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見せつけるための幸せ……

他人からほめられるために何かをするというのは、

他者に見せつけるために、自分が幸せになろうとすること、

つまり他者よりも自分が優位に立とうとすることにもつながる視点。

 

それって、モチベーションとしては

かなり面倒くさいことになるんだなー、と今は思う。

 

私のように、親から認めて欲しい、が土台にあったパターンでも

親だけでなくなっていって、学生時代は成績やその他の結果の面で、

大人になると、よい仕事をするという面やよい恋愛をする面などで

すごい、と言われることを『求める』ようになったり……。

 

で、動けるときは、まだいいのよ。でも、

求めるがゆえにどんどん、他者と自分の状態を比較し、何かにつけて

『優秀であろうとすること』

『それを他人に示すこと』

を、結局は、どこかの部分で目指すことになるわけで……。

 

うん、つくづく、おバカさんでした、私。

だってそこには、ゴールなんてない。

あるように見えて、実は延々、他者視線を

気にして生きていくだけになる。

 

こうあらねば! って、あらゆる面でその都度、

自分に設定して、それを目標にして努力を繰り返すだけ。

私自身の『うれしい』『楽しい』が、その間にいつも、どこかへ行ってしまう……。

 

で、私の場合、やり過ぎてボッキリ折れたし、

そこまで必死にやれなければやれないで、欲求不満に陥るハメになってた。

自分の意志や達成力の弱さ、と捉えて、自分に不満を持つ。

 

それ、どこでいったい、幸せになれるというのか……(^◇^;)

ただのキリのない自己顕示欲、そう、ある種の欲望。

完全に見誤ってたよね、人生における『自分の生き方』。

本当に、おバカさんでした……。

 

何かを成し遂げることだけが、しかもそれで、

他人にいろいろな形でチヤホヤされることが

私の幸せ、になるはずないのよねー。

 

だって決めるのは私でなくて、他人任せ、だもの。

もっと言ってしまえば、他人の『気分次第』任せ。

対象となる相手が自分のこと、自分の努力や自分が示したことを、

どう捉えてくれるかで、私の幸せが決定するだなんて。

うん、そりゃキリなくなって、やがて続けられなくなっていって、

どっち向いても自己否定しーの、心も折れーの、になりますわ。

 

自分の世界の捉え方、枠そのものが、ある意味、間違ってた。

幸せは、そんな枠の中にあるものではなかったわ……。

 

と言いつつ、今もその枠の残滓に、時折は振り回されて

ヘロヘロやグダグダになったりもする訳だが(笑)、

枠に気づいて、枠の外の価値観を見つめられるようになっただけでも、

今はもう、よかったなと思える。

 

しかも別に新しい枠も要らなかったし、できる範囲で少しずつ、

全方位を見つめてみても『いいんだ』、

枠以外の判断や世界は、いい加減でダメなものではなかったと、

知ることができたから。

 

ということで生き方における視点も、いろいろ井の中の蛙でしたね、私。

そんな告白でございましたm(_ _)m

飛び出してみないとわからないことって、

まだまだあるのねー。

 

2015_01_15

Photo by Michael T. Gilbert
ID:201107291000
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追伸:これ以上、自分は存在していたくない、という方々へ。

自分を今、まさに責めておられる方へ。

 

先の記事は、自分が存在する、ということ、

その点においてもう、反発を感じられるかと思います。

過去の私もそうでした。

 

でもそれは、「存在したくなくなる」、

そんなになるまで自分の気持ちをないがしろにしてきた、

その、ひとつの結果の表れでもあります。

 

そんなにも、自分にずっと無理をさせているのです。

そんなにも、自分を無視してきたのです。

 

あなたも他人も、神様ではないので、先のことを

「『うまくいかない』と確定させる」ことは、どうしたってできません。

何も決まっていない、わからないことなのに、

そう『決めつけてしまいたくなる』ほど、

これまでのあなたが、実は、自分の感じることを軽く扱ってきたのです。

 

問題は、あなたの存在そのもの、ではありません。

あなたが疲れきっている、

そこまで自分を追い込んでいる、その自分自身の状態のほうです。

 

過去、そこそこ事態がうまくいっていると自分が感じられていたとき、

あなたは自分の存在を疑ったりは、とくにしなかったはずです。

 

