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開き直る、という感覚

これはとくに、がんばってきた人、

あるいは「他人が怖い」人に向けての話……だけれど。

 

この2つはぜんぜん、違うものであるようでいて、でも実は、

その根っこには同じ部分があるのかも……と思えている。

何が同じかというと「自分を何かしらの方向で、良く見せたい」という願望の部分で。

 

もちろん、あなたにはもともと「良い部分」がある。

今の段階では、それを「信じられない」人もいるかもしれないけれど

もし万が一、100%悪人、っていう人がいるとすれば、

そもそも「がんばろう」とか「他者の目が」なんてこと、

気にしない……と思えるのだ。

だってたぶんそういう人って、本気で自分の都合しか考えないから。

 

他者を気にする、ということや、自分を自分でなんとかしよう、と思えること。

それは「他者のこと」をちゃんと意識し、考えられる人、ってことなんだと、

私には感じられるのだ。

 

で、こうした人たちに共通するのは

先ほども言ったように「良く見せたい」(良くなりたい)という願望、かな、と思う。

でもそれって行き過ぎると「見栄」につながる。

この「見栄」が、扱いを間違えると「自分に嘘をつく」ことになる……。

過去の自分を振り返ってみたときの経験もふまえ、そう思えるのだ。

 

強がり、意地っ張り、その反動としての「後から湧く」自己嫌悪。

見栄を重視し過ぎて、本当に自分が望んでいること、を超えて、

自分に無理をさせたり、自分を「ごまかしたり」する。

それはやがて「望んでもいない自分」を演じようとすることにつながる。

なぜなら、それをはるかに超えても気づけなかったり、

逆に「できない」と決めつけて怯えさせたりするから……。

 

ゆえにそれが、やがては「自分に嘘をつく」ことへつながる。

「望んでないもん!」って意地をはって「求めるものを見ないように」したり、

「もっともっともっと、きちんとできないと!」って、

すでにできてる部分まで「自分で見えなく」したりする。

 

今、現在、できていようと、できていなかろうと。

そもそも、そこまで完璧に、できなくていいのよ。

「いい加減」は「良い加減」でもあって、

できなさ過ぎるのも、でき過ぎるのも「度を越している」ことになる。

 

その「見栄」、そこまで必要じゃない。

必要だと「思い込んで決めつけている」のは「今の」あなた自身であって、

そう決めつけていることが「今」、まさにあなたを苦しくする。

 

実はそれ、ちょっとでいいの。少しずつでいいの。

やらないより、やったほうがマシ。そんな程度。

もう一度繰り返すよ、過ぎたるは及ばざるがごとし、なのだから、

やらなさすぎも、やりすぎも、「度を外れている」って意味では同じ。

だから、やりすぎる人がやってない(怖くてできない)人を

見下したりバカにするのも、実は違うし、

やってない人が「『やってる人』ってきっと、私をバカにしているに違いない」って

勝手に決めつけ、すねるのも、ある意味、失礼だよね。

少なくともその相手は「すでに実際、チャレンジをがんばっている人」なんだし、

そこですねたら、まるで逆恨みしているようにも、見えてしまうかもしれない。

 

ねえ、まずは、自分に「嘘」をついたり「ごまかし」をすること自体、やめようよ。

求めるのはいいことだよ、それ自体は全然、否定しないでいい。

でも、「自分で自分を『素晴らしい!』と自画自賛できるところまで」

求めすぎると、動けない、あるいは動きすぎることになる。

 

そんな自画自賛って、もしかしたらただの「自己満足」にすぎないのかも。

そっちを求めることによって逆に、

他者の心を「思いはかる」視点、消えちゃうのかも。

もったいないよね、そもそも今すでに、持っているのに。

 

怯えも、やり過ぎも、「見栄っぱり」すぎる自分がいるから。

失敗したっていいのよ。っていうか普通はみんな、

「失敗しながら」練習してる。

練習しないと上達しない部分は、確かにあるからね。

当然そこでは「失敗」(と自分が感じること)だって起こる。

 

必要なのは「何度、失敗してもいいから、いつか望む方向へ行こう」という

自分の思いを大切にできること、なんだと思う。

それを「開き直り」と呼んでもいいのだと。

ふてぶてしく、態度をわざと悪くするような「開き直り」ではなく

「いずれ、できるようになりたいから」の、静かな、ひそやかな決意の開き直り。

 

それは決して「厚かましさ」にもならないよ。

「練習の積み重ね」の原動力、につながるものなのだと思える。

 

