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欠点を消す戦い

自分の欠点と思える部分は

確かに自分で あれこれ工夫してみるチャンスだけど

安易に取り去る 消すことで 何とかなると思うのなら

それは何かズレてないかな と感じる

 

見た目のことを例にして話してみると

美人と言えなくもない範囲の人が

自分の顔のパーツで悩んでいたら

他者からは 贅沢だと 非難され

 

本人がブスだと思い込んでいる人が

自分の顔を他者と比較し評価する話をしたら

それはちょっとひがみすぎじゃない? などと言われる

あるいは自分でそう感じる

 

結局 自分で自分を悲しくさせるうえに

どっちにしても 他者からは ある意味 非難されるのだ

 

でもね 美人であっても

それを競う世界観の中に 自分がいれば

欠点はきっと 山ほど見つかって

自己卑下して悩みまくるわけだし

自分の顔がブスだとか卑屈に捉えないでいる人は

お化粧なんかもいろいろなやり方で 楽しんで過ごせている

 

そう 欠点を消す あるいは埋めることって 

本当に気をつけないと 際限がなくなっちゃうのよ

 

体重落としたい で 激やせしたら 幸せがやってくることが

確定してるのかな?

いや いいんだよ 本人が 自分の自信につなげるために

外側から変えるの 確かにアリだよ

もっと言えば 例えば 美容手術の力を借りることだって 否定するつもりはない

 

ただ そのやり方で 上手にきっかけをつかんで

本当に本物の自信を 自分にもたらすことのできる人が

どれくらいの割合でいるのかな? とは思えるんだ

 

顔を 作り替えました で十分満足するかな?

今度は脂肪を吸引したくならないかな?

脂肪を吸引したら 今度は吸引しても変わらない

ウエストの太さが気にならないかな?

ならば次は一番下の肋骨 削り取ってみる?

肌は 日焼けしてない部分の細胞を移植します

しみはすべて レーザーで消して シワも切り取ります

 

そのメンテナンス作業

延々 自分を削り取る作業

どこまでやれば満足するかな?

 

しかも 評価するのは他者だよね

ならば 誰の意見に照準を合わせ

自分を削り取る作業を 続けるのかな?

 

これは 自分の性格や気持ちの問題でも

同じようなものだということ わかるよね

嫌って ひたすら削り取る作業 を続けていくと

いつまで経っても どこか不満が残りかねない

 

だって それらは悪いこと いけないこと なんだもの

あなたは 他者から否定されたこと 即 イコール

自分のいけない部分 という発想だけに 陥ってないかな?

 

もちろんさ 自分の意見のみ重視して 独りよがりで

他者を平気で傷つけるとか そういうのは別次元の話だよ

他者を気にする人って そっちへすぐ話を置き換えちゃうけど

それはそれでまた 極端な思い込みじゃない?

単純に考えてみて 言われたことを どこまでどういうふうに気にするかは

自分が選んでいいはずだよね?

 

だって人はときに 自分自身の抱えている問題を

他人に投影して 自分の身代わりとして他者を責めることがあるから

 

なのにそれを踏まえず 相手の言葉を100%鵜呑みにして

すべての批判を受け入れて その言葉通り 自分を非難して

ひたすら 自分だけを変えるの?

 

何かを 無くしさえすれば 逆に得さえすれば 

他者から本当に認められるの?

他者から認められ「さえ」すれば

私は幸せに「なれるんだ」という自分のその視界って

不安定で あやふやすぎないのかな?

 

私は足りない 私はダメ

だから 何とか 何かを得れば 

あるいは消してしまえば

なかったことにしてしまえば 幸せに「なれ」る

つまり私は いつも不幸 過去も今も未来も 自分の不幸は 確定中

その捉え方のほうを先に何とか 削り取ることを考えたほうが

よっぽど早く 余分なお金もかからず 失敗も恐れず

自分を幸せにできると思うよ

 

削り取る の真逆で 足す もあるよね

お金とか 筋肉とか 肩書き とかさ

いずれにしても 幸せの不足 を 埋める作業

 

