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自分の内側に『生じる感覚』に従ってみる ~その1~

昨日の記事で『自分が、どこに力をこめているか』、

もう少し書いていく、と述べた。

そのためにはいったん、全身の力を抜くことも必要だよ、と。

これについて、今日はゆっくり、話してみようと思う。

 

力を抜いてみると、マイナスでもないプラスでもない、

普通、フラット、の状態が、自分の中に生まれる。

 

このフラットさって、感覚的な表現だけれど、その状態から掴めるものは、

気持ちや思い、願いみたいな部分でも思い切り使えるのだ。

あと、自分なりの、危機やトラブル回避にも、ね。

それがなぜなのか、知ってほしいなと思う。

 

で、前置きとして、本当はね。

そこで先に、というか、さらに

自分が信じている『よい状態、あるべき姿』について

同時にフラットな視点から、見つめ直してみるといいのだけれど、

悩みや苦しみの真っ最中だと、そうしたことをひも解こうとすること自体、

ときに、自分が抵抗しちゃうんだよね……。

 

「だって、これが正しいこと、よいこと、よい姿、よい状態、に

決まってるでしょ!」というところから視点を離せなくて、

混乱しちゃったりする。

 

せっかく力を抜き始めても、自分がそこでは

常に絶対、力み続けていることには、気づけない。

その力の入れ方が、習慣になりすぎてて。信念、になりすぎてて。

 

このことを、以前『マイナスの無限ループ』の記事で書いた

カウンセラーの方が、信念でなく『観念』という言葉を使って

まさに今日、紹介してくれていました。

見事にタイムリーなので、挙げておく。いやぁ、感謝です。

 

「怒り」とどうつきあうか2・感情には製造元がある

 

この記事では怒りの感情を例にしてくれている。

でもこの「観念」って、怒りという感情だけでなく、

自分のこと、他者のこと、いろいろな評価や判断に使っているよね。

 

で、いつか、この観念の部分にタッチしていく、それをほどいていくことが、

自分をさらに楽にしていける方法なのだけれど、

今はまだ、自分には当たり前すぎて、あるいは

そこに「触れたくもないわ」という人もいるだろうと思える。

 

触れたら結局、自分にダメ出しするだけで、

また「何もない自分」を自覚するだけから怖い、とかさ。

 

そんなこと、実際には、まったくといっていいほど起こらないんだけど、

おそれから、そう捉えている人も多いと思うのだ。

 

な、の、で! ですよ。その前段階として、

力を抜く、そして「抜いた状態」から、

「自分がどんなときに、どこに力を入れるか」

「身体の内側のどこに『力み』『違和感』みたいなものを感じるか」

を、感じ取ってほしいと、思うのだ。

 

具体的に説明してみるね。

たとえば、真剣に、しかも真摯な気持ちから何かをしようというとき。

その最初の瞬間って、私たちは知らず知らずのうちに、

ほぼ必ず、下腹にぐっと力を入れて引き締めている。

覚悟を決める、決意することを『腹をくくる』と表現するのは

ただのたとえではないのだ。

 

下腹部を引き締める、力を入れると、気持ちが落ち着いて、

しかも身体的にも本当に、次の動作に移りやすいんだよね。

腰が揺れ動かなくなって、足がぶれなくてなって、移行も安定する。

 

これはまさに「力を入れる」という例だけれど、

身体全体、それぞれの箇所で生じる感覚って、いっぱいあってさ。

 

怒り、腹立たしさ、は、お腹の下のほうから湧いたと思ったら、

胸を通って頭の先にまで駆け上がる。強いものだと、

一瞬で全体に充填される『グワッとした、

またはブワッとした感じ、感覚のもの』でしょう。

しかも身体の内側が、その感覚で膨らむような感じ。伝わるかな?

