木元見春 のすべての投稿

やわらか、という観点のために

どこかぎこちなくて、一直線。

あるいはいつもおびえてビクビク。

 

私は表面的には、1つめの自分、であることを感じていて

柳のような人間になりたい……などと言葉にしていたけれど、

その奥……裏側にはビクビクの自分が控えていましたよ、と。

 

これらの2つは、思考や感情の上で、

もしかしたらセットなのかもしれない。

 

私の場合「2つのことを同時には、うまく『こなせない』人」という

刷り込みも、自分に対して意識的に、明確にやっていたしね。

 

しかもこの場合の『こなせない』は、

両方とも100点近くを取らねばならない「のに」できない、

という、とんでもない高基準を設定していた。

 

今からすれば、なんじゃそりゃ、な話だけれど、

人は常に頑張らねばならない、が基本姿勢だったから、

そりゃもう、身体全体、力、入りまくりな人だった。

 

この前、書いたように、認められないと私は『ダメ』な人間、

他の人とは違って、私には『ダメな人間性』がベースに備わっている、

そもそもが「劣っている状態」の人間なんだ、と、

心の奥で勝手に思っていたから。

 

じゃあ、普通って何なのよ、優れているって何なのよ。

比較するのであれば『普通の人間』についても

ちゃんと捉えてなきゃ、本当は比較できないはず。

 

でも、そんなこと、気にもしなかった。

うまくできてる人だけ、見てた。

それをいろいろ、自分に取り込んでいかなくてはいけない、

努力を続けていかなければ、私は本当は

普通に「さえ」なれない(と心の奥で、実はおびえている)。

 

優れている人、つまり認められる人になるって、

さらにそのもう一段階、上の話で、

そこへ行くには、ベースとしての、このダメな私をまず

とにかく鍛えねばならないのだ……とか、そんな感じ。

 

で、その結果、努力の対価として、自分が求めているのは

『他人からほめてもらうこと』だったのよ。

も、なんじゃそりゃ、のオンパレードだね。

 

当然、リキみます、これだと。

身体全体に、自己否定が、密かにベースとして染みついているから、

何かするときは、常にその「リキんだ」状態からスタート。

そして競争。あるいは頑張らねばならない、の視点。

 

これのどこに「やわらか」なんて状態を挟む余地、あったのだろう。

イメージだけ持ってて、

やってることは、かけ離れてて。

 

でもね、イメージがあった、ということは、

なんかおかしい

いつも私は、自分をぎこちなく感じる

なぜか、やわらかくなれない

ということには、気づけていたわけで。

 

もうちょっと、身体全体の感覚に、目を向けてみればよかった。

常に力を入れていた、

常にリキんでいた。

そのことがすでに、自分の観点のズレを示していたのにね。

 

私の場合の、このリキみ。

それは、自分そのものを

『基本的に、もう、そもそも私は劣っている』人間、

ベースのレベルが、他者より低い、ダメな人間だと、実は裏で否定していたため。

そっちの思い込みのヒモ解きには、目を向けられなかったなー、

鬱になるまで、本当に。

 

これでさらに、表面的意識では『優れていたい』が

目標だったのだから、笑えるわ……。

そんな観点だけでやってたら、

超人的に努力せねば、そんなの保てるはずないじゃん。

 

で、これね、私は、では! とばかりに努力するというところ、

そっちにだけ目が行ってしまってたけど、

同じく自己否定、自分はそもそもレベルの低いダメ人間、と捉えて、

そこで折れたまま、あきらめている方も、いるんだと思う。

自己に対する態度、その表し方が違うだけで、根っこは同じなのだと。

 

あのー、それがもうね、思い切り変な話ですから。

やり続けるにせよ、あきらめてジッとするにせよ、

超人的になる以外、解決策がないような思考の状態に自分を追い込む。

それ、めちゃくちゃ、辛いほうへ思いこみ、してますから。

なので、そもそもの前提とか、

普通の人、優れている人って、の部分についての、自己の決めつけ具合とか、

そっちのほうに、目を向けてみて、いいと思えるよ。

 

そこの『おかしさ』に気づいていければ、

24時間365日、リキんでおびえて、ビクビクしなくて、すむようになるから、

その結果として力が抜けて、勝手に『やわらか』な状態も、生まれるから。

別に手抜きとかサボるとかじゃないよ、単に、やわらかなだけ。

やわらかさって、うらやましがって遠くから眺めるものでないのよ。

 

想像してみてほしい。

何かを「否定する」ときって、怒り方面の感情だから、

腹の奥のほうに黒い塊がグッと現れて

それをお腹の圧力で押さえつけるような感覚、ないかな?

同時に胸がモヤッと赤黒く燃えて、頭に血も昇ったりして、

身体が硬くなる……脇も締められて、全体に力、入らないかな?

