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おびえの 扉の 向こう側

誰もあなたに 何も与えてくれないと 感じるときは

まさに あなたが 自分に何も与えず

さらには鍵の掛かった部屋に 閉じこもっている状態である

 

その部屋の扉に鍵をかけたのは 実は あなた自身で

しかもその扉の鍵は あなたのほうを向いている

 

そう あなたが内側から 鍵をかけているだけで

その鍵は あなた自身が開けられる

いつでも 開けたくなったときに 開けられるのだ

 

あなたは 扉に背を向けて 壁のほうを向いているから

その鍵の位置を 見ていないだけだよ

 

私には鍵を開ける「資格」などないと

あなたは 言うかもしれないけれど

その「資格」自体 外側からやって来るものではない

 

あなたが 誰かに許可を与えられたとき 初めて

その鍵を開けていいのだ と 思い込んでいるだけで

そんな他者からの許可なんて 本当はまったく 必要ない

あなたが自分に対し そう「決めつけている」のだよ

 

頭では わかっていても 気持ちがついていかないかな?

でも たとえ気持ちが ついていかなくても

心の奥のほうで そこから脱したいと 思っている自分がいることには

もう 気づいているよね?

その心が 奥のほうに潜んでいることは 前から 気づいていたよね?

 

実はね それが 許可証 なのだよ

あなたが誰かに 求めているつもりの 許可証

開けていいよという許可は 

誰かから 与えられるもの ではなく

あなたがすでに 持っているのだ

 

だから まずは 扉のほうを向いてみない?

扉の向こうは 確かに今の あなたにとっては

『新しい領域』になるかもしれないから

開けるのは怖いと 感じるかもしれない

 

けれど 今の状態のまま 誰かの許可が必要で

誰かから 何かを与えてもらわなければ

動いてはいけない と思っているよりは

そんな状態でいるよりは マシになるかもしれないよ?

 

それとも 手に入れようとして 与えてもらおうとして 

今は もがいている最中だから

せっかく見つけたかもしれない これを 手放す 失うのが 怖いかな?

 

いいえ 扉を開けたらね 手放す 失うどころか

あなたから 与えることが できるようになるよ

あなたが「怖れを消そうとする欲」から 

何かを与えられようとするのでなく

あなたが 自分を通じて相手に 与えられるのだ

 

そういう自然な形の 広い意味の愛から 

新しい つながりが 生まれていくよ

 

ビクビクしながら 誰かから何かを 

自分になんとか与えてもらおうとするよりは そっちのほうが

自分がもっと うれしくなれる とは 感じられないかな?

 

あなたはもう 扉のほうを向いていい

あなたはもう その鍵を開けてもいい

あなたは また 新しい一歩を

いつからだって 踏み出していいのだ

 

たとえ 今すぐには無理に思えても どうぞ覚えておいてね

苦しみの中に 自分で自分を 置く必要はないことを

 

おびえ からでなく

怖れ からでもない 

新しい 求め方 

それが 与えて 受け取る っていうやり方だよ

 

自然に湧き上がる喜びを 感じながら

あなたが 与えていくことによって

還ってくるものをうれしく受け取れる

 

その力は 心の奥に 秘められている

すでにあなたの内側には もう存在しているのだ

このことは どうか 忘れないでね

 

あなたに 扉を開ける許可を出せるのは いつだって必ず

自分自身 であって いい

他の誰か ではない

あなたが内側から 自分で自分に与えることを 許可していいのだ

 

2015_02_03

Photo by もん
ID 20498368
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どっちを自分に残す、使う、ことを選ぶか

他の方の記事で、刺激、いただきましたー。

いやあ、視点、またいいですね(*^^*) 私は好みですー♪

で、私も自分の捉え方、書いてみたくなったのでシェアします。

 

一見、無茶なことばかりいろいろ主張していて、

そんなことできれば苦労しないし、問題なんて起こらないわ、そりゃ!

と、文句をつけたくなることもあるかもしれない……。

そんな記事って、まあ、ありますよね。

 

パッと見では、そういうふうにも見えやすい人、私も知っています。

カウンセラーの衛藤信之先生とか

書道家の武田双雲さんとか

心屋さんとか心屋さんとか心屋さんとか(笑)

 

で、たとえば。

嫌われる人には嫌われてもいい、の話の場合。

そこはもう、あきらめる、というか、

割り切る(対立してきた他者ご本人が抱えておられる問題が

そこに映し出されているときは、

どんなにその他者の誤解を解こうとしても

相手に届かないとき、仕方ないときもある、と、

自分は、それを大きく気にするのをやめる)。

だからこそ、好いてくれる人には感謝する。

ありがとう、とはっきり、相手に対してきちんと言う

(素直に感謝して受け取るのみ、つまりゴマはすらない)。

 

