木元見春 のすべての投稿

ちょ……ちょっと!(笑)

すみません、自分の話で、しかもつぶやきレベルです。

 

先日、私は、自分の体験談を書いてみます、と言って

『マイナスの無限ループ』

という記事を、ここにアップしました。

 

その体験で私は、

「私が至らなくて、皆に迷惑をかけてもかけなくても、どちらでもいい」

という「新しい仕組み」の気持ちを、発見できたわけですが……。

 

今朝、心屋さんの記事で、

私のこの気づきを、まさに今、ご自分で「実践」されている方を発見。

それがあまりにドンピシャで、

そのご様子があまりに心地よさげ(笑)だったので、

ツボにはまって、笑い出してしまいました。

■100点満点で7点のオンナ(*’▽’) ありの~ままの~♪

 

も~神様(仏様?)ったら、よくぞこの記事に、めぐり合わせてくださいました!

どうせ7点「でいい」のよ私~(笑)

ダメな~ままの~姿~見せるのよ~♪(爆)

なるほど、了解です! :*:・( ̄∀ ̄)・:*:

神様せんきゅうぅぅっ!!(笑) ヽ(*^o^*)イェ~イ♪

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 Photo by 足成

 

 

 

何かをすると

自分が ある日 何かをすると

その結果 何かが起こる

何かが起こると それに対して

反対する人 賛成する人 などが現れる

 

自分がやった結果 起こったこと

それが 誰かの命を もて遊ぶようなものでなく

誰かの命に 関わるようなものでなく

あるいは誰かの人生を 狂わせ 狂気に陥れたり

誰かを二度と 元に戻せないような変化 でないのなら

 

それが 自分の身の回りに起こる 変化のうちであるのなら

 

私は 自分の起こしたこと それに伴う変化を受け入れ

自分が最初 やりたいと思った その気持ちをまず 大事にしよう

 

そして 起こった変化の その次に始まったことに対しては

自分がどう感じ どう思い どう考えるかを まず大切に眺め

それから 何かを言う人 賛成も 反対も その声を聞いて

それらを含めた場合 さらに自分が どう感じ どう考え

ゆえに どう行動すればすればいいかを あらためて捉える

 

他者の命や 人生を 自分勝手に狂わすことでない限り

私は 自分が感じたことを素直に 何よりも大切にしよう

 

他者の声は 私の「判断基準」ではないのだ

私が判断するのは 「自分の声に従って」のことなのだ

 

私は それを忘れないように しよう

誰かのため も 何かのため も

すべて そうすることを 自分が選んで 決めたのだ

誰かに責任をなすりつけるのではなく

誰かの賛成の声 反対の声に 怯えて従うのでもなく

私は 私の声に 従おう

 

私が 自分の道を 自分で最終判断し続ける

それが 私にとっては 私自身を大切にするために

いちばん 守っていきたい 守って 生きたいことだ

 

私の愛も 私の涙も 私の喜びも 哀しみも 怒りも 楽しみも

私が決め 選んだ結果 その次に 起こること

だから それらをすべて 私は引き受けよう

 

私は 私の覚悟にもとづき 私のために 自分で決めていく

これまでもきっと そうだったけれど これからも

いや これからは なおさら ずっと……

 

2014_09_02_torukokikyoh

 

 

経験と思いやりと

たとえば過去に ある出来事を自分が経験していて

その後 身近な人が それと似た経験をしたことを 知ったとする

 

そのとき 自分の過去を振り返って

ああ 似ているな と思うことはできるけれど

あなたの経験と その人の経験は 同じ ではない

共通する部分が「あるかもしれない」というだけの話だ

 

相手の気持ちや感情が わかるようでいて その 「わかる」と思える部分が

厳密には違うのだということを 私は いつも肝に銘じるようにしている

 

あるいは

自分の気持ちを 相手にわかってもらえないとき

「あなたには こんな経験がないから わからない」というふうに

相手を非難することが もしかしたら あるかと思う

 

でも たとえ似た経験をしていたって 厳密には「違う」のだから

あなたの 今の感情そのままを すべて 完璧 100%

相手が把握し 理解できることは ありえないし

経験を積んでいるほうが「上」だとか

「わかっている」「知っている」ということでもない

 

言い換えれば あなただって その経験を

ある状況 ある環境 あるタイミングにおいて

一度か あるいは 数回 経験しただけなのだから

それが「すべて あるいは よく知っている」ことには

厳密な意味において ならないのだ

 

