木元見春 のすべての投稿

自分がダメ、相手がダメ、のその「先」

自分のことを 自分で否定しまくっている人も

誰かのことを 否定しまくっている人も

腹立たしかったり いらついたり 落ち込んだり

それぞれとても 苦しいとは思うのだけれど

それってね そうやって「自分を守ってる」んだよ 本当は

 

他人や自分に対していらつく自分が 自分でもイヤになったりするだろうけど

他人や自分を責めている自分を またどこかでさらに 責めているだろうけれど

 

それ あなたが 自分で自分を守るやり方として 選んでいる

これ以上 私を傷つけないで! って叫ぶ代わりに

自分で選択した「保護」の仕方だよ

 

たとえば 自分のこと 本当にダメで嫌いなら

他人から何を批判されても「その通り」のはずで

その通り だったら 「そうですね」って 素直に 思えるはずでしょ?

でも思えないよね 普通は思えない そんなこと同意できない

同意した「ふり」はできても 内心 すっごく傷ついていたり

相手が悪いからと 自分を正当化したりになるはず

 

正当化 とあえて言うのは 「価値観の違い」っていうだけの場合もあるから

この言葉を使っているんだよ 別に あなたを責めるわけじゃないからね

 

だからつまりね 他者批判だろうと 自己否定だろうと

あなたはそうやって 「自分を守ってる」

ちゃんと 守れている 守れてきた

心の奥のほうで 自分を完全に 見捨てることはしていないの

それは人である以上 できないこと と言ってもいいかもしれない

 

あなたは どんなにダメであっても

心の根っこでは 自分を好きなんだってことだし

それ そのまま 本当にそれでいいの 好きでいいの

 

ねえ それが 普通であって 当たり前なの

そして あなたはそれが すでにできている人なの

 

だからさ いい加減 認めようよ

私は 私を 本当には 見捨てなくていいんだな ってこと

どんなに「ダメ」でも(そしてそのダメの基準は

親など他人からの言葉や評価で 決めていたりするかもだけど)でもいいの!!

 

あなたは「すでに今」自分を見捨ててはいないし

自分を「守って」るんだよ 過去も 今も これからも

 

じゃあさ

その「守り方」自体が苦しいのだから ほかの守り方に 変えようよ

なぜ 誰かを恨むのか その奥にある「自分の気持ち」って何なのか

なぜ 誰かにおびえるのか その影に潜んでる「自分の気持ち」って何なのか

なぜ ここまで 他者を あるいは自分を拒否し 否定するのか

その根底にある「ダメな感じ」はどこから来たのか

 

……勇気を出して 見つめてみようよ その「傷」を

鬱の人はもちろん 寝て食べて 休んで 脳みその状態が 少しマシになってからね

 

あなたは すでに自分を「守ってきた」し

これからも「守っていっていい」のだから

それは もうすでに 「自分には許されていた やっていたこと」なのだから

 

あたたかい 気持ちで 自分を見守れるようになるには

「傷」に向かい合う勇気も 必要なんだよ

あなたがすでに気づいている そのサインから見つけられる 奥のほうにあるもの……

 

その理想像はいつ 何から生まれて なぜ それが正しいと信じ込んでいるのか……

 

感じたことから さらにその「先」への道を 歩き始める

そしてそれはいつでも 「今 ここ」から始められる

 

過去の記憶に振り回されず 過去は過去として 未来も 決まっていないこととして

ただ「今 ここ」から あなたが 自分を新しく 見守り始めていいんだよ

自分で 今から 新しいやり方 つくっていこうよ……

 

素晴らしさや 完璧さなど まったく 一切 全然 本当に 関係ないの

新しい あなただから よちよち歩きから 始めていいの……

それをする価値が自分にあるのか? だってあなたは

自分をきちんと守れてきたじゃない

だから今 ここに あなたがいるのよ

あなたは 今すでに ここにいてくれているから それでもう 十分なの……

 

2014_09_26

他者嫌い 自分嫌い あなたが気づいている そのサインから

あなた自身の傷を 見つめられる日が来ることを信じ 応援しています

 

 

自分の価値、というその基準

今朝、起きて、コーヒーを飲みながらなんとなくPCを立ち上げ、

Facebookを見ていたら、こんな動画記事に出会いました。

日本のサラリーマンと米国のサラリーマンの、

月曜午前中の様子の違い……。

◎国民性出すぎ! 日本とアメリカの営業マンの電話対応を比較してみた

2014_09_13_1_douga

http://whats.be/19988

 

一部、強調しすぎてる面はあるだろうけど、

国民性というか、ゆるさの違いは確かにあるんだろうなー、と。

 

で、朝ご飯のパンを買いに行きつつ、今日は風が心地よいので

ちょっとご近所をぶらぶら散歩していたら、

先月、自分の内側で見つけたことをここでもご紹介した

「私が至らないから、皆に迷惑をかけていく」

という感情と、さっきの映像がふっとリンクし、

「うん、まあ、ゆるくても、いいっちゃあいいんだよな、至らなくてもさ。

 

……。

っていうか、あれ??

