑われてもそれは、大したことないんだって、

実は天然ボケの愉快な奴、ドジでカワイイ奴、っていうふうに、

好印象になっていくことも、ありえるんじゃない?

そんな人間像は要らない?

完璧で格好よくてクールでスマートで美しく優しくなれない限り、

自分はダメなままで、そうなれない間はずっと、自分を嫌いでいる?

それ以外の自分像なんて、認めたくない?

つまりめちゃくちゃ自信過剰で鼻高々な、ピノキオになりたいわけかな?

 

昨日につづき、今回も辛辣でごめんね。

いや、昨日よりさらに厳しいか……σ(^◇^;)

「自分に対する、あるいは誰か何かに対する、

不満や文句や非難や罵倒や悪口を述べてばっかり」、

そのシーンに、今日は、ちょっと食傷気味なのかも。

おゆるしを。

 

2015_03_02

Photo by Pixabay

 

出してみて初めて、還ってくるもの

いろいろな場所の、いろいろな方の記事から

示唆をもらって書きたくなった話。

 

自分が表現をすると、それを受け止める人がいる。

それは日常のやり取りでも、ふつうに起こっていることではあるけれど、

もっと意図的に自分が発する場合で、話してみる。

 

たとえばこのブログでは、私が勝手に話したいことを書く。

それを読んで、何かを感じ取ってくださった人が、

ときどき、感謝の気持ちを伝えてくださることがある。

 

で、私は、そう感じてくださった方の感覚、感性に感謝したくなり、

感じてくださった方のほうはさらに、

私がそもそも表現にチャレンジしたことを、感謝してくださる。

 

こうした気持ちのやり取りを、私は個人的に「美しい循環」と呼んでいて、

イメージ的にもなんとなく、光の粒の輪がお互いをつないで、

くるくる、キラキラと巡っているように思える。

 

どちらがすばらしい、という話ではない、

どちらも発し、どちらも受け取れるもの。

そして、自分が発した以上のものが還ってくることも、たくさんある。

 

そうかと思えば、感謝の気持ちをおっしゃってくださってはいるのに、

巡らず、一方的に流れていくだけの感覚になるときもある。

それはどういうときかと言うと、相手の方が、

自分自身を見捨てて、こちらにすべての答えを出されるよう、

お任せされてくるように思えるとき。

 

私は、自分の力は、使わないのです。自分を信用してないから。

自分は、何もそれを工夫することはしないのです。自分が嫌いだから。

だってあなたは、発する人なのだから、

私に答えもヒントも気づきも与えてくれるでしょう?

与えてくれるんですよね、そのためにやってらおられるはず。

だから私は求めます。

与えてください、与えてください、

もっと、もっと、もっと、

私を心地よくしてほしいんですけど、

私を楽にしてほしいんですけど。

それじゃ足りません、もっと!

 

さらには

そういうのを求めているんじゃありません、私はこんなに大変なのですよ?

こんなのが欲しいんです、こういう状況なんですよ、私は!

あんなのじゃ、嫌なのです。

なぜそれを、与えてくれないんですか!?

と、逆ギレされたことも、ごくたまにだけれど、ある。

 

そして、その度合い、イメージが、

ブラックホール並みのバキューム、みたいなものに思えることも、

ごめんなさい、ごく、ごくまれにだけれど、確かにある。

どこまで何をどう発しても、いつ終わるか、想像がつかないから。

 

あえて、すごく極端な言い方をしているので、不快な方がおられたらごめんなさい、

でも、そういう感覚なのだ。

ここでは、何をどうしたところで、循環らしきものは生まれない。

 

というのも、その方が、

自分のために、自分自身で気づく、見つけてあげる、という意識を、

ある意味、完全放棄されているから。

その能力をすでに持っておられるにも関わらずね。

 

こう書くと、わからない、持ってないと思っているから聞いてるのに!

と感じる方もいるだろうけれど、それは勘違いだよ。

 

今、あなたの中で「欲しいのはそれじゃない」という

アンテナが作動しているってことは、

自身で求めているものが、すでに何か内側に「もう存在」しているからこそ、

違う、それじゃない、と感じるのだ。

まったく、全然、何もなければ「それじゃない」とは、感じないよ。

 

完璧なピンポイントの答えがどれなのかはわからなくても、

少なくとも、あなたが求めている方向性は、

あなたの中に、もう気づきとして、持てている。

自分自身で気づく力を、すでに備えている。

 

なので、それを自分が、自分のために使う、

自分のために答えを探ってあげようと、

もっと意識していけばいいのだ。

何か違うと感じるなら、

何がどう違うのかを、自分で感じて、整理してみる。

そういうふうにヒントとしても使えるのだから、

自分にばっちり合う答えが見つかるまで放浪しなくても、

途中でわかる場合もあるよ。

 

今さえ楽になれればいい、とか、

自分では、自分を大切にするとか

そういうこと、一切、何も考えなくていい。

他人にお任せしていればいいんだ、

だって私は、こんなにダメだから。

あるいは、まさに今、こんな立場なのだから!