でも ありがたいことに

私たちには 想像力があり

私たちには 共感 という力もある

たとえ似た経験は していなくても

相手の気持ちに寄り添い 苦しいのですね と受け止め

心情的に そばにいてあげることは できるのだ

 

だからこそ 人は 他者に話すことで

力を 救いを もらえたりもするのだ

 

そうしてあげたい と思うなら

また 自分が苦しいときには いずれ 力を借りたいのなら

まず先に 「自分から」 開こう

相手へ思いやりを示し

受け止めてあげる 小さなことでいいから

 

風邪を引いたみたいで のどが痛い と聞けば

そうか のどが痛いのは つらいですね と

まず 受け止めてあげていいのだ

そこでいきなり「私は『○○のど飴』で治しましたよ あのときはね……」

というふうに 自分の話に切り替えたりせず

まず 相手の話す言葉を 聞こう

 

この「先にまず いったん受け止める」というやり方は

先日もお伝えした 渡辺和子さんの本の続編『面倒だから、しよう』や

岸見一郎さんの『困ったときのアドラー心理学』にも載っていて

心理学的にも 説話的にも 大切だと語られているポイントだ

 

そして 相手が 何かよい方法がないかを探していると もし言えば

そのとき初めて のど飴の話をすればよいのだと思える

意識しないと なかなか難しいかもしれないけれど

それが「思いやり」を さらに深い「思いはからい」へと進めるやり方だと

私には 思えるのだ

 

もっと小さな たとえで言えば

街で見かけた 困っている人に 手を差し伸べるとき

それは「親切」という別名もある 思いやりとなる

でもその際 どうしてほしいのかを その人に確認しなければ

その親切が「無駄」になることもある

スクランブル交差点で 相手が右へ渡りたいのに

うっかり正面に渡ってしまったら  二度手間だよね?

 

もちろんそんな状況は 街で見かけた人に対しては

普通は起こらないだろう だってこちらが「どうしたいか」自然に尋ねられるから

 

でも それが 身近な人であったら どうだろう?

きっとこうに違いないと決め 押しつけたりは していないだろうか?

さらには こうしたら喜んでくれて もっと私のこと こうしてくれるに違いない と

取引の材料に ときには使ってしまっていないだろうか?

 

自分にだって 自身の気持ちがわからないこともあるのだから

相手の気持ちや感情や考えは やっぱり確認したほうがいいよね

相手が望むことを してあげたとき

それは「思いやり」を「思いはからい」へと 進めることにもなるのだから

 

たまたま最近見た ネットのニュースで

「自分の社会的権利」の正しさを主張し

それを『認めてほしい』があまりに

他者の欠点を さらし出し おとしめるようなやり方をしている人を 見かけた

せっかくその「主張」が 社会的検討に値するにも関わらず

そこに現れていたのは「自分勝手で傲慢な 子ども」のような人の姿

 

残念だよね その人は本気で 相手を思いやることを拒否し

自分の権利のみを 主張していて

思いやりなんて示すと 他者はつけ上げる一方だというようなことさえ言って

私たちは正しいと 言い張っていたのだから

 

どんなに 主張に「ある種の正しさ」が含まれていたところで

その証明のために 他者の弱い部分をあえて いたぶり さらしている段階で

情報を知る側には 生理的な嫌悪感が生まれて

たとえその主張の「内容」はいつか通っても

「その人自身」はきっと いつまで経っても 認めてもらえないだろうと思える

 

思いやりを与えれば与えるほど 相手は増長するに違いないから

こっちは損をするだけだ という主張の仕方は

悲壮ささえ 感じさせてしまうのだ

 

絶対に 還ってくることが決まっているのなら

まあ 自分が先に 思いやりを示して「あげてもいい」よ だなんて

それは思いやりでなく 上から目線の ずるい取引 だよね……

 

還ってこないことも 確かにある

せっかく思いはからいにまで 進めても

相手が「ありがとう」を返さないときだって 確かにあるのだ

 

でも 「それができた自分」については 何も後ろめたさを感じないで済むし

もし還ってきたら そのときは 心がホッコリするよね

 

だから 自分がスッキリするために  「先に」思いやりを示し

さらには ときに 心が温かくもなれたほうが

結果的には より 心地いいと思えるんだ

その際には 最初に言ったような 「経験からの勝手な想像や決めつけ」でなく

相手を「まずいったん受け止めてあげる」余裕も ぜひ 意識して……

 

目の前のひとりに しかも 小さなことでいい

あなただからこそ できる 優しい示し方が きっとあるはずだから

互いの気持ちが循環し合う ホッコリな心地を

たくさん味わえる人生であってほしいと 願う

 

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