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追伸:勘違い

さっきの話に少しだけ 言葉を追加させてね

 

あなたが あなたを守ることは必要

他人をないがしろにする わけではなく

他人とは関係ない 奥のほうでね

 

そして

大切にする

ことと

執着する

ことはイコールではない

 

守る ためにこそ

手放す ときもある

そのほうが いいときも ある

 

あなたは あなたのことを

冷静に見てもいいけれど

 

キライとか 気にくわない面があるなら

それを放置するのではなく

なぜそう感じるのかを

きちんと見つめる日が来て欲しい

とても重要なヒントが そこにはあるから

 

他人に 手を出していくより前に

あるいは

他人に 手を差し伸べる前に

自分自身に 手を差し伸べよう

 

2014_11_20_2

 

 

他人の人生の主人公は、その他人である

今日は脈絡もなく、思いついたことを書いてみます。

 

他人の人生に割り込んで、その相手の人生のなかで

自分を主人公扱いにしてもらうべく、

さもありなん、な正論を述べて自分を正当化しようとしたり。

逆にすがって、あるいは奴隷のように従うことで

なんとか私を救い出してよ、と求めてみたり。

 

ゴメン、それらは、はっきり言って他者には迷惑である。

 

それよりもまず、

あなたの人生の主人公はあなたであるのだから、

『あなたが自分に話しかけて自分を大切にすること』を

優先したほうが、結局は他者との関係も、うまくいくのだと思える。

 

お互いがお互いの主人公であることを、きちんと敬えるようになるから。

たとえ相手が、子どもであっても。

 

正論を吐く人でも、それによって

私を中心にして! を訴えていたりする。

自分のことを自分で何とかする、

という部分を放置している、その点においては、

他者にすがる人と、実は変わらない。

 

この、何とかする、というのは

頑張ります!

とかいう種類の話ではない。

 

人間としての自分のゆがみ、

それは「誰にも当たり前のようにある」ことをまず認めろ、

という話なのだ。

認める、というのは、イコール、

許す、とか、愛する、と同義。

 

自分を敬うことなくして他人は敬えない。

本当の意味では、そうなのだ。

 

もちろん、逆もしかりである。

他人を敬うように、自分も敬い、

自分を大切にするように、他人も大切にする。

 

そうすることで初めて

「他人もまた、敬いを持って自分に接してくれる」のだ。

 

だから自分を放置したまま、他人にばかり口出しする

(絡む、すがるも同じ)人は、自分が自分を満たしていない。

 

きっとそうなのだと思う。

 

そしてもう一つ。

自信、というのはやれるようになるから持てる。

やらないで自信がないのは当たり前だし

やれるようになるまでは自信がなかなか持てないのも当然。

 

練習は、どんなことにも必要なのだ。

 

それを手抜きして結果だけ求めようとするのは

単なる「ずる」でしかない。

 

「ずる」し続けながら自分や他人に不満ばかり感じる人生、

まあ、それもまた、自身の選択だから悪いとは言わないけど、

私だったら「辛いこと」のひとつだ……。

 

その、

いったいどうしたら、

という思いは、

「とにかくできること」から始めてみないことには、消えないよ。

 

実際の行動だけでない。

自分を敬うのは、自分の内側でできる。

 

今まで、理屈や都合だけで何とかしようとして感情を忘れている人は、

自分の感情を「取り戻す」ところからだし、

だからといって見つけた感情をそのまま、

他人にぶつけるのは幼児のやり方だし。

 

自分のなかにこんな感情がある。 

なぜだろう?

どうしてそう感じるんだろう?

どんな「価値観」「思い込み」から私はこの感情を持ったのか?

 

そしてその価値観、その思い込みは

本当にそれだけしか道がないのか?

あなたがそう感じても他人がそう感じない、ということは

ないのだろうか?

 

さらには。

そう感じない他人は、

本当に間違っているのだろうか?

 

そういう「穏やかな自問自答」から視野を広げてほしいと願う。

 

あなたのなかにある、そのイビツさ、は

必ず裏側にあなただけの宝物、を隠しているから。

それを信じて、かつ、安心して、探ってみてほしい。

 

2014_11_20_1

 

 

追伸:知っただけでは変わらないと思う方へ

先の話の、おまけの続き。

 

私は言葉で、自分が経験し、

あるいは学んできた視点について語る。

それが誰か何かのきっかけになることを、祈りながら。

 

でも、私の言葉で何かを知ったとしても、

じゃあ「具体的にはどうすればいいのよ」と、

行動の指針をさらに知りたがる方もいるだろう。

 

知ることはできても、変われないじゃない! と苛立つ方も、

もしかしたら、いるかもしれない。

 

それこそが、あなたを罠に、陥れる視点となり得る。

 

なぜ、あなたは、他者の指示や思惑通りに行動しなくてはいけないのだろう?

なぜ、誰かの言うとおりに、過ちを犯さず、動かなくてはいけないのだろう?

そこには、どんな「評価を求める自分」が、潜んでいるのだろう?

何に対して、あなたはおびえているのだろう?

 

初めてのことを一発で成功させ、すべてにおいて百発百中で

上手にできる人なんて、そもそもいるのだろうか?

 

他人が踏み固めてできた道ばかり安全に歩くことが、

あなたにとっての幸せだろうか?

 

やったことがある「やり方」だけに執着して、

または誰かから指示や指針を受け取ることだけ考えて、

それは本当に、あなたの幸せにつながるのだろうか?

 

このように書けば、自分の学び方は自分で選んでいいことに、

気づけるのではないだろうか。

 

誰かから誉めてもらうためでなく、

自分が喜ぶために、自分でやり方を「模索」していいのだ。

 

失敗がいけない、という視野を選んでいるのも、また、あなただ。

失敗したら恥ずかしいから? 誰に対して?

周囲、だよね。

自分がやったことのないチャレンジをし始めるというのに

周囲の評価だけをいきなり最初から得ようとしているの?

 

その視野、誰に教わった?

いつからあなたは、それに従った?

 

見つめ直すのは、そこからだよ。

何か、周囲との間で起こっている問題に対処し続けて、

ひたすら評価を得ようとするのでなく、

自分の中にある自分の問題に向き合って、

自分からの評価を求めても、そろそろ、いいんじゃない?

 

そのやり方に、誰かの指示などいらないのだ。

 

しかも自分の内側を自分で遠くから眺めてみるのだから、

そこには失敗、という観点は必要ない。

そして過去の出来事は、過去の「記憶」のなかにしか、もはや存在せず、

ゆえにそうでないやり方を、次から、選べばいいのだから。

 

ならば、あなたが気づいているであろう、あなたの「視野」の

マイナス点について、まず、紙にでも書いてみればいいと思う。

 

いつから、どんなきっかけで、その視野を「信奉」し始めたのか。

それは本当に、それしか選べないのか。

 

鬱などで苦しい真っ最中は、まだ「採点、のち、自己卑下」のパターンしか

思いつかないだろうから、すぐにでなくていいけれど。

過程において、痛い気持ちを味わうことも、あるだろうけれど。

 

いつか、あなたが、他者の声でなく、自分の声と向き合える日が、

やって来ることを心から祈る。

それは必ず、あなたを支えてくれる、

優しくて新しい光になるから。

 

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Photo by ぱくたそ