生きるうえで、そういうふうに、他者を思いはからうのと同等、または同等以上に

自分をも丁寧に扱ってあげる(驕りまくりで高ぶりまくるのでなく、

いたわることを含め、自分を柔軟に扱ってあげる)、

そして自分が感じることを、きっちり大切にする

(無理しない、嘘をつかない、迎合しすぎない)……。

そういうのを、気持ちよく楽しくやってるように感じられる人には

『結果的に』信者的にさえ見える形で、ついていく人も現れるかな、と。

 

これもまた、他者が傍から見てそう感じられる、というだけの話であって、

本当に信者的に、今のところ苦しくてすがりたい気持ちになられる人と、

そうでない自分にとっての学び中、きっかけにしている人が

いるだろうことを追記しておきます。きっかけにしている、というのは

ダライ・ラマ猊下やマザーテレサの言葉をなるほど、と思う感覚に近いのかも。

 

つまりはこの人、一見、変で、でも面白い、温かい、

何か自分へのヒント、つかめそう……。と感じられるから。

 

ただの前向きとか、強引とか、思慮不足とか、

自分のことしか考えないワガママ、ではなく

自分がいろいろ、よいと思える部分、楽しい部分を見つけて、

そこを述べる→それゆえに、結果的に他者が『見ていても心地よい人』になれたら、

たまたま、その部分にとある人から問題を投影されて怒られようが嫉妬されようが

(つまりそういう人から嫌われようが)、

別にどうだっていいんじゃないの、

という方向に解釈することも、可能かな、なんて思えました。

 

それをもし『嫌われてもいい』という言い方で

表現してくれているのだとしたら、私はその方の意見に

大賛成するわー、と、最近では思えています。

 

仕事も、楽しめるものを(楽しめる部分を見つけて)

やっている人のほうが、やはり疲労は少ないだろうし、

それが『結果的に』よい仕事ぶりにもつながりそうだから、

お金もたくさん、もらえる立場になっていったりするのかも。

 

それってつまり、お金をもらいながら、

楽しめる部分を毎日、さらに自分が味わえるのだから、ラッキー☆ですよね(*^^*)

 

って、善なる方向へ解釈しすぎかな?(笑)

決して反論しているわけでなく、なんですよー。

 

そして私は実際、嫌な上司の嫌な言葉がけと、

可愛い若手社員のドジが、同じ日に起こったら、

家に帰ってきたときに、意識的に若手社員のドジを思い出して、

ふふふ、と笑えるようでありたい。そっちをなるべく、選びたい。

 

また、自分がミスを犯したときの、いたたまれない恥ずかしい悔しい気持ち(ええ、

なんせね、成功ラブなものですから、

気をつけないと引きずる引きずる(^^;))と、

どうやったらこのミス、なくせるかな、と検討したときの

『よし、ならばこうしよう』の気持ちが

やはり同じ日に起こったら、

『よし、ならばこうしよう』のほうだけを翌朝まで、持ち越したい。

 

何を選ぶか、どの部分をどう見て、どう使うかは、

私が自分で、自分のために選んでいいのだ、と思えているのです。

 

こう書くと、またどこか別のところから『どうせ私は』な方が来られて

本当に『どうせ私は』という方向へこの記事を読解され、

それで落ち込まれてしまわれたりするのでしょうが……。

『どうせ私は』と思った自分をそのあと、

さらに「イヤな感じ」として受け止め、自分にがっかりして、

そこでまたそれを『だからどうせ、私は』の方向へ使う、

そのマイナスぐるぐるループ、それが自分の作った罠なのですから、

やめていいのですよー。

なぜその罠を自分が使っているか、を、自分のために探ってみてもよいのです。

 

まあ『どう使うか』は、その方の自由だと本気で思えてはいるのですが、

つらい方をさらにつらくするために書いているわけではないので、

わざわざそっち(比較してしかも卑下)を意図的にお選びになって、

その使い方をされなくても、だいじょうぶなんですよ、本当は、

という言葉の力だけ、ここに書いてとどめておきたいと思います。

 

こうした気持ちを、文章にまとめさせてくれた、

あなたに心から感謝いたしますm(_ _)m☆

 

2015_04_02_1

Illustration by Stellaris
ID: 201402022200
GATAG フリーイラスト素材集

 

動きすぎても、動けなくても……

動く、動かない。

動いたのに、うまくいかない。

動きたいのに、動けない。

上手にできなくて自分を責める人は、その部分の視点自体を、

まるまる変えていいことを知ってみるのも、ひとつの方法だと思う。

 

やる、やれない、その視点に強くこだわり過ぎる人って、

なんとかせねば

→やってみる

→うまくいかない

→ならば余計になんとかせねば

→さらに動く

→やっぱりうまくいかない

→ならばもっとやってみなければ

→やがて疲弊

→できない自分を責める

→私はいつもうまくいかない

 