うん その不足分は 他者からの評価で 埋めなくても

自分をどう大切にするかのほうで十分 補えるし

そっちのほうが リバウンドや劣化の「恐怖」もなくて

よほど 自分が楽だと思えるよ

 

ねえ そういう他者視点を含めた幸せを 考える人って

そもそも 人を傷つけるの 苦手だと思うから

よほどでない限り ひどい独りよがりには

ならないで すむと思えるよ

 

他者の気持ちも 大切にできる人なんだから

心地よく それを活かそうよ

自分を傷つけるほうに使うんじゃなくてさ

 

他者の意見だけを 鵜呑みにするのでなく

自分でも自分を 満たしてあげることの

いったい何が いけないのだろうね?

 

2014_12_28_1

Photo by Geoffrey Whiteway
Stockvault

 

蒔いた種、の話

あなたは過去に、ある目的を持ち、

何かをしよう、成そうと、種を蒔いた。

その種を、育てようとした。

 

だけど晴れの日だけでなく、

雨の日も雪の日もあるように、

あなたの蒔いた種も、日々、

知らなかったいろいろな経験を

積んでいくことになった。

 

そんなの、知らなかったよ! と、あなたは言うかもしれない。

ここまでの想像なんて、出来なかったんだ!

アイツがあんなことをしてくるなんて!

 

うん、そうだね。

種を蒔いたときには知らなかったことを、

蒔いたあとに、わかることはある。

そしてそれが『自分の想像』を越えていたら、

そりゃ当たり前の話、あらかじめ予想することは難しい。

 

でもね。

困難は、どんなときにも、どんな場合にも起こり得る。

そのことは、知っていたよね。

 

そして、この困難というのは

「あなたにとって難しいと捉えられること」であって、

そう感じない人も、いるかもしれないことも。

 

自分には困難なことを、他者がやっているとき。

それは自分を伸ばしていけるチャンスであることも、

また事実ではあるんだ。

たとえ自分には向いていないことだとしても、

やり方の練習だけなら、他の人から学んで、できるから。

 

学ぶ気になれない、どう考えてもそれをやりたくない、っていうときには

もちろん無理する必要はないけれど、

そうでなく、本当は自分もできるならやりたい、と思える範囲のことなら、

苦しくても「よい練習」「よい別の学び」の環境は、

揃っているとも言えるのだ。

 

簡単な具体例を挙げてみようか。

口やかましい上司やお局さまとも、適当に距離を置きつつ、

差し障りのない範囲で付き合いをこなしている人。

だからと言って、へりくだったり、

陰で悪口・罵詈雑言をまき散らしたりもしない人。

 

じゃあその人は、どんなことを思いつつ、対処してるんだろう?

そこにはどんな「考え方」が、潜んでいるのだろう?

 

そういうふうに、もっと大きな視野で、

周りも含め別の視線で見渡してみることで、

今まで知らなかった世界、知らなかったやり方が

自分の周りに広がっていくことも、けっこうある。

 

上手くいかないから、と、想像の範囲から離れることもなく、

自分や相手にダメ出しをして、そこにとどまっているだけでは、

見えてこない世界があるかもしれないのだ。

 

それにね、少なくとも困難が来る前に、その状況に身を置いた、

その環境を選んだのは自分なのだから(たとえ無理やりだったとしても、

何らかの理由から、それをあなたは『許可』したはず。

逃げ出さず、そこに自分を置く、または至ることを、

イヤイヤであっても『受け入れ』はしたはずなのだ)。

 

だったらその「イヤなこと」からも、学べることは、あるのでは。

それらを自分のために、吸収してみても、いいのでは。

それによって、あなたの枠は、広がっていくのだから。

 

たとえすぐには上手くいかなくても、やがて、上手くいくかもしれないし、

また、状況そのものも、変わるかもしれない。

少しでも見渡し、自分が吸収できそうな部分に目を向ける『習慣をつける』、

その練習だけでも積むことはできる。

 

もしかしたらだよ、『習慣を見つけて積んでみる』を練習するためにこそ、

あなたはその場所に、自分を連れていったかもしれないのだ。

 

思ったことを上手にできることが、すべてではないんだよ。

当初の願いを叶える、その方向の成功だけが、

決してすべてではない。

 