だから、あきらめないで、よい意味で

「開き直って」ほしいと思う。

練習って「こうやったら、なるほど、うまくいく、あるいはいかないんだな」っていう

「方向性の確認」なのだから。

それって失敗、というより、

エジソンの言うように、1万回でも、方向性を確認してみて

「うまくいかない」部分と「うまくいく」部分を少しずつ、自分で体得すること。

だからこその「練習」なんだって、ことだと思う。

 

「自分が望む」段階ですでに、その能力はあなたの中に「ある」のだから、

あとは「自分が心地よい範囲で、上手に、バランスよく表現できる」方法を、

練習、するだけだよ。

 

ぜひ、あきらめないで、開き直りつつ、やってみてください。

いっときバカにされたように感じようが何しようが、そんなのどうでもいい。

あなたの求めるものは「その先」に必ず待っている。

練習して体得した先に「感じられるもの」は、きっと

とても素敵なあなたの「開花」になると、私には思えるから。

 

  よい開き直りで、順番に、「本当の花」を咲かせていこう。少しずつ。

 

 

今、何もできないからこそ、次がある。だから

できないときは、できないという状態を、しっかり、

感じていてください。ただ、それでいいのです。

その経験が、あなたを次の世界へと導きます。

 

渡辺和子さんの本を読みました。

タイトルを見て最初は「我慢が美徳」という内容なのかと思いましたが、

苦しみのなかにあってもまず、

自分が「自らをそこで咲かせてみる」ことが、

「自分のための『次』」へとつながっていく、というお話でした。

 

自身にも、他者にも、勇気を持って愛で、接するということ。

自分が、自分を、咲かせるということ。

文句をつけ、怯え、心配し、自分の未来を限定したり減らすような生き方でなく、

確かに、自分が咲く生き方を、自分で選んでいっていいのです。

 

できないときは、できないまま、そこで少し、待ちながらでいい。

理想を、以前のように巨大なサイズで「持ちすぎる」必要が、そもそもない。

できる範囲で、どんなに小さくてもいい、「自分から」咲く。

 

もちろんそこには、「選ぶ」勇気と「結果を引き受ける」責任は生じます。

でも、何もしないまま、自分に失望し続けることを

「選択しなければいけない」理由など、

本当に何もないのだと思えます。

 

暗闇を経て、初めてわかることがある。

そしてその後、薄明かりに移動してみて、またさらに初めて、

そこから先の新しい「世界」が見えていきます。

 

二・二六事件のとき、自分の1m先の目の前で、

父親が30人の敵に囲まれ、銃弾に倒れるのを目の当たりにし、

修道院に入り、たぶん、途中で結婚より修道を選ばれ、

若くして責任の重い仕事に就き、鬱による入院を経験され、

死をも考え、膠原病の治療による脊髄圧迫も経験された女性……。

 

その方の言葉は、キリスト教の用語を使われてはいるものの、

カトリックのシスター、という視点を超えたもの。

まさに苦しかったからこそ、会得されたものであると、

私には思えました。

 

なぜわからないの? と言って相手を攻撃したり、

言うことを聞かない人を殴るのでなく、

また、自分をむやみにそこで押し殺したりせず、

まずありのままに、自分から咲く。

 

すぐには受け取ってもらえなくても、陰徳を積むことのほうを選ぶ。

 

それによって「自分が」穏やかにいられるのです。

わかってくれない、と、押し付けたり、心で泣き叫ぶ必要はないのです……。

その相手がたとえ、自分の子どもであっても。

 

別に「暴力」については書かれていませんが、

なぜかそんなことを思わされた本でした。

他者へ「痛みを与える」ことは、結局、自分を傷つけるだけなのだと。

その反対に、見返り(効果)を期待せずに「愛を与える」ことは、

自分を「結果的に」、穏やかで豊かな気持ちにしてくれるのだと。

 

何もできないときにこそ、読んでほしい本です。

まさに、そこからでいいのだ、そこにいること「こそ」が、

この先、自分にとっての深い意味を、持たせられる。

それを感じられる本だと思います。

 

連続での書籍紹介を、こちらのメインブログで展開するのは

初めてですが、「自分の命」「自分の生き方の姿勢」について

説得力があったので、伝えたくなりました。ご理解ください。

 

Amazonリンク張っておきます。アフィリなしです( ̄∀ ̄)