 

悲しみは、主に胸を中心に、重たい、冷たい、青っぽいものが広がる。

うれしすぎたら、足元がふわっとする。

上半身が浮き上がる感じになるから、必然的に下半身がおぼつかなくなる。

 

空しさ、は、とくに喉元から胸、お腹の上部くらいまでが、スカスカになった感じ。

心が空っぽ、とはよく言ったものだと思うよ。

 

あと、誰かに対して、自分が感情的にふるまう、

あるいは意識してひどい仕打ちをする、言う。

その情景を「想像」してみるだけでも、

お腹の下の奥のほうから、胃のあたりまで湧き上がってくるような

モヤモヤっとしたものがあって、

それを実際にやると(代わりに皿を割る、のでもいいよ)、

『対象に叩きつけるように、自分がモヤモヤを吐き出す』感じがする。

 

しかもこのときの、この『モヤモヤ』は、決して美しく感じるものではない。

何かしら汚れているような、ネズミ色~黒、茶色っぽい、汚物的な感じ。

 

こんなふうに、何かを自分が行う、考えるとき。

自分に対して、相手に対して、生じてくる『内側の感覚』を、

もっと掴んでみてほしい、と言いたいのだ。

そのために、ふだんから、力を抜いておいて、と。

 

そんなもの、観察してどうなるの? と思うかもしれない。

あのね、ときにね、何を自分の内側に、自分が隠しているかを、

自身で気づいていけるのだよ。

 

……また長くなりそうだから、次につづく。

 

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Photo by GATAG フリー画像・写真素材集 4.0

 

まっすぐ、あるいはゆがみも含めた正直さ

自分を認めてあげる、解放してあげる、というのは、

見栄や体裁をできるだけ取っ払って、

今の自分の「状態を素直に明かす、示す」ことなんだな、とふと思った。

 

何か気まずいことが起こったときに、それを取り繕うために

相手を責めたりしたくなるけど、人を責めるのって、

自分の気分がどこかで必ず何か、イヤなものを含むことになる。

 

責めているときは夢中で、それに酔いしれているように見える人もいるけど、

それが終わって、たとえそこで相手が全面的に謝ったとしても、

「してやったり」の気分の陰に、必ず、拭いきれない疲労が残ると思う。

 

スッキリした、とか思いながら、でも何か完全には割り切りできないもの。

それでまた、責めた相手に「あなたのせいで疲れたわ」とか

イヤミを言って何とかしようとしてみたりさ……。

で、そのイヤミでさらに自分は疲れるのよね。

延々、イヤな気持ちループだ、それ。

 

また、これも、ひとつの例だけど。

自分を優位にしようという意図で、

薄ら笑いを浮かべて防御のために相手に野次を飛ばすのと、

相手に愛を持って『しっかり!』の意味で野次を飛ばすのとでは、

その「あと」の自分の気持ちが違う、というような記事を今日、読んで、

それ、本当にそうだな、と思えた。

 

野次という形を取ることがいいか悪いか、の部分でなくて、

野次だろうが何だろうが、自分が『どんな意図』から、

相手に対する意思表示をしているのか、

気づいていながらやるのと、気づかないままやるのとでは、

全然、結果が違ってくるな、と思えたのだ。

 

で、たとえば情けない自分を自覚しながら、

それでも言いたいことを伝えてみる、というようなときは、

必ず「表現する言葉も選ぶ」よね?

できるだけ相手が勘違いしないように、

なるべく、自分の気持ちを的確に伝えようとする。

 

これをふだんからやっていけば、それだけでもずいぶん、

いろいろと自分が「マシ」になると思えるんだよね。

それが最初に書いた『正直さ』の話につながる。

 

「あのね、正直に明かすよ。

私がね、こういう言い方、あなたにしちゃうのは、

本当は自分でも情けないのだけれど、

私、今のまま耐えるのは、あまりに苦しい。

表現には気をつけていくから、まずは言わせてね」

って気持ち。

 

奥にある気持ちも全部、そういうふうに正直に明かしてしまうことで、

相手の受け止め方もまた、変わると思えるのだ。

 

イヤなことを言うのって、自分が苦しい。でも、言いたいときがある。

だって言わないと、もっと苦しいから。

そういう自分の「小さい器」、自覚しながら言えばいいんじゃないかな。

 

あなたのせいで! あなたが悪い! どうしてあなたは! 

みたいなことばっかり考えるよりは、

そのほうが疲れ具合、ずっと少ないよ……。

 

で、情けない自分、実際、それがいてもいいのだ。

他人に何を伝えようと、あるいは伝えまいと、

情けない自分、がいること自体を許していい。

 

だって本当に今、そうなんだもの。

自分が、自分のこと、そう感じるのだもの。でしょう?