失敗は、あなたがそう捉えるからこそ、

失敗というラベルを貼られる。

このことはこれまでにも何度か言ってきたけれど、本当の話なのだ。

 

であるならばもう、失敗、というラベルを貼るのをやめようよ。

当初、学びたかったこととは、違う学びになったとしても、

あなたの枠が広がるのであれば、それもまた良いこと。

 

それがもしかしたら、この先の自分にとって、

とても大切なきっかけにさえ、なるかもしれない。

 

ときには「休んでみる」という行為さえ、練習を詰めるのだからね。

 

自分が蒔いたと思った種がヒマワリでなく、

バラだったりあるいは芍薬や牡丹だったら?

思いがけず咲かせられたら、うれしくないかな?

そう、予想外であるならぱ、

それこそ、育ててみないことにはわからないんだよ。

 

だからね。

すぐに何でもあきらめないで、あるいは想像通りにならないと

怒ったり落ち込んだりばかりしていないで、

最初に何かを蒔いた、この環境を選んだのは自分だから、

学びになりそうなことを、探してみようという視点も、

持ってみていいと思えるんだ、自分のために。

 

文句や不満や自己卑下ばっかり繰り返したり、

上手くいかないからと苦しみだけを捉えないで、

他の部分、という意識を、少しでも持ってみてもらえればと願うよ。

 

あなたに超えられない壁は、そもそも、あなたのところに来ない。

これは他の部分に視野を広げてみることも含めて、

私には真実だと思える。

 

目的・目標に向かい合まっしぐら、も確かに悪くはないけれど、

何が何でも「予想通り」にこだわるのでなく。

種を自分が蒔いたことをゆるし、

蒔いた種から、想像通りの成果も、思いがけない実りも、

あなたがたくさん、受け取れますように。

 

2014_12_24

SWITCH BOX

 

選ばれなければ 認められなければ いけないって?

ものすごくゆっくりとね 何度も繰り返しながら

今日は書いてみるよ

どの順番 どのタイミングで あなたに届くのか わからないからさ 許してね

 

誰かに 選んでもらえたら

誰かに 認めてもらえたら

私は 自信が持てるの

 

どうしてそこまで 

ひたすら何かを待つ必要があるのかな

それ 何の オーディションなのだろう

素晴らしい人間コンテスト とか?

 

つまりはイコール 誰かに認めてもらえるまで

私は 素晴らしくないの ってこと? 

なぜ自分の価値を最初から低く設定して

そんなにまで他人に

評価を委ねないと いけないのだろう?

 

選ばれるってことはね

その代わりに 他の人を蹴落としていいってことだよ

誰かに対して 優劣をつけるってことだよ

それ 何の戦いなんだろうね

何のための 戦いなんだろう

この世はすべて 戦い 争いでできていて

常に優劣だけで 成り立っているのかな

 

誰がそんなことを あなたに教えたのだろう

 

人間は選ばれるために 努力するのかな

自分が気に入った他者から 

優劣をつけてもらうために 努力するのかな

誰かを蹴落として 自分が優位に立つ

その発想 その視野自体を

丸々全部 やめるって方法もあるのだけれど

そっちをやめたら 人間失格なのかな?

 

誰がそんな競争を あなたに信じ込ませたのだろう

 

他者と 優劣を 競わねばならない

他人は 蹴落とすべき存在である

そして自分が認めた範囲の ステキな人

雲の上の誰かに 認めてもらって 選んでもらうの?

その雲という存在こそ 偽りだよ

雲の上の人たちって すでに勝った人?

人生を 勝っている人?

その他大勢は ダメな人ってこと?

 

自分が 雲の上の人よりは

何が何でも絶対に 劣っているのだという視点

人生は 人に優劣をつけるためにあるという その世界観

自分が赤ちゃんのときには 存在しない視点

それを 誰かに教わり 刷り込まれ

他者は蹴落とすべき存在だと 学ばされたかな?

あなたは劣っているのだと 決められたかな?

