ふと思い立って、タイトルのことについて、
自分の思いや考えを、感じてみた。
まず今、私は私に「どう思われているのか」。
私にはまだいくつも、自分を批判している部分があって、
その「批判している私」は、
では、どうすればいいか、
という部分は何も語らず、ひたすら私を責めてくるように感じた。
何かを「した」という、その選択理由については一切触れず、
結果を採点するだけの人間。
あ、した、というのは「実際に動くこと」だけを指すわけではない。
そこに「何もしないでジッとしていた」ことも、含めたいのだよね。
なぜならそれもまた、
ジッとする
という身体や気持ち、のほうを
選択した、と言えるから。
つまり私にとっては、行動、行為の、選択枝の一つだと思える。
で、ならば私は自分自身から、
いったいどう思われたいのだろう、と、
それをつらつら、書き始めてみた。
そうしたら、最初に出てきたのは、
見栄を張りたい、にもつながりそうな、
そういう方向の言葉だったよ。
それでちょっと驚いて、ん? 私は、
自分自身から
表面的にいい奴(できる奴)と
思われたいのか!?
という疑問に辿りつき。
それはなんだか、ちょっとズレてるし、
上っ面な『自分がこうなりたい』は、やっぱり、
くだらないことにもつながりやすいように思えてきて、
うん、なんか違うよなー、と。
そんな「自分がかぶりたい仮面」みたいなことじゃないな、と感じた。
そこから、じゃあもっと根本的な部分で、
自分自身から、どう思われたい?
って尋ねて、書き出していったら。
最初に出てきたのが
「後ろめたさのないようにしたい」で。
ああ、どこかで、
卑怯
と自分のこと、捉えてるのかな。
そして、なら、自分に対して後ろめたくない私、
って、なんだろうと思えて……。
はい、今は、そこでいったん、
ペンを置いて、この記事を書いています。
こうした掘り出し、なんだか、とても大切なことに思えたのです。
究極的……いちばん根本の部分で、
「私はこれを選ぼう、
これを自分のいちばん最初の方針にしよう」
という視点のところにまで、今後、
いつかは、たどり着けそうな気がします。
誰かに対する「どう思われるか」でなく、
自分に対しての自分、
という捉え方をしてみるとき。
「見栄」にもつながる言葉を書き並べた、
そんな自分をクスッと笑えたりしているから、
これを掘り起こしていけば、そのうち、
私にとっての「いちばん大事」は何なのか、
探れることができそうに思えるのです。
で、そうやって根本部分にまで落とし込んだら、
それを大前提の基本方針として、
今度は逆に、
「私はこういうとき、何を選択すればいいかな、
大前提はこれだよ、忘れないで、私」
というふうに、具体的に使う練習に、移れるかも、と。
たぶん、予想だけれど、
『愛』や『ゆるやかさ』『温かさ』『穏やかさ』
何かしら、そういう方面のことが前提となり、
そこから、それを基本に、日々、どう選択していくか、につながるのだろう、と、
自分で予想している次第。
正義 は、怒りや憎しみにもつながりやすく、主張ばかりで疲れそうだしね……。
『自分に対する理念』
『自分についての、生き方の方針』
『自分という人間の行動方針』
を見つけてみることは、
自分という人間の「目を気にする」ことにもなるのでしょう。
そしてきっと、そのために、
ときには逃げる、とか、ジッとやり過ごす、
という、一見、良くはなさそうな選択枝も『アリ』になるでしょう。
そんな予感。
自分を、より、大切なものと感じたい。
その視点から、それらを選ぶこともありえると。
ということでもう少し、時間をかけて丁寧に、
自分にこうした質問を投げかけ、嘘をつくことなく深めて(卑怯、ヤダからね)、
自分のことを別の角度から見直してみたいと思えます。
Photo by geralt
Pixabay