私、至らない云々って、そもそも自分が、

どんだけ『至れる』ようになろう、

なれると思ってる!?

と感じたのでした。

 

一見、謙虚であるようでいて、同時に自分のことを過信しているのかも。

それにね、そんな「至れるかどうか」に自分が心を砕ける状態ってことは、

そこへ集中できる環境に、自分が身をすでに置けている、ってことで。

 

その環境って、自然環境も含め、周囲の協力もあってこそ、成り立ってる。

天災や暴動などがあったら、それどころじゃないでしょう。

すでに現在、ある種の安定性が保てているからこそ、

そんな考えにもたどり着くわけであって。

 

そういう意味では必ず、それまでに周囲の助けをすでに借りてきたってことだし、

自分が『至ったわ』ということを、もし考えうるときがあるなら、それこそ、

その瞬間は環境や機会にもものすごく恵まれてるってことだ。

ってことは、そもそも生きてる限り、本当の意味で

私ひとり「だけ」の力で立派に実現できることなど

ありえない

という話だよ……。それを忘れたまま「至ったわ、私!」なんて思った日には、

もう超鼻高々、勘違いのおごり高ぶりもいいところだ。

 

そうだよ。人は、一生「至らない存在」で、でもそういうもの、なんだ。

何か、誰かと協力し合うという世界が、あるだけ。

人間関係のみならず、動植物も地球環境も、全部含めて、そう。

 

ときにはそれが、迷惑になることもあるけれど、それは常にお互いさま。

自分だっていつどうなるか、わからないのだ。

ならば自分が、自分のことを、少しはマシになったかな? と思えるように、

協力しあうだけでいい。

その気持ちを持てれば、実はもう、十分なんだ……。

 

逆に、競争にしがみついてさ、誰かと戦って競い合って、

人を蹴落として昇ると、どこかに後ろめたさも残るしね。

まあ、そうやって「清濁併せのむのが、大物の証だ!」

なんて思う人もいるだろうけれど、蹴落とした人って、

そのあと必ず、今度は誰かに蹴落とされる不安と一生、

戦い続けなきゃいけない。「落ちたらどうする?」って。

たとえ蹴落とさなくても、運だけに恵まれて上昇しちゃったらそうなる。

しかもその「おびえた疑問」を問い掛けてくるのは常に、

自分の心の中の自分だから、キツいね、それ。

 

そういう怯えを持ち続けるのをやりたければ

それは選択の自由なのだけれど、少なくとも私はご遠慮します。

 

とまあ、そういうことで。

ふだんから何かと、できなければならないのに、

こうであらねばいけないはずなのに、

自分の思うとおりに、願いどおりにしたいのに、なぜ、

とかいう方面のぎこちない思い込みに、これからもうっかり、

飲み込まれたり、束縛されることはあるだろうけれど。

私はそのたびに「そういうことを考えられる状態、というありがたさ」のほうへ、

早く気づいていけるようになろう、と思えた。

 

ま、結局は相変わらずまだまだ、

私って『井の中の蛙』でございますわ、というお話でした。

m(_ _)mスミマセン

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目標到達地点からの自己採点、という罠

私たちは毎日、人生、と呼ばれる時間を過ごしている。

そこで日々、いろいろなことをこなしながら、

あるときには理想や夢や目標を持ち、

その達成に向けての道を、テクテクと歩んでいったりもする。

 

Photo by (c)Tomo.Yun
http://www.yunphoto.net

夢や理想や目標を持つことは、日々の生活に張りを与えてくれる。

それがたとえ、ダイエット等の一般的なものであったとしても、

目標に向かって「やりたい何か」が日常生活に加わるのは、いいことだと思う。

 

が、しかし。

ひたすらの頑張り屋さん、成功好きさん、

あるいはもう、失敗して自信がなくなっている人、などに見られるのが

「できたできない」の採点に、自分が囚われてしまうこと。

反省程度ならまだしも、それを「自分の価値」にまで絡めて採点し始めると

目標に到達できない間はずっと、自身を卑下し、

イジメることへつなげてしまいかねない。

 

頭のなかでゴールシーンを描くのはいいのだ。それは楽しいから。

やった! と思えている自分を思い浮かべるのはうれしいだろう。

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でも、そもそも、そのゴールまでの道のりを、「見えているもの」として

計画を立てると、どうしてもその途中段階の想像も、シンプルになっていく。

ここでこうして、ああして、という計画は練るものの、

目線がゴールに向いているため、頭の中で描くのが、

目標一直線にがんばるぜ! みたいな道のりとなる。

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うん、こういうふうに想像できるとわかりやすいし美しいよね。

ゴールを見据えて、進む日々。

そのための精進、そのための努力。

 

