私の、私たちの、視点 ─ judgement

どう書こうか、あるいは書こうかどうしようか、迷っていたこと。

今日、書こうと思います。

 

今回の記事はとくに、すべてをご納得いただけると思ってはいません。

それでも自分がいくつかの情報を読んで感じたこと、

それらを通じて自分の中でつながったことを、

きちんと例に挙げつつ、書きます。

 

話の中に挙げたリンク先を一読いただけたら、と願いますが、

捉え方は人によって違うでしょう。

ですので、ご不快に思われた方がいらしたら、どうぞお許しください。

 

私が時折、感じてきた違和感。

そのうちの一つに、パラリンピックの報道があります。

障がいを持ちながら、オリンピックという世界レベルにまで

自分の能力を高めて挑戦することは、

すごく素晴らしいことだと思う一方で、

それをことさらに強調する報道に出会うと、

奥歯にものが挟まったような違和感を感じていました。

 

自分でも、それが何なのか、うまくつかみ切れていなかったのですが、

たまたま読んだ記事で、まさに障がい者の方自身が、

その部分を明らかにしてくださいました。

 

よかったら、以下の記事を、読んでみてください。

◎障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは
http://logmi.jp/34434

 

この記事を読んで、私には

『確かに私は、そのように消費してきた』

という気づきがあり、自分がパラリンピック報道で感じていたものも

これだったか、と思えました。

 

普通、とは、能力、とは、何なのだろう。

美しさ、素晴らしさ、感動、の陰に潜む価値観。

このコメディアンの方の言葉で、

自分が持っていた視点の偏りを、改めて気づかされました。

 

また、その一方で。

障がい者の方自身も、通常以上の感動、のために、

自分の障がいを使ってしまうことがある。

少なくとも、そう感じているこのコメディアンの女性のような方も、いるのだと。

 

そしてそれは、ダメなことだろうか、という思いもあります。

自分の個性を大事にする、生かす、という視点で考えれば、

隠したり、卑下することではないのだと。

 

でも、それを障がい者の方ご自身が、

あえて今回、こういう言葉で表現しますが、

ある意味『売りもの』として、他者からの承認(評価)を得るために使うと、

その方は自分の『個性』をずっと悲劇的に扱わねばならなくなる……ことも

ありえるんだな、と、感じました。

 

さらに、このことを知ったあと。

たまたまFacebookからのつながりで、

障がい者のペアのバレエダンサーの方々の動画を観たのですが、

そのダンス表現から立ち上がってくる美しさと、

彼・彼女の障がいの『姿』を、やっと自分で切り離して観ることができ、

それとともに、彼女と彼が今回、訴えた内容に対する違和感、

およびそのFacebook上で語られている「感動」の感想内容にも、

はっきりとした違和感を持ちました。

 

そのダンサーのお2人は、それぞれが障がいを持ったこと、その苦しみと、

それでもまた再び踊れることの喜びを、

ダンスのコンクールで表現されていました。

それらを、表現者としていったんは外側に表すことが、

通過点として必要だったのかもしれません。

でも今後、それを『売りもの』にしないで済むことを、祈りたいと思えました。

 

個人的には、そう感じられるようになってよかった、と、思えていますが、

普通に考えれば、私はその分、冷静というより冷たい人だと

他者から思われる人間になったのかもしれません(^◇^;)

きっと私のことを、そう捉える方もいらっしゃるだろうな、と。

でもそれは仕方ないことだと思えます。

 

また、同様に。

ある人が、何かの行動をした。そしてある結果が生まれた。

そのとき、その、ある人の内側に、どのような意図があったかを、

自分でももっと見ていきたいと、ある事件から思えました。

その人の良い(と私が感じられる)視点と、良くない視点、と。

 

これは、かの過激派による日本人人質問題が起こったときに、感じたことです。

 

果たしてどこまでが、自己責任、なのか、迂闊、だったのか。

今回、ネット上では、彼らがそれぞれ政府の意向を受けて動いて、

その意図を相手側に見破られ、それで余計に事態がややこしくなり、

政府は、そのつながりを隠すために2人と手を切った、という説も流れています。

 

実際、1人目の方は、首相と同じ思想の勉強会に属していて、

自衛隊に武器も販売していたらしいことを、自身のFacebookなどで

語られていたそうです。

 

そして2人目の方も、そうしたつながりの中で、

何らかの交渉のために派遣されたのだとすれば?

単純な自己責任云々で片づく話では、途端になくなってしまいます。

 

でも、もしそうだとして、その意向を受けたのは、ご本人の選択です。

そして真実は何なのかを調べるすべは、今の私にはなく、

どんな説があるかを、知ることしかできないのです。

 

その一方で、2人めの方が、たとえスパイ的な活動をされていたのだとしても、

世界で起こっている悲しみを、真剣に伝えようとされる

ジャーナリストであられたことも、事実であろうと。

この方が、個人で作られていた報道用のホームページから、

取材報道されている動画を観て、私は、ですが、そう感じたのでした。

 

今回の、こうした情報を知って。

他者には、本当にいろいろな意図や気持ちがある、と、改めて思いました。

それは当たり前の話かもしれません。

だからそれを『知る側』も、片側の面からだけ見て、

これはどうこう等、短絡的に判断するのでなく、

とくに自分が何か違和感を持ったときは、

なぜそれを感じたのかを、もっとちゃんと観てみようと思えました。

 

その際に、こんなことを勘ぐるなんて、私は冷たい人間かも、

などと、変におびえることも、やめて。

 

そしてもう一つ。

自分の視点も価値観も、つまりはまだまだ狭いのだと思えています。

でもそれを、自己批判するのでなく、自信をなくすためにでもなく、

できる範囲で、自分なりに改善するために、用いていきたい。

そっちのほうへ、自分の気持ちを移行させたい。

そういう気づきのチャンスをもらえたのだと、解釈していきます。

 

今までなら常識的に捉えていたことでも、

違和感をきっかけに調べてみて、

自分なりに捉え直してみてもいいのかな、と思えているのです。

 

以上、社会的な話をいろいろと例に挙げましたが、

「他者や世界を見るときの視点」について書きたかったので、

あえてメインブログにて、書かせていただきました。

自分が忘れないようにするための、記録でもあります。

読んでいただいて、ありがとうございました。

 

2015_02_16

Photo by White BG

 

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