 

もし、もしね、そう思われているなら。

まさにそれ、実際にやっていることは、

他者に「私はどれなのかわからないし、

こんな自分のために探してあげるなんてことしたくないから、

あなたが全部、あなたの持ってるものを並べてみてよ。

カタログみたいにわかりやすく出してね。

しかも正解でなければ、見つかるまであなたの答えを全部、

私のために、ちゃんと的確に並べてみせていってね。

そうすれば、私はその中から、今、これなら、と思える

自分を心地よくしてくれそうなものを、選ぶから」

 

「あと、困るたびに毎回聞くから、毎回、そうやって提示してね。

私の求めている答えは、時期によっても状況によっても、その都度、変わるもの。

だから私が納得するものが見つかるまで、毎回、あなたが持ってるものを

私に必要な部分、全部、提示してね。

嫌なもの提示されたら、私は怒るから。傷つくから。

さらに自分ギライになるかもしれないよ」

なのだ。自分を見捨てたまま、

そこをまったく何もせず、答えを他者に求めにいくことって、

とても極端に言えばそういう感覚なんだよ。

 

さらに、そこにお金が介在したら?

お金、払ったのに! って怒ってみる?

見つからないなんて、なんて私はダメなんだろう、って、

さらに自分ギライになってみる?

 

自分が何か発したあとで、つながるご縁があった場合、

キラキラも、拒否も、どちらの関係も生まれ得る。

そしてどちらの方も感謝を述べてくださるにも関わらず、

自分のために、自分がやる、探すのだ、という気持ちを放棄されているかどうかは、

こちらに、かなり明確に伝わってくる。

 

もちろんそれもまた、時期によって、変わっていく。

バキュームされる方が、一生、バキューム側だけにとどまるとは限らず、

発する側に回られることも、多々ある。

 

そしてこれは、仕事の先輩に言われたことがあるのだけれど、

学びとして、恩を受けたわ、と自分が思えた場合でも、

それを相手に「返せるとは限らない」から、

無理なときには、他の人に返したっていいのだ。

 

そう、別に循環しなくても、その形でも、輪は広がっていく。

それは発した側も、きっと、冥利に尽きる形であると思える。

素晴らしい形で活用してもらえたのだから。

 

もう一度、言う。

あなたの中には、すでにもう、答えがあるよ。

なので整理するために、探してみたり、

自分で自分を変えて、自分が自分を救うのだ、という視点から

他者にヒントをもらうのであれば、何も問題はないよ。

 

相手に延々、解答カタログを並べさせるのでなく、

自分を大切にするために、何を求めているか、自分でもっと探していいんだよ。

 

自分に価値がない、という視点「だけ」を自分に固定すると、

そのつもりがないのに、

相手がカタログを「広げざるを得なくなる」ことがあるよ。

 

だからこそ。

自分がなぜ「私はダメな人間」、

あるいは「私は弱い」「不幸」という、

その視点だけを固定したがって、し続けているか、

そっちについて、捉え直してみてもいいと思えるんだ。

こんなに大変、だけを述べ始めたら、上には上がいることになっちゃうからさ。

 

あなたはすでに、いつも、これから先も、ダメじゃない。

自分のための力を、あなたはもうきちんと、備えているよ。

気力がないときは休み、自分のために探す気持ちが湧いたときにだけでも、

少しずつ、自分の視点を変えていく気になってみて欲しいと願う。

 

それからもうひとつ。

美しい循環って、本当に、ありがたくてうれしいものだから、

あなたもいつか、発してみてもいいと思える。

「ダメなままの自分」と思えるその一部を、そのまま、

自分のため、整理するために、

あえてさらけ出すことが、ときには

他者にもヒントをもたらすし、その逆も起こり得るよ(ただし、

自分がいかに不幸で哀れかを、他者と比べる自慢競争はしないでね、

それをやるとますます、自分の首をしめて、自分ギライが加速するから)。

 

どんな時期のあなたであっても、

あなたはちゃんと答えを見つける感覚を持っているし、

つまり自分の中に、その力を備えている。

だから別に、そこまで自分を否定していかなくてもいいのだ。

思い通りになることだけが、人生における素晴らしさのすべてでもない。

 

今回はあえて極端な書き方をしてみたので、

もしかして傷ついた方がおられたら、ごめんなさい。

あなたのなかには、必ず、あなたのための、光はある。

だから私は、あなたの、その光を見つけるための力の発露を、

これからも祈り続けます。

 

2015_03_01

Illustration by vector backgrounds
ID:201402102100
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