 

それを、自分に対して瞬間的に、断続的に……つまり常に、繰り返しているのです。

たとえ「あきらめている」人でも、裏でそれ、きっとやってるよ。

で、自己否定は、そうやっていったん、力を入れてから、

さらに自分に対しガッカリする。怒りと悲しみの混合。

 

自己否定って、そういうこと。

そりゃ、ため息とリキみの混合しか、自分に与えなければ、

いずれは身体にも何らかの不調、現れていくよね……。

 

そもそもの前提、を見つめ直してみる、

その勇気を、

いつか自分のために、持ってあげられますように。

 

やわらか。

そんな『あり方』。力を抜いた状態。

ときには自分が、まるでプリンのように、

ツヤツヤでピカピカで、

プルプルにやわらかくて、

外から見ても幸せそうだし、

自分の内側全体に、

おいしくてやわらかなモノが

詰まっていることを感じる。

あるいはとてもやわらかなガーゼでもいいし、羊毛とか、

自分の好きな、心地よいやわらかさで想像していいと思える。

それらが、自分の全体を満たしているような感じ。

 

そこに至るための条件や理由はまったくなし。

常には無理でも、ときに、そういう自分である、というだけ。

その『状態』も、人間として当たり前に、

持っていいのだということに、

自分から、気づいていけますように。

 

行動の充実、じゃないのよ、

ごほうび的なことでもない。

「自分に対する」心の変化。

やわらかなもので満たしていい自分。

 

それは自分でしか起こせない、変化だよ。

気づきを、ヒントを他者からもらえたとしても、

自分に対する感情を捉え直すのは、

自分だけが、やってあげられること、だよ。

 

2015_03_14

Photo by pro.foto

ガチガチの状態は、そもそも人にとって自然な姿勢でないから。

力を抜いてやわらかい状態でいる、

それは生まれたときからすでに、

あなたも、知っていること。

だから自分なりに、取り戻せるよ。

 

 

私は「自分自身から」どう思われたいか

ふと思い立って、タイトルのことについて、

自分の思いや考えを、感じてみた。

 

まず今、私は私に「どう思われているのか」。

私にはまだいくつも、自分を批判している部分があって、

その「批判している私」は、

では、どうすればいいか、

という部分は何も語らず、ひたすら私を責めてくるように感じた。

 

何かを「した」という、その選択理由については一切触れず、

結果を採点するだけの人間。

 

あ、した、というのは「実際に動くこと」だけを指すわけではない。

そこに「何もしないでジッとしていた」ことも、含めたいのだよね。

なぜならそれもまた、

ジッとする

という身体や気持ち、のほうを

選択した、と言えるから。

つまり私にとっては、行動、行為の、選択枝の一つだと思える。

 

で、ならば私は自分自身から、

いったいどう思われたいのだろう、と、

それをつらつら、書き始めてみた。

 

そうしたら、最初に出てきたのは、

見栄を張りたい、にもつながりそうな、

そういう方向の言葉だったよ。

 

それでちょっと驚いて、ん? 私は、

自分自身から

表面的にいい奴(できる奴)と

思われたいのか!?

という疑問に辿りつき。

 

それはなんだか、ちょっとズレてるし、

上っ面な『自分がこうなりたい』は、やっぱり、

くだらないことにもつながりやすいように思えてきて、

うん、なんか違うよなー、と。

そんな「自分がかぶりたい仮面」みたいなことじゃないな、と感じた。

 

そこから、じゃあもっと根本的な部分で、

自分自身から、どう思われたい?

って尋ねて、書き出していったら。

 

最初に出てきたのが

「後ろめたさのないようにしたい」で。

 

ああ、どこかで、

卑怯

と自分のこと、捉えてるのかな。

 

そして、なら、自分に対して後ろめたくない私、

って、なんだろうと思えて……。

 

はい、今は、そこでいったん、

ペンを置いて、この記事を書いています。

 

こうした掘り出し、なんだか、とても大切なことに思えたのです。

 

究極的……いちばん根本の部分で、

「私はこれを選ぼう、

これを自分のいちばん最初の方針にしよう」

という視点のところにまで、今後、

いつかは、たどり着けそうな気がします。

 

誰かに対する「どう思われるか」でなく、

自分に対しての自分、

という捉え方をしてみるとき。

 

「見栄」にもつながる言葉を書き並べた、

そんな自分をクスッと笑えたりしているから、

これを掘り起こしていけば、そのうち、

私にとっての「いちばん大事」は何なのか、

探れることができそうに思えるのです。

 

で、そうやって根本部分にまで落とし込んだら、

それを大前提の基本方針として、

今度は逆に、

「私はこういうとき、何を選択すればいいかな、

大前提はこれだよ、忘れないで、私」

というふうに、具体的に使う練習に、移れるかも、と。

 

