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「機嫌」って全身に表れるよね の話 ~後編~

前編はこちらからどうぞ

◎「機嫌」って全身に表れるよね の話 ~前編~
http://miharu.feeling.jp/?p=2761

 

これ 当然ながら 鬱の人に 

さらに気を遣いすぎになれと 言ってるわけではなくて

自分の感情に 自分が『振り回されっぱなし』になることを

まさに自分で やめていいんだよって話

 

そしてあなたの その 振り回されっぱなしは

他人から 距離を置かれたり 心配かけたりもしていて

『人間関係を難しくする』要因の一つにも

確かに なっているのだよ と

 

プリプリ怒りたいときもあるだろう

さめざめと 泣きたいときもあるよ そりゃ

でもそれを 長々と引きずり 自分の中に吹き荒れさせることで

何かを得ることが できるのかな?

何か トクできているのかな?

そんなに他人に気を遣わせていくのが好き……?

人間関係 延々悪化していってでも?

 

もう一度言う 逆に自分が気を遣いすぎるのは 

これまた 怯えすぎていて

結果として よい方向にいかない率が 高くなる

だから 無理してつくろえ という話ではない

 

でもふだんから 穏やかにしている人は

他者に嫌われにくいし 慕われやすいよね

そういうことって少しずつなら 自分で変えていけるんだよ

 

いつも他者に振り回されっぱなし と思える人は

振り回されるほうを いつまでも選んでいる

自分を大切にするほうを選ばず

代わりに他人から大切にされることで

自分の傷を埋めようとしている可能性があるってこと

 

それをするからこそ 

自分の機嫌を 他者の状態に任せるからこそ

いつまで経っても 他者に振り回されっぱなし 

自分は周囲に 機嫌を もろに表しっぱなし

人間関係 難しくし続けたまま放置

そっちのほうを 自分で選んでいるのだと 言うこともできるのだ

 

そしてあまつさえ 穏やかに見える人を

何もなくて平穏でいいな 幸せそうだな とか

恨んだり うらやましがったりして……

何やってんのだろうね と 自分で思わない?

 

自分の不満の 後腐れのない吐き出し方 切り替え方

さらに本当は そのために必要な 基本となる自己肯定感

そっちを探していくことも 自分で選べるんだよ?

自分が今まで選んでいるし これからも自分で選んで いいのだよ?

 

他者の状態に 自分が振り回されて

その結果として 自分の全身から滲み出すものが

相手でなく あなたほうの印象を決めていく

で 人間関係悪くなって また自分を責める?

それ 自分でループさせてない?

 

そこまで ダメな理由をいろいろ決めつけては

延々 自分を認めない とか 他者をゆるさないとか 

頑固に 一方的に思い続けなくても

やり方 変えていっていいんじゃないかな?

 

そんな価値は自分にない と言い張るのも 今のあなただから で

そんな価値について思いを馳せるほど

自分の否定的な部分だけを 見つめていくことのほうを

あなたが今 自分に 許可しているってことだ

 

あのさ 

あなたに本当に 価値 がないなら

あなた そもそも この世に生まれてないから

自分を馬鹿にして扱う そのクセは そろそろやめていかない?

 

もしかしたら

感情の嵐のど真ん中に身を置きながら 外に何が滲み出ていようと

問題を見据えていかなければ ちゃんと解決しないんだ! とか

決めつけている人もいるかな?

その位置で捉え続けるからこそ 解決しない問題も あると思えるよ……

 

以前 カウンセラーの衛藤先生もブログで話していたように

単純にさ 憎しみや恨みや苦しみと 24時間いつでもデートすることを 

自分が選択し続けなくても いいんじゃないかな 

まずはいったん それだけの理由で やめていいんだよ

 

あと そこばかり 捉え続けるのでなくてさ

武田双雲さんが 口角を5㎜上げるだけで 世界が変わると

言ってるんだけど

確かにそれを 意識してやってみるだけで

気分が和らぐこともあるみたいだよ

それに あなたの印象も変わるから

結果として穏やかに思われて

少しずつでも 自分の世界そのものが変わるってことは あり得るよ

 

まさに今のあなたなら 少なくとも 周囲からの評価が 変われば 

自分もまた うれしくならないかな?

あなたが先に 口角を上げる それを自分から与えるだけで 変わるかもよ?