それを見ないようにすることが、あなたの『ゆがみ』を生み出し、

あるいはまた『ゆがみ』を増強させる。

ましてや、それを何とか消し去ろうなんて考えたら、

余計なことを「さらに」しちゃうかもしれない。

 

頑張ります。

それ以外に改善方法を見つけられない人は、

情けない自分を許そうとしないから

とにかく『馬力をかけて』何とかする、しかなくなる。

そしてまた、情けない自分がいることを許さないから、

他人のことも、何だか必ず許せない。

だから相手まで改善しようと頑張り続けて、

うまくはいかず(そりゃそうだ)、疲れを増やし続ける。

 

しかも、イヤな気持ちのほうも、それによってさらに増えていく。

そのパターンでは、頑張れば頑張るほど、イヤなことが増えていく。

わー、何やってんだろ? って話だよ。

 

そもそも、別にさ。

弱くていいの。情けなくてもいいの。

当たり前だよ、あなたも人間だから。

それより、自分に正直になろうよ。

正直になれぱ、全身の力がいったん抜けるよ。

全身の力が抜けて初めて、やっと次から(!)

何かをするときに『自分のどこに、力がこもっていくか』を

自分で、自覚できるのだから。

全部に力が入りっぱなし、力みっぱなしだと、そういうことにも気づけない。

そしてひたすら力を入れ続け、イヤなことをいろいろ増やし続け、

延々、どこか何かで疲れ続けていく人生……になる。

 

『自分のどこに力がこもるか』という意味については、次回以降、

もう少し書いてみようと思うけれど、

イヤなこと、無理なこと、自分に嘘をつくこと、などをしているときは、

どこかに、あるいは全身に『無駄な』力がこもっていくもの。

 

で、それこそが、あなたの力、あなたのパワーの無駄遣いなのだ。

使うべきは『明るいことにつながる力』であって、

しかもそれなら、あなたは、あまり疲弊しないで済む。

 

だからまずは、正直になろう。

正直になって、まずはいったん、

ふんわり脱力させようよ。自分を、自分でね。

 

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Photo by ゆんフリー素材写真集

 

私の、私たちの、視点 ─ judgement

どう書こうか、あるいは書こうかどうしようか、迷っていたこと。

今日、書こうと思います。

 

今回の記事はとくに、すべてをご納得いただけると思ってはいません。

それでも自分がいくつかの情報を読んで感じたこと、

それらを通じて自分の中でつながったことを、

きちんと例に挙げつつ、書きます。

 

話の中に挙げたリンク先を一読いただけたら、と願いますが、

捉え方は人によって違うでしょう。

ですので、ご不快に思われた方がいらしたら、どうぞお許しください。

 

私が時折、感じてきた違和感。

そのうちの一つに、パラリンピックの報道があります。

障がいを持ちながら、オリンピックという世界レベルにまで

自分の能力を高めて挑戦することは、

すごく素晴らしいことだと思う一方で、

それをことさらに強調する報道に出会うと、

奥歯にものが挟まったような違和感を感じていました。

 

自分でも、それが何なのか、うまくつかみ切れていなかったのですが、

たまたま読んだ記事で、まさに障がい者の方自身が、

その部分を明らかにしてくださいました。

 

よかったら、以下の記事を、読んでみてください。

◎障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは
http://logmi.jp/34434

 

この記事を読んで、私には

『確かに私は、そのように消費してきた』

という気づきがあり、自分がパラリンピック報道で感じていたものも

これだったか、と思えました。

 

普通、とは、能力、とは、何なのだろう。

美しさ、素晴らしさ、感動、の陰に潜む価値観。

このコメディアンの方の言葉で、

自分が持っていた視点の偏りを、改めて気づかされました。

 

また、その一方で。

障がい者の方自身も、通常以上の感動、のために、

自分の障がいを使ってしまうことがある。

少なくとも、そう感じているこのコメディアンの女性のような方も、いるのだと。

 

そしてそれは、ダメなことだろうか、という思いもあります。

自分の個性を大事にする、生かす、という視点で考えれば、

隠したり、卑下することではないのだと。

 