あるいは

 

やれない、動けない

→やりたいとは思ってるのにいざとなると動けない

→それはきっと回りも非協力的だからだ

→回りも悪いし、タイミングも悪いんだ

→でも本当は自分が動きたいだけなのに

→やっぱり動けない

→イライラする

→自分に情けなくなる

→自分を憎みつつ、回りをも恨んだりする

→やっぱり自分は動けない

 

こういう感じで、ずっとネガティブぐるぐる、になってるんだと思える。

 

そして一見、正反対に思えるこの2つに、

共通してるんじゃないかな、と思えること、実は二つあるのよね。

 

その一つめ。

やった後に起こる結果を「あまりにも神聖視し過ぎてる」可能性はないかな。

 

何かやった、達成しただけで、万能&万全の幸福感に

自分が包まれることができるなら、すでに

人類は少なくとも2000年以上生きているのだから、

それこそ今ごろ、戦争も飢餓も、なくなってんじゃない?(^◇^;)

 

そんな魔法みたいなものは実は存在していなくて、

皆、日々、チクチクと軌道修正しながら、毎日いろいろ感じながら、

行動としては、そこそこやってみる、を意識して楽しんでいるわけで……。

 

だからさ、これこれを達成したら、自分は幸せになれるのに!

という、その強い思い込みそのものが、すでにもう

何かズレている……という視点は、持ったことあるかなってこと。

 

そして二つめ。

本当はそれをできなくては『いけないのに』というのは、

ただの価値観の一種、に過ぎない。

 

でも、その枠の中だけに自分をいつも押し込めているってことは、

イコール、他人のことも、その枠内でしか、きっと判断していない。

 

それって……実は他人に対しても自分に対しても、 めちゃくちゃ強く、

たったひとつの価値観を押し付けてるのかもよー? ってこと。

 

この場合、たとえば相手に具体的に何か言うかどうか、は関係ないの。

あなたがいつも、その枠から、世間や他人を見ている。

そして心の中で、相手の行動を批判したり、羨ましがったり、

常に常に常に、自分と、あるいはその価値観と、照らし合わせて比較してる。

ときには行いが正しいかどうか、

ときにはちゃんとしているかどうか等々、

ずっと他人のこと、自分のこと、比較して、ある意味、採点してるのよね……。

 

で、ごめんね、あえてこういう書き方してみるんだけど、

それって、あなたが『いつも必ず、自分や他人を

採点できる、という立場に、視点を置いている』ってことでもある。

 

……あなたは、そんなに上の立場の、素晴らしい人なのかな?

世の中をそんなにあれこれ採点できるほど、すごいのかな? 

普段の自分のことは、どちらかというと、真逆の存在のように感じてるよね?

 

なのにね、結果的に『心の中でやってること』は

実はとても上から目線の、傲慢な採点、傲慢な批判、なのかもしれないよ。

 

何かをするとか、しないとか。

それよりもっと前の段階で、

もっともっと、大切なことは、

自分が何を思っているのか、どんなふうに感じているか、を

客観的に、見つめ直してみることだと思える。

 

行動、というのは、確かに表面に現れるわかりやすいものだけれど、

そのもとになる気持ちや考えは、常にあなたの内側にある。

 

ってことは、あなたが、自分の内側にもっと気を配ってあげることは、

あなたの幸せを感じる、その気持ちにも影響するし、

やがては行動そのものも、変えていくんじゃない?

 

だって私たちは常に、何かを『しよう』という気持ちがあって初めて、

行動に至るのだから(階段を上がろうとするのさえ、まず気持ちが先でしょう? 

上がろうと思わないのに身体が勝手に階段を上がったこと、ある?)

 

だから何をするか以前に、気持ちの部分を見つめ直してみる、というやり方も、

今のあなたには、またとても有効なんじゃないかな。

 

それにね、何を『成した』か、以前に、

何を『為そうとした』か、のほうが

よほどあなたを変化させてくれると、私には思えるよ……。

そう、成功かどうかが、必ずしも重要なポイントではないってこと。

 

なんとかしなくちゃいけないのに、と思う、

その自分の心や気持ちのほうに、もっと注意を払ってあげてほしいと、

それこそ心の底から、私は願っています。

 

どんなつもりで、私は……?

それは遠くから見つめ直すことで、気づけること。

実際に動こうが動くまいが、今のその、

行動重視の色眼鏡をいったん外してみて、ぜひ、

自分の気持ちの部分の『奥のほう』を、

もっと知ってみてください。

 

心屋さんや武田双雲さんがおっしゃっているのは、

単なる気持ちの持ち方論でなく、そうした部分で

自分が気づける『変え方』の話なのだと、私には思えています。

 

2015_01_29

Photo by Boudewijn Berends
ID:201311231400
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