 

まあ 本当は 

感情に振り回されなっぱなしの自分でいなくていい許可 を

自分に対して 出せるようになるために

その 自己批判の問題の『ほぐし方』を探すのが 

あなたにとってきっと いちばん いいことだけれどね……

 

それが かなわないなら 今はまず

自分の気分が和らいだり 外側に滲み出るもののほうを

できるときにちょっと 練習してみてもよいかと 私は思うよ

 

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Photo by Pacopus
ID: 201303221200
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「機嫌」って全身に表れるよね の話 ~前編~

これは 否定的な話ではないし

あなたを 非難するための話でもないから

それを踏まえたうえで 読んでいってね

 

がっかりしている気分のとき

怒っているとき

辛いことがあったとき

悲しいことが起こったとき

うれしかったとき

喜んだとき

 

私たちは その気持ちを

外側に 滲ませるときがある

見た目に もうはっきりと 光っていたり

元気のない人になったりもする

 

そして 滲ませるどころか

『今日の私は疲れてますから!』

『朝から私 機嫌悪いからね!』

を すべての人に対し 言動でPRする人もいる

特に目下の相手 後輩やら 子どもやらに

それをやると パワハラだ

 

まあ 隠そうとしたところで 無理なこともある

『忍ぶれど 色に出にけり 我が恋は ものや思ふと 人の問うまで』

聞いたことあるかな? 百人一首の歌

たとえば 平安時代には もうこうして

「恋してることって なんか バレちゃうんだよなあ」って

歌われていたりするくらい 

自分の気持ちや機嫌の空気感って 

他者に 普通に 伝わることなのだ

 

で それを さらに表情や仕草 他者への言葉遣い ため息

あるいは肩を落とし続けたり 口角をひん曲げること などで

ことさらに伝えるのって 場合によっては まるで

私をいたわってよ!

私を大切に扱ってよ!

今日は 機嫌が よくない ダメなんだから と

積極的 あるいは控えめな振りして実は有無を言わさず

周りの人に 訴えてるって話にも ならないかな?

 

いや もちろん どうしようもないときはある

たとえば愛する人が亡くなったら

どんなに笑顔を作ってもそりゃ 無理だよ

そういう めちゃくちゃキツイときは 

当たり前な話 そんなこと考えなくていいんだけどさ

 

毎日の 自分のご機嫌を PRしていくことに意味を持たせて

他者に無言で要求してる人が コミュニケーション上で

痛々しさを感じさせること 確かにあるんだよね……

 

それをして 何がいけないのさ

と思う人もいるかな なら うん 逆にさ

会社の同僚とか ふだんそばにいる人に 毎日

『今日の私』を PRされたと想像してごらんよ

 

自分が 余裕あるときなら

どうしたのかな って 思いやりも持って 受け止められる

自分が平静なときにも

ああ なんか苦しそうだな と思える

自分が 辛いときには? 

うわ ごめんなさい

今日は私もこれ以上 辛くなれないわ と身を引かれる

怒りのときはこちらの状況に関係なく いつでも避けたくなるし

相手が暗さを表現していたら

自分がものすごくうれしい日なんかには 同様に

身を引きたくならないかい?

 

無言で 自分が 他者との距離を 相手に変えさせるんだよ

そうやって さ

 

他の人には 毎日 こんなに大変なこと 起こらないもの って?

いや それは本当かどうか わからないよね

大変なことを抱えていても それを出さない人も いるかもしれない

あなたが勝手に 他者を見てそう決めつけているだけで

自分から他者へは そういうPRをなるべくしないように と

心掛けている人も いると思えるよ

 

そしてそれは 他者に気を遣いすぎる場合もあれば

そんなPRしたって根本の問題の部分が 別に何も解決しないことを

ご本人が知っているって場合もあるだろう

 

前者はそれによって 自分をさらに疲れさせるし

後者は 自分の感情に集中しすぎたり 振り回されたりしないほうを

意識して 選択している人だということ

この2つは 見た目に同じ穏やかさでも

自分の内側に表れる結果が 全然 違ってくるよね

 

~次へつづく~

 

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Photo by {studiobeerhorst}-bbmarie
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「次のため」への余白

絶対に、とは言わないけれど、暮らしを楽しめている人、

あるいは何かに成功していく人は、みな、新しいことにも目を向け、

まずは「やってみる」ということを、あまりためらわないと思う。

迷い、とはまた別の話だよ。

どうやるか、は迷ったとしても、

何かしらを「やること」自体は、大きく迷わないのだと。

 

