いろいろな場所の、いろいろな方の記事から
示唆をもらって書きたくなった話。
自分が表現をすると、それを受け止める人がいる。
それは日常のやり取りでも、ふつうに起こっていることではあるけれど、
もっと意図的に自分が発する場合で、話してみる。
たとえばこのブログでは、私が勝手に話したいことを書く。
それを読んで、何かを感じ取ってくださった人が、
ときどき、感謝の気持ちを伝えてくださることがある。
で、私は、そう感じてくださった方の感覚、感性に感謝したくなり、
感じてくださった方のほうはさらに、
私がそもそも表現にチャレンジしたことを、感謝してくださる。
こうした気持ちのやり取りを、私は個人的に「美しい循環」と呼んでいて、
イメージ的にもなんとなく、光の粒の輪がお互いをつないで、
くるくる、キラキラと巡っているように思える。
どちらがすばらしい、という話ではない、
どちらも発し、どちらも受け取れるもの。
そして、自分が発した以上のものが還ってくることも、たくさんある。
そうかと思えば、感謝の気持ちをおっしゃってくださってはいるのに、
巡らず、一方的に流れていくだけの感覚になるときもある。
それはどういうときかと言うと、相手の方が、
自分自身を見捨てて、こちらにすべての答えを出されるよう、
お任せされてくるように思えるとき。
私は、自分の力は、使わないのです。自分を信用してないから。
自分は、何もそれを工夫することはしないのです。自分が嫌いだから。
だってあなたは、発する人なのだから、
私に答えもヒントも気づきも与えてくれるでしょう?
与えてくれるんですよね、そのためにやってらおられるはず。
だから私は求めます。
与えてください、与えてください、
もっと、もっと、もっと、
私を心地よくしてほしいんですけど、
私を楽にしてほしいんですけど。
それじゃ足りません、もっと!
さらには
そういうのを求めているんじゃありません、私はこんなに大変なのですよ?
こんなのが欲しいんです、こういう状況なんですよ、私は!
あんなのじゃ、嫌なのです。
なぜそれを、与えてくれないんですか!?
と、逆ギレされたことも、ごくたまにだけれど、ある。
そして、その度合い、イメージが、
ブラックホール並みのバキューム、みたいなものに思えることも、
ごめんなさい、ごく、ごくまれにだけれど、確かにある。
どこまで何をどう発しても、いつ終わるか、想像がつかないから。
あえて、すごく極端な言い方をしているので、不快な方がおられたらごめんなさい、
でも、そういう感覚なのだ。
ここでは、何をどうしたところで、循環らしきものは生まれない。
というのも、その方が、
自分のために、自分自身で気づく、見つけてあげる、という意識を、
ある意味、完全放棄されているから。
その能力をすでに持っておられるにも関わらずね。
こう書くと、わからない、持ってないと思っているから聞いてるのに!
と感じる方もいるだろうけれど、それは勘違いだよ。
今、あなたの中で「欲しいのはそれじゃない」という
アンテナが作動しているってことは、
自身で求めているものが、すでに何か内側に「もう存在」しているからこそ、
違う、それじゃない、と感じるのだ。
まったく、全然、何もなければ「それじゃない」とは、感じないよ。
完璧なピンポイントの答えがどれなのかはわからなくても、
少なくとも、あなたが求めている方向性は、
あなたの中に、もう気づきとして、持てている。
自分自身で気づく力を、すでに備えている。
なので、それを自分が、自分のために使う、
自分のために答えを探ってあげようと、
もっと意識していけばいいのだ。
何か違うと感じるなら、
何がどう違うのかを、自分で感じて、整理してみる。
そういうふうにヒントとしても使えるのだから、
自分にばっちり合う答えが見つかるまで放浪しなくても、
途中でわかる場合もあるよ。
今さえ楽になれればいい、とか、
自分では、自分を大切にするとか
そういうこと、一切、何も考えなくていい。
他人にお任せしていればいいんだ、
だって私は、こんなにダメだから。
あるいは、まさに今、こんな立場なのだから!