2014_08_23_watanabe_okaretabasyo

『置かれた場所で 咲きなさい』
渡辺和子 著  幻冬舎 刊 ¥1,028

 

自由でいい、代わりに自分の選択に自分が責任を持つ、という話

えー、ただいま私、読書中の本がいくつかあるのですが

(最近は数冊を併読することが多いです)、そのなかから

うむ、そうかも、と思えた話を、引っ張り出してみます。

説明を加えたいので、こちらのメインブログで本の話です。

今回は再び、アドラーさん……岸見一郎氏の

『アドラー心理学入門-よりよい人間関係のために』

(ベスト新書 ¥700)。この本、とくに4章と5章がいいです。

http://www.amazon.co.jp/dp/4584103127

 

その前に、ひとつ、例え話。

ある人の指摘と、指摘された側がそれをどう感じたか、について。

 

Aさんは、Gさんのことを、ふだんから「意見がある一定方向、

Z方面に偏りがち」だと思っていました。

そしてAさんは、その「Z方向」の考えや意見そのものに、

そもそも、疑問も感じていました。

 

で、ある日のこと。Gさんが発したある「言葉」に反応し、Aさんは

「それってやっぱり、Z方向のことを指していて、それを念頭に

ものごとを考えて発言しているのであろう。そのZ方向って、おかしいのに」

という趣旨の指摘をしました。

 

ところがGさんは「その『言葉自体』は、これまで私以外の人も使ってきたのに

なぜ私だけがそんなふうに責められなければいけないのか。

過去のことを調べてもいない、ただの勉強不足だ」と言い返したのです。

 

意味、わかりますか?

「Gさんは、いつもZ方向の視野、意見に偏っている」と、

Aさんからそもそも、思われていたからこそ、

「Gさんが『その言葉』を使った」ときに、Aさんから指摘されたわけです。

 

でも、Gさんは「他人も使ってきたのに」と言い、ある意味Aさんをバカにしました。

自分だから「こそ」そう言われたのだ、ということを、

Gさんは、前提として理解できておらず、趣旨の違う受け止め方をしている。

しかも、相手を「勉強不足」と言って揶揄している。

 

こういう食い違い、ズレ、って、なんだか悲しいな、と思いませんか。

そしてGさんって視野が狭いな、Aさんももっとわかりやすく、

Gさんに指摘すればよかったのに……などと、感じないでしょうか。

 

……これが誰と誰の話かというのは、せつな過ぎるので秘密にします(笑)

私もAさんのように感じているので、Aさんの指摘話とGさんの反論を読んだとき

えええええ!?

Gさん、わざわざAさんを名指ししてツッコミ入れるのがそこなの!?

かつその反論の仕方(手法)がもう、すでに幼いよ!?

(ついでに発言した「方法」にも驚いた)

Gさんって本当に視野も受け止め方も、狭いんだなあ、と思えました。

 

たまたま真夜中にこの情報(Gさんの反論)が載り、

そのときすぐ読んじゃったので、

よけいにせつなかったぁ……。夜中に発言するのがこれかよ、と。

 

しかも私は、Gさんのこと「本当は怖がりで自分のこと嫌ってて、

だからほめてほしい……って部分を実はかなり、持っている人なのでは」

と以前から思っていて、諸状況から見て今回もそれが現れたように思え、

自分のこの予想がやはり当たっているのかも、と再び感じ……。

ホント、ヒッジョーに(と、カタカナであえて強調したい)

残念な話でございました(ノ_・。)

 

2014_08_14_panda

 ……さて、閑話休題、これはカレンダーの写真(に花を加えてみた)。

この子パンダくん。

悲しそう? ナルシストでウットリしてそう? 何も考えていなさそう?

それとも、のどが渇いていそう?

たぶん、今の自分の気分によっても、受け止め方、違うよね、これ。

まさに「主観」、「今の視野」によって見方がもう変わる、ってわけなのです。

 

ま、そんなふうに、自分や相手の「タイミング」などもあるので、

自分の意図は、相手にまともに、すんなり届くとは限りません。

っていうか、まともに届くことのほうが「まれ」であろう、

人と人は、簡単にはわかりあえないから「こそ」、

伝える努力も工夫も必要なんだよ、っていうのが、アドラーさんの前提です。

 

