今朝、起きて、コーヒーを飲みながらなんとなくPCを立ち上げ、
Facebookを見ていたら、こんな動画記事に出会いました。
日本のサラリーマンと米国のサラリーマンの、
月曜午前中の様子の違い……。
◎国民性出すぎ! 日本とアメリカの営業マンの電話対応を比較してみた
一部、強調しすぎてる面はあるだろうけど、
国民性というか、ゆるさの違いは確かにあるんだろうなー、と。
で、朝ご飯のパンを買いに行きつつ、今日は風が心地よいので
ちょっとご近所をぶらぶら散歩していたら、
先月、自分の内側で見つけたことをここでもご紹介した
「私が至らないから、皆に迷惑をかけていく」
という感情と、さっきの映像がふっとリンクし、
「うん、まあ、ゆるくても、いいっちゃあいいんだよな、至らなくてもさ。
……。
っていうか、あれ??
私、至らない云々って、そもそも自分が、
どんだけ『至れる』ようになろう、
なれると思ってる!?」
と感じたのでした。
一見、謙虚であるようでいて、同時に自分のことを過信しているのかも。
それにね、そんな「至れるかどうか」に自分が心を砕ける状態ってことは、
そこへ集中できる環境に、自分が身をすでに置けている、ってことで。
その環境って、自然環境も含め、周囲の協力もあってこそ、成り立ってる。
天災や暴動などがあったら、それどころじゃないでしょう。
すでに現在、ある種の安定性が保てているからこそ、
そんな考えにもたどり着くわけであって。
そういう意味では必ず、それまでに周囲の助けをすでに借りてきたってことだし、
自分が『至ったわ』ということを、もし考えうるときがあるなら、それこそ、
その瞬間は環境や機会にもものすごく恵まれてるってことだ。
ってことは、そもそも生きてる限り、本当の意味で
私ひとり「だけ」の力で立派に実現できることなど
ありえない
という話だよ……。それを忘れたまま「至ったわ、私!」なんて思った日には、
もう超鼻高々、勘違いのおごり高ぶりもいいところだ。
そうだよ。人は、一生「至らない存在」で、でもそういうもの、なんだ。
何か、誰かと協力し合うという世界が、あるだけ。
人間関係のみならず、動植物も地球環境も、全部含めて、そう。
ときにはそれが、迷惑になることもあるけれど、それは常にお互いさま。
自分だっていつどうなるか、わからないのだ。
ならば自分が、自分のことを、少しはマシになったかな? と思えるように、
協力しあうだけでいい。
その気持ちを持てれば、実はもう、十分なんだ……。
逆に、競争にしがみついてさ、誰かと戦って競い合って、
人を蹴落として昇ると、どこかに後ろめたさも残るしね。
まあ、そうやって「清濁併せのむのが、大物の証だ!」
なんて思う人もいるだろうけれど、蹴落とした人って、
そのあと必ず、今度は誰かに蹴落とされる不安と一生、
戦い続けなきゃいけない。「落ちたらどうする?」って。
たとえ蹴落とさなくても、運だけに恵まれて上昇しちゃったらそうなる。
しかもその「おびえた疑問」を問い掛けてくるのは常に、
自分の心の中の自分だから、キツいね、それ。
そういう怯えを持ち続けるのをやりたければ
それは選択の自由なのだけれど、少なくとも私はご遠慮します。
とまあ、そういうことで。
ふだんから何かと、できなければならないのに、
こうであらねばいけないはずなのに、
自分の思うとおりに、願いどおりにしたいのに、なぜ、
とかいう方面のぎこちない思い込みに、これからもうっかり、
飲み込まれたり、束縛されることはあるだろうけれど。
私はそのたびに「そういうことを考えられる状態、というありがたさ」のほうへ、
早く気づいていけるようになろう、と思えた。
ま、結局は相変わらずまだまだ、
私って『井の中の蛙』でございますわ、というお話でした。
m(_ _)mスミマセン