他人の人生の主人公は、その他人である

今日は脈絡もなく、思いついたことを書いてみます。

 

他人の人生に割り込んで、その相手の人生のなかで

自分を主人公扱いにしてもらうべく、

さもありなん、な正論を述べて自分を正当化しようとしたり。

逆にすがって、あるいは奴隷のように従うことで

なんとか私を救い出してよ、と求めてみたり。

 

ゴメン、それらは、はっきり言って他者には迷惑である。

 

それよりもまず、

あなたの人生の主人公はあなたであるのだから、

『あなたが自分に話しかけて自分を大切にすること』を

優先したほうが、結局は他者との関係も、うまくいくのだと思える。

 

お互いがお互いの主人公であることを、きちんと敬えるようになるから。

たとえ相手が、子どもであっても。

 

正論を吐く人でも、それによって

私を中心にして! を訴えていたりする。

自分のことを自分で何とかする、

という部分を放置している、その点においては、

他者にすがる人と、実は変わらない。

 

この、何とかする、というのは

頑張ります!

とかいう種類の話ではない。

 

人間としての自分のゆがみ、

それは「誰にも当たり前のようにある」ことをまず認めろ、

という話なのだ。

認める、というのは、イコール、

許す、とか、愛する、と同義。

 

自分を敬うことなくして他人は敬えない。

本当の意味では、そうなのだ。

 

もちろん、逆もしかりである。

他人を敬うように、自分も敬い、

自分を大切にするように、他人も大切にする。

 

そうすることで初めて

「他人もまた、敬いを持って自分に接してくれる」のだ。

 

だから自分を放置したまま、他人にばかり口出しする

(絡む、すがるも同じ)人は、自分が自分を満たしていない。

 

きっとそうなのだと思う。

 

そしてもう一つ。

自信、というのはやれるようになるから持てる。

やらないで自信がないのは当たり前だし

やれるようになるまでは自信がなかなか持てないのも当然。

 

練習は、どんなことにも必要なのだ。

 

それを手抜きして結果だけ求めようとするのは

単なる「ずる」でしかない。

 

「ずる」し続けながら自分や他人に不満ばかり感じる人生、

まあ、それもまた、自身の選択だから悪いとは言わないけど、

私だったら「辛いこと」のひとつだ……。

 

その、

いったいどうしたら、

という思いは、

「とにかくできること」から始めてみないことには、消えないよ。

 

実際の行動だけでない。

自分を敬うのは、自分の内側でできる。

 

今まで、理屈や都合だけで何とかしようとして感情を忘れている人は、

自分の感情を「取り戻す」ところからだし、

だからといって見つけた感情をそのまま、

他人にぶつけるのは幼児のやり方だし。

 

自分のなかにこんな感情がある。 

なぜだろう?

どうしてそう感じるんだろう?

どんな「価値観」「思い込み」から私はこの感情を持ったのか?

 

そしてその価値観、その思い込みは

本当にそれだけしか道がないのか?

あなたがそう感じても他人がそう感じない、ということは

ないのだろうか?

 

さらには。

そう感じない他人は、

本当に間違っているのだろうか?

 

そういう「穏やかな自問自答」から視野を広げてほしいと願う。

 

あなたのなかにある、そのイビツさ、は

必ず裏側にあなただけの宝物、を隠しているから。

それを信じて、かつ、安心して、探ってみてほしい。

 

2014_11_20_1

 

 

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