疲れきっている、という状況。

そのことを、もっともっと、自覚してみてください。

そして何よりも、疲れきっている自分をゆるして、慰めてあげてください。

 

本当の問題は、立場や状況のほうばかりを大切に考え、

そのとき自分の感じたことを無視し、

疲れても自分をいたわらず、守らないで、ただひたすら、

何とかしようという部分だけを、やってきたことのほうにあるのです。

過去の経験と学びを経た今の私は、

少なくとも、過去の自分を振り返って、そう思っています。

 

自分を一番おろそかにしていたのは、自分自身だったと。

 

どうか、そこまで今、疲れていることのほうを、

今は自分自身で重視してあげて、

まずはいったん、それを和らげることだけに、

注目していただけたらと願います。

 

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Photo by takazart
Pixabay

 

役割分担、的な話

今日の心屋さんの記事や、その他の方々のブログなどを読んだりして、

世の中って関わりのある人同士がそれぞれ、

役割分担してるんだなー、とやっぱり思えた。

実際の作業面だけでなく、相手がただ、存在してくれていることで表れてくる、

ありがたさや安心感、安定、自信、モチベーションのようなもの。

 

たとえば、心屋さんの記事っていうのは、

専業主婦さんが自己卑下してる話と、

ご主人さんが「俺のほうがオマエより偉い」という感じに比較してる話で

要はそれって、自分自身に対する気持ち(心の奥)を

相手に見てる訳だよ、ってことなんだけれど。

 

それ以前にまず、誰かと協働する、ともに過ごすことを選ぶとき、

それが肉親だろうが他人だろうが、ある種の、

一緒に、あるいは分担し、お互い協力してやろうね、の『約束をしてみる』わけで。

 

サラリーマンと専業主婦なら、

外で働く担当の人と、家の中の業務を担当する人、になる。

 

自分の家の中のことをする人が、別途いてくれるから(家事、育児、介護等)、

外で働く人担当の人は、日々、数時間『外で働くことだけ』に専念できる。

 

で、お金という道具は、たまたま今、外で働くことによって得やすい世の中で、

その道具を使うと、いろいろなものに交換できて便利。

なのでそういう仕組みが世の中で発達している。

 

外働きして家に帰ったら、自分の子孫が病もせず楽しそうに過ごしてて、

家の中がそこそこ整理されてて、風呂にもすぐ入れて、

ご飯も寝る場所も確保され、ある程度整えられているから、

翌朝も自分は病気にならずに起きられて、外働きへと、動き出せる。

 

そんなふうに、お互いが役割分担を問題なく機能させられて、

お互いに約束を守れ、大きな不都合も起きず、

今日もまた、とてもラッキーな1日でしたね、って話。

 

しかもね、この状態を続けていきたいな、と思うことで、

自分の役割に対するモチベーションも上げられる。

愛情がそこにあって、ゆえに安心感や信頼も持てていて。

とてもステキな役割分担ですね、お互いに、ってことだ。

 

たとえばそういうことが、家族を作るという基本だと、私には思えるわけです。

子どもたちは、その環境が『約束された役割分担』の結果だとは、

大人になるまで気づかないけれど。

たまたま、親同士の信頼関係が見えれば、

その環境に『安心感の存在』を感じられ、

自然に馴染み、自分の学びにできたりする。

 

子どもでも、家族に限らず、親戚だろうが、施設の人だろうが、

それぞれ、知らないうちに『その人がいることで成立する安心感』は

自分の学びにできるのだと。

そして大人になるにつれ、学校や会社等、選択可能な環境が増えていく。

 

でね。

その環境の中で、たとえば相手が感情をむき出しにしてきた、

そんなことがあったとしても。

少なくとも、あなたがそこに『存在していていい』ことは、

すでに先に容認されていて、だからそこで過ごせて、問題に出会った、と。

 

そしてあなたもまた、日々、仕方ないなー、なんてふうに、

どこかで思うことがあっても、その環境、その分担協力を

『そこに存在する』という点ですでに、受け入れてはいる。

 

本当に嫌なら、全部ひとりで、新しく作ってもいいのです。

どんなに非難されようと、本当に本当に、どうしても苦しくて嫌なら。

苦しい関係を断ち切って、一から新しく、お金の流れや、他者との間の信頼や、

分担協力するための約束をできる関係を、新たに作っていい。

与えられた、と思える環境を飛び出してみていいのだと、私には思えます。

 