たぶん、予想だけれど、

『愛』や『ゆるやかさ』『温かさ』『穏やかさ』

何かしら、そういう方面のことが前提となり、

そこから、それを基本に、日々、どう選択していくか、につながるのだろう、と、

自分で予想している次第。

正義 は、怒りや憎しみにもつながりやすく、主張ばかりで疲れそうだしね……。

 

『自分に対する理念』

『自分についての、生き方の方針』

『自分という人間の行動方針』

を見つけてみることは、

自分という人間の「目を気にする」ことにもなるのでしょう。

 

そしてきっと、そのために、

ときには逃げる、とか、ジッとやり過ごす、

という、一見、良くはなさそうな選択枝も『アリ』になるでしょう。

そんな予感。

 

自分を、より、大切なものと感じたい。

その視点から、それらを選ぶこともありえると。

 

ということでもう少し、時間をかけて丁寧に、

自分にこうした質問を投げかけ、嘘をつくことなく深めて(卑怯、ヤダからね)、

自分のことを別の角度から見直してみたいと思えます。

 

2015_03_13

Photo by geralt
Pixabay

 

認められなくても」の部分の、自己変化

昨日の記事を書いて、

ふと、書きたくなったこと。

 

本気の「過去形」で綴れるようになった、

今の私の変化を、感じてもらえたら幸いです。

 

私は、優れていたい人、でした。

成功、という結果を残したい人だったし、

コンペで勝つ、とか、読みが当たる、とか、

良いものを作った、と誉められること、

また、その機会、チャンスを取りにいったり、「もらえる」ことまで含めて、

とてもとても、そういうことが、好きでした。

 

やり甲斐はあったし、

実際、誉めてもらえたら、すごくうれしかった。

数値での結果や、記事の視点での結果が残せた、

と感じる瞬間も、とても幸せ。

 

そういう人間でした。

 

結果が出せたら、誰でもうれしいよね、

と、当時の私は思っていて、

よい結果を密かな自慢にもしていたし、

自分が作るものに対しては、

「少なくとも自己採点で80点」、

と自分でできるだけ思えるように、やっていました。

 

もうね。

この段階で、私は自分で作った罠に、

自分で2つも、はまっていたわけですよ。

 

1つめ。

80点、って何よ。の罠。

明確な基準など何ひとつなく、

感覚的な、自己満足度で付ける点数。

 

社会人3年目の80点と、

社会人10年目の80点では、

当然、レベルが違う。

だけどそれを計る物差しは、自分の感覚。

 

数値やその他、ハッキリとした基準があるならまだしも、

自分の感覚が主体なのだから、

要はどこまで打ち込んで、どこまで自己満足できたか、だけの話。

 

客観的基準がもし、ね、あったとしたら。

社会人3年目での制作なら100点だったかもしれないし、

10年目だったら、60点に届いてないかもしれないのに、

打ち込んでいく、とか、調べて加える、とか、

そうした「のめり込む感覚」の部分で、

勝手に80点以上を目指してた。

 

しかもずっと同じ種類のものを、作っていた訳でもない。

ゆえに、自分でどんどん、「真剣に打ち込む」部分のハードルを

上げていくしかなかった。

 

で、あまり自分に向いてない制作物で、それをやろうとしたら?

無理矢理、自分に言い聞かせるしかなかった。

 

この制作物でも、レベルが低いもの、

私は、作るわけにはいかない! って。

 

また、過渡期にある制作物だったから、どんどん状況は変化するし、

そのたびに、80点以上欲しいわけだから、

出来る限りの情報は拾っていこうとするし。

 

イメージとしては、こう伝えれば分かるかな。

締め切り、納品。

つまり試験日と結果発表の日は決まっているのに、

試験範囲だけが、試験前になるにつれ、どんどん、広がっていくの。

 

中3レベルの試験だと思っていたら、勉強していく間に、

はい、この試験は勝手に高2の範囲も含みますよ-、となっていく、みたいな話。

 

実際にものを作りながら、その情報を内容に組み込もうとしたら、

そりゃ、制作の時間と、情報を調べて覚える時間に

忙殺されるの、当たり前。

 

なのにたとえ、いきなり高2レベルになろうとも、

そこで80点以上取ろうとしていたわけです。

 

無理無理。

そのことにまったく気づいておらず、

くー、情報、増えすぎじゃあ! などと

文句言いながら、やっていた私がいた。

 

さらに、ですよ。

みんな、誉めてもらえたらうれしいよね、の部分。

 

私は、実は他の人より、めちゃくちゃ執着していたのです。

「認められないと私は存在価値がない」と、

陰で自分が、はっきり思い込んでたから。

 