 

そういうことを言うヤツのほうが

よっぽど井の中の蛙で 品性が下劣だけどね

その下劣さを 信じる必要が なぜあるのだろう

 

人は皆 違っていて

それぞれに 素晴らしい面を 備えている

それをどう表現するかが 自身の選択次第なだけで

それぞれに優れた面を持っている事実に 変わりはない

 

なのに ある一面だけを比べ 優劣をつけることに

どんな意味があるのだろう?

 

そんなの スポーツや芸能界に生きる人に任せなよ

日常の暮らしの中にまで

私は劣っているのだ とかいう 視点を

わざわざ持ち込むこと自体 やめばいいんじゃない?

あなたと その人の 素晴らしさが違うだけだよ

ときには自分との違いが多いので 

相性として 合わないだけだよ

 

本当の姿は 

あなたはあなたで 素晴らしい

あの人はあの人で 素晴らしい

それがあるだけだよ

なのにわざわざ 自分でも 自分を蹴落としながら

誰かからの何かを 待っていく人生を歩むの?

そんな必要が なぜ あるのだろう?

 

あなたの心根の優しさや 思いやりや 愛を

すべて競争に使い

あるいはそんなもの捨てて

見た目の美や お金や 地位や立場や名誉

その他 優しく立派な家族や彼氏彼女を持つこと などで

わかりやすく「優位に立ったように見える」形に

なる必要があるってわけ?

 

それさ もう一度 聞くよ

誰に 認めてもらいたいのだろうね

誰に ほめてもらいたいのだろう

誰に 仕返ししたいのだろう……?

 

すでに今 あなたが見比べ 見下し始めている

まさに あなたが勝ちたいと思っている 世間かな? 

世間を見下したいという視点を 願いを抱えながら

なのに私の素晴らしさを認めて って 

世間に 誰かに 認めて! って 頼んでるよね それ

 

うん その矛盾した考え方ごと いらないと思うよ

この世界がそんなところだという視点で生きるから

すべて競争しなくちゃいけなくなり しかも

自分ですべてを 優劣という結果に落とし込んでから

『世の中を観る』形になってしまってる

 

それはもう 自分という存在を 

すべて他者からの意見に委ねてるだけ

他者から選ばれる 他者から輝いて見える だけを願い

『自分という人間の大切さ』が 自分の中に

どこにもいない人 だもの 

何も楽しめないよね 楽しむことすら 難しい

すべては他者からの評価待ち だから

 

自分という存在を 競争のみに使ったら

そんな世界しか 見えてこないよね

ねえ 本当に なぜあなたは 

自分の存在価値というものを 他者からの判断に委ね

人生そのものを オーディションにしなくちゃいけないのだろう……?

 

勝って 見下した相手から 素晴らしいと言われ

雲の上の人たちに 素晴らしいと言われなければ

あなたは生きている価値がない存在なのかな……?

 

勝ったときに初めて

ふふふ 俺って 私って 素晴らしい人間だわ と微笑み

やっと自分を認め 自己満足して ウットリするのかな

 

……私にはそれ ただの自己チューの  

傲慢な勘違いヤロウにしか思えないよ 

ゴメンね そんなの目指して どうするの? と

本気で 聞きたいよ……

 

自分が見つめ 願い 望んでいく世界は 

突き詰めればそんな結果になるのだということを

その明らかなズレを 知ってほしいと願うよ

世間から 認めてもらわねばという その視点 視野自体を

やめてみればいいのにと 祈るよ……

 

そんな競争の勝ち負け 必要なしに 

あなたは自分がいていいことを知り

自分で存在を大切にしてあげて

他者に対しても また 

素晴らしい面に注目して 付き合いを楽しんで

泣いて笑って 誰かを愛して 

一緒に 対等に 仲間として……

そんなふうに 生きていっても いいんだよ

そんなふうに 誰でも 生きていいんだよ

あなたは そう生きて いいのに……

 

それでもなお 外側の認めてもらえる条件をくっつけられるまで

自分を 非難し続けていきたいのかな

そうやって そんな世界観のままで 

いつか何かに 勝つまでは そのままでいたいのかな?

 

2014_12_23何をもって 勝ったと思えるのかが明確でない

終わりのない 勝利探し