そこで、その人がためらわないのは、

失敗と一時的には思えるものも、

あとから学びにできることを知っているからだろう。

それに、失敗したからって、次の機会が「なくなる」わけでは

ないことも、感覚としてわかっていると思う。

 

思った通りの形では、上手くいかなくても、それは失敗とは限らない。

反対に思ってもみなかったやり方、経過、結果が生まれて、

そこからさらに、知らなかった世界がひらかれることがあるのだ。

自分の予想範囲なんて、枠としては小さなこと、かもしれない。

 

新しいことって、文字通り、自分の過去には存在しなかったこと、

今までの自分が知らないこと、だ。

なのに十分満足できる結果を得られるかどうかなんて、

知らないのにわかるはずがない。

少なくとも80%以上の確率で得られなきゃ

動く気がしないわ、というのであれば、

それは別に新しいことではなく、目先のプチ変化、かもしれないよ。

 

ましてや100%、やった結果がわかってるなんて、

それは新しいことをやるという「挑戦」でなく、ただの「予定」だ。

予定をまさに予定通りこなして、ものすごく新鮮な喜びを

得ようとするのは難しいよね、当たり前だけど。

そこに「元々あった愛情」やその他に気づく、など

自分のものの見方の変化から、何かを発見できたときくらいじゃないかな。

 

もちろん、どんどん動けとかいう話ではない。

ただ、自分が何を意識するかが大切だと思えるのだ。

 

せめて、何かしらの発見、日常の中の新しさを見つけたいなら、

意識して、自分の頭を空白にしてみる練習をすればいいと思う。

 

ふだんの行動の何かを、とても丁寧にやる、と意識してみる。

そしてやりながら、動きの一つひとつの流れやつながりを

「どうなっているか」改めて見つめてみるのだ。

 

そのためには、気持ちが焦っていてはダメだし、

かつ、難しく考えない……というより、頭を真っ白にして見つめてみてほしい。

 

たとえば歩く、という行為ひとつ取ってみても、

自分の足が最初はかかとから地面に当たり、

体重移動に合わせて足の裏が徐々に地面を踏みしめ、

最後は足の指辺りが、地面を蹴ることで、推進力を得ている。

 

地面を蹴るから、身体が先に前に行き、バランスを保とうとして、

もう片方の足が身体より前に出て、また地面を踏みしめる。

そして腕も頭も、そこでバランスを取ろうと協力する。

そんな形で、私達は一歩ずつ歩いていくわけだ。

 

こんなふうにふだんの自分を、改めて見ようとしてみる、

ごちゃごちゃ考えすにただ、見つめてみるだけでも、

ちょっとした新しい発見はできていく。

これやると、歩くのがすごくスローになるけどね(笑)

 

そして難しく考えすぎない、先を予想しすぎない、

動きながらも、それを別の視点で俯瞰して眺めてみる、

そんなふうに「自分で意識して作り出す余裕、ゆとり」は、

実は「本当に新しいことをしてみる」場合にも有効なのだ。

なぜなら俯瞰していくことで、気づきが生まれるし、

何より経過自体も、楽しめるようになるからさ。

 

イメージとして、何かをやるときに、

なり振り構わず無我夢中でやっていく、という方法も確かにあるし、

そのほうが「格好よく思える」だろうけれど、

そこまで夢中になれなくても、淡々と眺めつつ、やることによって、

自分にとっての「新しいことの発見」が練習できるのだ。

 

フワフワ歩くときと、どっしり歩くときの、自分の体重移動の違い。

自分の目線の流れ方や、つながり具合。

足裏の感触。耳の横を通りすぎる風や街の物音、熱や空気の動き。

 

そうした「違う角度で観る」練習は、

あなたがいつか、次、を試したくなる気持ちを

作り出してくれるかもしれない。

またはあなたが、次へ向かうときに使える

視点の余白を持つ練習に、なるかもしれない。

 

だからどうか、日々の刺激ばかりを見つめて、

それがあるとかないとか、採点ばかりしたり、

つまらない、くだらないなどと、ダメなことだけを見つめ続けたり、

誰かは、自分はどうこう、という批判の思考のみに長時間浸って、

あなたの大切な気づきのチャンスを見過ごしてしまわないよう、

小さなことから切り替えて意識してみてほしい。

 

それをするかどうか、からまさに、

あなたの新しい選択が始まると思えるから。

 

2015_02_13

Photo by Thomas Leuthard
ID:201401280600
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