もし、もしね、そう思われているなら。
まさにそれ、実際にやっていることは、
他者に「私はどれなのかわからないし、
こんな自分のために探してあげるなんてことしたくないから、
あなたが全部、あなたの持ってるものを並べてみてよ。
カタログみたいにわかりやすく出してね。
しかも正解でなければ、見つかるまであなたの答えを全部、
私のために、ちゃんと的確に並べてみせていってね。
そうすれば、私はその中から、今、これなら、と思える
自分を心地よくしてくれそうなものを、選ぶから」
「あと、困るたびに毎回聞くから、毎回、そうやって提示してね。
私の求めている答えは、時期によっても状況によっても、その都度、変わるもの。
だから私が納得するものが見つかるまで、毎回、あなたが持ってるものを
私に必要な部分、全部、提示してね。
嫌なもの提示されたら、私は怒るから。傷つくから。
さらに自分ギライになるかもしれないよ」
なのだ。自分を見捨てたまま、
そこをまったく何もせず、答えを他者に求めにいくことって、
とても極端に言えばそういう感覚なんだよ。
さらに、そこにお金が介在したら?
お金、払ったのに! って怒ってみる?
見つからないなんて、なんて私はダメなんだろう、って、
さらに自分ギライになってみる?
自分が何か発したあとで、つながるご縁があった場合、
キラキラも、拒否も、どちらの関係も生まれ得る。
そしてどちらの方も感謝を述べてくださるにも関わらず、
自分のために、自分がやる、探すのだ、という気持ちを放棄されているかどうかは、
こちらに、かなり明確に伝わってくる。
もちろんそれもまた、時期によって、変わっていく。
バキュームされる方が、一生、バキューム側だけにとどまるとは限らず、
発する側に回られることも、多々ある。
そしてこれは、仕事の先輩に言われたことがあるのだけれど、
学びとして、恩を受けたわ、と自分が思えた場合でも、
それを相手に「返せるとは限らない」から、
無理なときには、他の人に返したっていいのだ。
そう、別に循環しなくても、その形でも、輪は広がっていく。
それは発した側も、きっと、冥利に尽きる形であると思える。
素晴らしい形で活用してもらえたのだから。
もう一度、言う。
あなたの中には、すでにもう、答えがあるよ。
なので整理するために、探してみたり、
自分で自分を変えて、自分が自分を救うのだ、という視点から
他者にヒントをもらうのであれば、何も問題はないよ。
相手に延々、解答カタログを並べさせるのでなく、
自分を大切にするために、何を求めているか、自分でもっと探していいんだよ。
自分に価値がない、という視点「だけ」を自分に固定すると、
そのつもりがないのに、
相手がカタログを「広げざるを得なくなる」ことがあるよ。
だからこそ。
自分がなぜ「私はダメな人間」、
あるいは「私は弱い」「不幸」という、
その視点だけを固定したがって、し続けているか、
そっちについて、捉え直してみてもいいと思えるんだ。
こんなに大変、だけを述べ始めたら、上には上がいることになっちゃうからさ。
あなたはすでに、いつも、これから先も、ダメじゃない。
自分のための力を、あなたはもうきちんと、備えているよ。
気力がないときは休み、自分のために探す気持ちが湧いたときにだけでも、
少しずつ、自分の視点を変えていく気になってみて欲しいと願う。
それからもうひとつ。
美しい循環って、本当に、ありがたくてうれしいものだから、
あなたもいつか、発してみてもいいと思える。
「ダメなままの自分」と思えるその一部を、そのまま、
自分のため、整理するために、
あえてさらけ出すことが、ときには
他者にもヒントをもたらすし、その逆も起こり得るよ(ただし、
自分がいかに不幸で哀れかを、他者と比べる自慢競争はしないでね、
それをやるとますます、自分の首をしめて、自分ギライが加速するから)。
どんな時期のあなたであっても、
あなたはちゃんと答えを見つける感覚を持っているし、
つまり自分の中に、その力を備えている。
だから別に、そこまで自分を否定していかなくてもいいのだ。
思い通りになることだけが、人生における素晴らしさのすべてでもない。
今回はあえて極端な書き方をしてみたので、
もしかして傷ついた方がおられたら、ごめんなさい。
あなたのなかには、必ず、あなたのための、光はある。
だから私は、あなたの、その光を見つけるための力の発露を、
これからも祈り続けます。
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