あなたが存在することは、すでに世界の中でゆるされているから、

あなたは現在、そこにいて、『あなたの今』がある。

 

生まれた国、育った場所。選んだ経験や選んだ環境。

そこで関係を持った人。その中で、自身が選んでいるもの。

義理が、人情が、一応約束してみた役割分担の責任が

(親役、子ども役、社員役、社長役、彼氏役、彼女役、等々ね)、

自分の体調が、愛情が、信頼関係が、などの条件から、

『どこの環境で自分がどう存在するか』を常に選び続けている。

 

生活、という部分で見れば、便利な『お金というツール』を、

どんな役目でどう受け取るか、まで含めて、自分が選んでいる。

 

家族、という部分で見れば、どこの位置で何の役目を背負うか、

相手の期待や自分の気持ちや実際の負担レベルまで含めて、選んでいる。

 

言われて仕方なく従う……のもまた、自分が『受動的に』選んでいるのです、

それに従うこと、のほうを。

 

だからさ。

自分がなるべく心地よく『その環境に自分を置いて』、

かつ、何かの役目を『さらにいろいろ、果たしてみたい』なら。

 

自分の気持ちや相手の気持ちや、

そのとき発生している状況や、その他を加味しながら、

選び続けて、存在し続ける、

ついでに任された役目を果たしていくという、

その練習は続くわけです。練習なのだから、

もちろん、疲れたら休んでいいわけです。

 

休むの、ゆるさなーい! と叫ぶ他者がいたら、

なぜ休みたいのか、真摯に伝えようよ。

続けていきたいからこそ、疲れたときには休むってことを。

 

伝わらないなら、ゴメンね! って真剣な気持ちで謝って、今は休む、を選ぶ。

そこでおびえて、無理して、相手の主張だけを受け入れる必要もないし、

逆に自分の我だけを通せればそれでいいわけでもない。

 

あなたも心地よい、相手も心地よい、が両立できれば、一番いいよね。

で、もう、どうしても両立、無理! だったら、離れていい。

 

毎日、毎瞬、私たちは選んでいる。

そして自分以外の、自分と関係を持った他者と、協力し、協働している。

 

存在している、まずそのことだけで何かの役目を、

勝手に果たせているし、さらにいろいろな協力を

これからもしていっていいし、そのために調整も努力する。

そして、それらがうまくいったとき、とてもとても、『自分が』幸せになれる。

 

卑下してるだけで一生、終えなくてもいいよ。

非難してるだけで、一生、終えなくてもいいよ。

あなたは、あなたが幸せになれる『他者とのよい協力関係』を

自分自身で、常に、選んでいっていいのです。

はい、たとえ今、90歳になっていようとね。

 

そのためにも、自分の身体と、自分の心を、しっかり『大切に』してね。

そして自分の気持ちと感情は、

自分の心の奥や身体全体の調子に気づけるバロメーターだから、

無視しないで、丁寧に扱ってね。

 

相手だけを大事にせず、自分だけを大事にせず、

全体、をバランスよく大事にする練習、していってね。

 

もう一度言う。

あなたはこの世の中で、いていい存在だから、生まれて、生きてきた。

そして現在も、選んで、あるいは受動的に、今、そこにいるのです。

だから自分で選んでいっていいのです。これからも。

 

種が、ある場所へ到着した。

そこで芽を出し、成長して花を咲かせ、

新しい場所へさらに種を届ける。

それを間違っている、とは思わないでしょう?

だからあなたも、今いて、この先も選んで、いいのです。

それは自然なことなのです。

 

休息を上手に取りつつ、なるべく心地よくいられることを目指して、

でも、自分に決して無理させ過ぎないように、怖がり過ぎないように、

その役目の楽しい部分も見つけながら、練習していこう。

イヤなら自分から自分のために、流れや状況を変えてみる、

その勇気の『出し具合』もまた、練習していいのです。

本当は、それって調整してみる練習なだけで、

難しいならさらに、選択や調整方法を変えて試していく、の連続。

だから『失敗』とかいう概念も、本当は、そこには必要ないのです。

別に何を選んでみても、何をやってみても、本当は、いいのだから。

 

2015_01_11_1Photo by Pixabay