でも、それを障がい者の方ご自身が、

あえて今回、こういう言葉で表現しますが、

ある意味『売りもの』として、他者からの承認(評価)を得るために使うと、

その方は自分の『個性』をずっと悲劇的に扱わねばならなくなる……ことも

ありえるんだな、と、感じました。

 

さらに、このことを知ったあと。

たまたまFacebookからのつながりで、

障がい者のペアのバレエダンサーの方々の動画を観たのですが、

そのダンス表現から立ち上がってくる美しさと、

彼・彼女の障がいの『姿』を、やっと自分で切り離して観ることができ、

それとともに、彼女と彼が今回、訴えた内容に対する違和感、

およびそのFacebook上で語られている「感動」の感想内容にも、

はっきりとした違和感を持ちました。

 

そのダンサーのお2人は、それぞれが障がいを持ったこと、その苦しみと、

それでもまた再び踊れることの喜びを、

ダンスのコンクールで表現されていました。

それらを、表現者としていったんは外側に表すことが、

通過点として必要だったのかもしれません。

でも今後、それを『売りもの』にしないで済むことを、祈りたいと思えました。

 

個人的には、そう感じられるようになってよかった、と、思えていますが、

普通に考えれば、私はその分、冷静というより冷たい人だと

他者から思われる人間になったのかもしれません(^◇^;)

きっと私のことを、そう捉える方もいらっしゃるだろうな、と。

でもそれは仕方ないことだと思えます。

 

また、同様に。

ある人が、何かの行動をした。そしてある結果が生まれた。

そのとき、その、ある人の内側に、どのような意図があったかを、

自分でももっと見ていきたいと、ある事件から思えました。

その人の良い(と私が感じられる)視点と、良くない視点、と。

 

これは、かの過激派による日本人人質問題が起こったときに、感じたことです。

 

果たしてどこまでが、自己責任、なのか、迂闊、だったのか。

今回、ネット上では、彼らがそれぞれ政府の意向を受けて動いて、

その意図を相手側に見破られ、それで余計に事態がややこしくなり、

政府は、そのつながりを隠すために2人と手を切った、という説も流れています。

 

実際、1人目の方は、首相と同じ思想の勉強会に属していて、

自衛隊に武器も販売していたらしいことを、自身のFacebookなどで

語られていたそうです。

 

そして2人目の方も、そうしたつながりの中で、

何らかの交渉のために派遣されたのだとすれば?

単純な自己責任云々で片づく話では、途端になくなってしまいます。

 

でも、もしそうだとして、その意向を受けたのは、ご本人の選択です。

そして真実は何なのかを調べるすべは、今の私にはなく、

どんな説があるかを、知ることしかできないのです。

 

その一方で、2人めの方が、たとえスパイ的な活動をされていたのだとしても、

世界で起こっている悲しみを、真剣に伝えようとされる

ジャーナリストであられたことも、事実であろうと。

この方が、個人で作られていた報道用のホームページから、

取材報道されている動画を観て、私は、ですが、そう感じたのでした。

 

今回の、こうした情報を知って。

他者には、本当にいろいろな意図や気持ちがある、と、改めて思いました。

それは当たり前の話かもしれません。

だからそれを『知る側』も、片側の面からだけ見て、

これはどうこう等、短絡的に判断するのでなく、

とくに自分が何か違和感を持ったときは、

なぜそれを感じたのかを、もっとちゃんと観てみようと思えました。

 

その際に、こんなことを勘ぐるなんて、私は冷たい人間かも、

などと、変におびえることも、やめて。

 

そしてもう一つ。

自分の視点も価値観も、つまりはまだまだ狭いのだと思えています。

でもそれを、自己批判するのでなく、自信をなくすためにでもなく、

できる範囲で、自分なりに改善するために、用いていきたい。

そっちのほうへ、自分の気持ちを移行させたい。

そういう気づきのチャンスをもらえたのだと、解釈していきます。

 

今までなら常識的に捉えていたことでも、

違和感をきっかけに調べてみて、

自分なりに捉え直してみてもいいのかな、と思えているのです。

 

以上、社会的な話をいろいろと例に挙げましたが、

「他者や世界を見るときの視点」について書きたかったので、

あえてメインブログにて、書かせていただきました。

自分が忘れないようにするための、記録でもあります。

読んでいただいて、ありがとうございました。

 

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Photo by White BG