でも、さっき言ったように、あなたの目線がゴールに向いているだけだと、

途中の成果を判断するときに、必ず「到達地点から逆に見た、

今の自分がいるところ」という視点になる。

上の図で言えば、あなたが今日の努力の結果を見るときには、

ゴール地点の看板のほうから、今の、手前の「自分の居場所」を見ることになるのだ。

 

そうしたら、遠いよね。看板の位置から逆に見た今の自分、豆粒以下だ。

到達までの自己を採点するとなると、たいていの人はこんなふうに

謙虚に自分を捉えるだろうから、そりゃあ「まだまだダメです」になる。

そして、場合によっては自分の「進まなさ加減」にイライラしたり、がっかりしたり、

こんなの無理だよ、と落ち込んだり、あきらめたりもしてしまうことになりうる。

 

あのね、そうなったときって、

あなたがゴール「だけ」を見つめ過ぎているのだと思う。

到達地点を夢見るのはステキなことだよ、でも、途中経過もすごく大事。

「何を」身につけながら、覚えながら進んでいくかは、未来のあなたに

また新たなきっかけをも、もたらすかもしれない。

 

なのにゴールだけ見て「達成まで自分と勝負!」なんてことしてたら、

途中の経験はあまり大切にせず、もしかしたらそのまま置き去りにすることになり、

まったく自分の身につかないことにもなりうる。

 

すごくもったいないと思わない? それ。

せっかく、そこだけが絶対というわけではない「毎日の生活」を過ごしているのに。

いったん、休止を余儀なくされている人なら、

まさに今、自分のために、休めて、何が心地よいかも探れる最中なのに。

それにね、本当はそんな美しく一直線に、

ゴールばかりも見つめていられないでしょう?

体調も変わるし、いろいろやることもある。

日々、何かが起こり、そのたびに、選択肢も変化していくのだから。

 

実際、私たちは、何かを選んだその先で、見知らぬところへたどり着き、

そのたびにまた「ひとつの機会」というドアを、毎回どんどん開けているのだ。

 

ドアの向こうは、開けてみるまでわからない。

もし行き止まりだったら、少し引き返すことになる。

引き返せなくて、予想外の細い道をそのまま進んでみることだってある。

本当は、私たちの日々って、大小の選択をしながら

「機会という、開けてみないとわからないドアの向こうに

行ってみる」ことの連続なのだ。

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これがあなたの本当の状態なのに、理想のゴール地点から逆方向に

自分の今の位置ばっかり確認しようとしたって、どうしても無理がある。

ドアの向こうにも、また新しい選択肢のドアが現れるのだから、

その予測や採点は、どこでどう変わるか、わからないのだ。

 

ここで以前にも一度、ご紹介したことのある

高田郁さんのある小説の一節を、再び引用してみる。

 

 勝ちたい一心で精進を重ねるのと、

 無心に精進を重ねた結果、勝ちを手に入れるのとでは、

 『精進』の意味が大分と違うように思いますねぇ。

 勝ちたいというのは、すなわち欲ですよ。

 欲を持つのは決して悪いことではないけれど、

 ひとを追い詰めて駄目にもします。

 勝ち負けは時の運。その運を決めるのは、たぶん、

 ひとではなく、神仏でしょう。

 神さま仏さまはよく見ておいでですよ。

 見返りを求めず、弛まず(たゆまず)、

 一心に精進を重ねることです。

(『みをつくし料理帖 今朝の春』 p240~241)

 

目標は、持っていていい。目指していい。

でもやるのは目の前のことをひとつ、からでいいのだ。

達成したい、自分に勝ちたい、にこだわると、

ときに自分を自分で追い詰め、痛めつけ、ダメにしてしまうかもしれない。

 

このドアをどれかひとつ、自分が選び、自分で開けるのだということ。

それは「機会」でありチャンスであるのだということ。

開けてみたあと、ドアの向こうに何があっても、そのさらに先にはきっと、

自分が目指すものが待っていると信じること。

 

実際、本当に手に入れたいものなら、どのドアを開けて

どの道を選んでいってもいつか、たどり着けるようになっているはず。

手に入れたい形そのままではなくても、何か、自分のタメになるものを得るのだ。

それはやってみる、開けてみるからこそ、わかること。

 

そして、同じやるならドアの開け方、道の選び方のほうに、注目してほしい。

その一つひとつを「精進」として捉えれば、

目的を達成し、ゴール地点にたどり着いたときには

「自分の内側の財産」をたくさん蓄えた状態になれるわけだから、

さらにその先で訪れることになる機会を、もっともっと、楽しめるんじゃない?

 

目標地点から逆算的に自分を評価する習慣がもし、あるのなら、

それによって今、自分をダメと捉え、傷つけているのなら。

 

その発想自体をやめて、代わりに意識を

「日々訪れる『機会』というドア」を、選んで開けていくことのほうへ

向けていってもらえたら、うれしいです。