言ってしまえば、

他の人なら「普通にうれしい」こと、の範囲を、

私ははるかに、はるかに超えて、

そりゃもう、ものすごく喜んでいたようなわけで。

 

自分の存在意義を、認めてもらえた、の感覚。

この、他の人とのうれしさ度合いの差にも、全然、気づいてなかった。

っていうか生まれてこの方、そんなの、まったく知らなかったよー。

この「うれしさ度合いの差」が、2つめの罠。

 

もはや達成しないといけない!! の

強迫観念に近いものを持っていたのに、わかってなかった。

 

この2つが揃えば、どうなるか。

想像つきますよね。

 

そう。年を経れば経るほど、

職種としての経験値が上がれば上がるほど、

自己満足できるラインがアップしていき、

どこまでやったら達成したと思えるか、

自分でもわからなくなっていった。

 

何の目安もないのに、やってみるしかなくて、

ハードルを、上げざるを得なかったわけです。

 

実際に、作ったもののレベルが高かったかどうか、

ぶっちゃけ、わからないのにね。

判断の目安も、お客さんの感想くらいしかなくて。

 

セールスプロモーションなどで、売れ行き等、

数値化できる範囲が明確にあるものの場合は、

まだ良かったのだけれど。

 

そうではない制作物のときは、

あくまでお客さんの主観的感想、みたいな話だったから、

余計、歯止めがなくなって……。

 

基準のない自己満足ハードル、どんどん上げっぱなし。

コンペで勝つのも、お客さん(=その年の、担当者さん)の主観なのにね……。

 

ということで、自分に課すキャリアアップ、のイメージが、

上とか言いつつ、実はとんでもない方向へ進んでいったわけです。

 

そして当然の結果として、ある日プツッと、燃料切れ。

そりゃそうだ、ただの自己満足ハードルだもの。

その裏に「認めてもらえないのが怖い自分」がドカーンと潜んでて。

 

際限ないワーカホリック方面への突っ走りでした。

その道のりの途中、途中で、

大人の麻疹になって入院してみたり、

壊死性リンパ節炎になってみたり、

最後のほうは謎の発熱、繰り返してみたり。

 

身体全体からのSOS、いろいろと出ていたのに、それでもやめなかったのは、

ひとえに、本当は怖かったから、だったのですね。

おバカさん……。

ええ、バカ者でございました、本当に。

 

で、今の私になって。

うん。認められたりしたら、やはりうれしいし、ありがたいね。

でもあそこまでの執着は、しないですむ感覚。

疲れたら休めるし、そもそも、達成よりも、

味わえることを喜んでいっていいのだと思っています。

 

さらに。

親の期待からは、外してもらうよう、

本人たちに、ハッキリ伝えられました。

私が勝手に解釈して、勝手にプレッシャーに感じてしまうから、

その方向、私はもう受け止めない、

ということを、

やっと、やっと!

今年の初めに、親に言えた……。

 

実際、親からしてみれば、

とんでもないダメな子ども、と思われることも、すでにやってる。

だから今の親にとって、今の私は、かなりの親不孝者だろう。

 

でもね、自分が力まなくなって、

普通レベルの「誉められ好き」へ変化していってる今、

他者からどう思われるか、よりも、

自分が自分のこと、どう思うかのほうが大切。

自分を広くゆるめる練習も、まだやりたいし、

これまでとは違う方向で、

自分をきちんと、それなりに、ゆるいまま、

成り立たせてあげられるようにもなりたい。

 

ゆるやかに、呼吸していきたい。

温かいものをたくさんたくさん、感じたい。

それはとてもラクだし、ホッとできるし、

ときどき、キラキラするものも還ってくるし、

過去の経験値も、まったく役に立たないわけでもないし。

 

バカやって、壊れて、ぺしゃんこになる、

それでやっと気づけるレベルの、

本当にマヌケな私ではあるけれど。

 

私は、何が好きだろう?

私は自分に、何を楽しませてあげよう?

と、改めて思えるようになった今の日々には、

本当に感謝できる。

そこにたどり着けるまでに新しく出会った、

たくさんの温かい人たちにも、本気で感謝できる。感謝している。

 

過去のよい部分の記憶と、

今の自分の、よい部分、

および、悪くはない部分を

上手に使いながら、

これから、また、私は、別な方向へ、伸びていく。

日々の、いろいろを、楽しんでいく方向へ、伸びていく。

 

そうありたい、と思えるようになった、

すべての出来事、もの、人に、改めて感謝を捧げます。

バカさ加減に気づけたのだから、

ボッキリ折れた、あのときの自分にも、ね。

 

もう、怖くて耐えることも、

認めてもらいたがりすぎることも、

あのバカ者加減も、私には、いらない。

やっと、きちんと、そう言えると、

今、自分で思う。

 

2015_03_09

Photo by jojo nicdao
ID:201502272000
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