とはいえ決して悲観論ではなく、「では、どうすればズレずに届くのか」

そのポイントや、そもそも伝えるべきことは何なのか、生き方まで含んだ指針、

「自分は自由に『自分のタメになること』を選んでいい」

「その代わり、責任を引き受ける必要がある」

「自分が自由に選んでいいってことは、相手もまた自由でいいってこと、

そこを忘れないように」という話を、説いておられるようです。

あ、「おられるよう」とわざわざ言うのは、

アドラーさんご本人の著書がほとんどなく、

岸見さんの理解をもとにしているので、このように表現しています。

 

アドラーさんにも一部、偏ってる部分は、やはりあると思えます。

厳しすぎる、という声があるのもわかります。

でもその一方で「共感」(「同情」ではないところに注目!)も大切にされていて

バランス感覚を保とうとする意識は、それなりに優れておられただろうな、と。

 

で。論より証拠。上記の岸見さんの本から、

強烈で、でもステキで、その通り、と思えた言葉、抜粋していきましょう。

ページは順不同になりますが、なるべく分かりやすくなるように並べてみます。

 

「他の人からどう思われているかを気にすると、非常に不自由な生き方を強いられることになります。絶えず人に合わせていかなければならないからです。
 もちろん、人のことをまったく考えなくていいというのではありませんが、人にどう思われるかをいつも気にかけ、嫌われることなく好かれたいということばかり考えて生きていくと、結果としてたしかに皆に気に入られるようになるかもしれませんが、あらゆる人に対して八方美人を演じるのでそのために人生の方向が定まらず、やがて不信感を持たれてしまうことになります。」(※1)

 

「私たちのことをよく思わない人がいるということは、私たちが自由に生きているということ、自分の生き方を貫いているということ、また、自分の方針に従って生きているということの証拠ですし、自由に生きるために支払わなければならない代償であると考えていいのです。」(※2)

 

「アドラーは人生には避けて通ることのできない課題がある、といいます。仕事の課題、交友の課題、愛の課題です。人生の課題に向かうには努力も忍耐もいります。ところが、それらの課題を解決する能力がない、と考えて、人生の課題から逃れようとすることがあります。
(中略)
 劣等コンプレックスは、心の中で起こっている現象ではなくて、このようにむしろ対人関係のコミュニケーションのパターンに他ならず、人生の課題を回避するための口実を持ち出すことです。持ち出される口実は、まわりのものが思わず、しかたがない、そういう理由があるのなら、と思うようなものであることが多いのです。もちろん、そういうときに他の人のみならず、自分をも欺いているのであり、アドラーは、このような口実を「人生の嘘」と呼んでいます。」(※3)

 

「例えば人が遺伝を持ち出して自分の能力には限界があるというようなことをいうとした場合、すでにそのような遺伝を持ち出すというそのことが、人生の課題から逃れようとしている兆候であると見ることができます。
(中略)
そうすることの目的は、自分の行動の責任を他のものに転嫁することです。遺伝や親の育て方、環境等々を自分が今こんなふうになっていることの原因に見せかけるわけです。」(※4)

 

「課題の達成が困難なときにそこから逃げ出すライフスタイルをアドラーは「すべてか無か」という言葉で説明します(『子どもの教育』121、134頁)。成功することが確信できなければ最初から挑戦しようともしないのです。」(※5)

(※1)p150
(※2)p151
(※3)p134-135
(※4)p138-139
(※5)p153の注釈文

 

……ね、以上、抜粋した部分だけ読んでも、なるほど、な感じでしょう?

ではそれをどう上手に、逃げずに、やっていくか。本では、

「失敗を恐れない」「私は他の人の期待を満たすために生きているのではない」

「今したいことをしているか」「責任について」

「自立について」「言葉を重視する」「わからないと思って付き合う」

などの項目で、具体的に目指すものの事例や視点が紹介されています。

これらを抜粋し始めるとものすごい量になるので、

それはさすがにやめておきますが(^^;)

とくに「悲観主義でもない、楽天主義でもない」方向での、

ものの見方、捉え方、行動の仕方、

それを説明する「楽観主義」については、一読の価値があると思います。

 

行動する勇気、は必要。そして、本当に、自分が行動して「いい」のだと。

どんなにダメでもどんなに失敗しても、

それを「悪」「原因」「できない理由」とみなさなくていいし、

「自分にとってよいほう」を自分が選択していい。

 

その「行動する際の基準」をつかんでいくときに、

自分があくまで「共同体」のなかにいるんだということを実感し、

でも縛られず、お互いに「助けを乞うことができる」という視点を持つ。

その「練習課題」として、人には、仕事や、

交友(親などの身内も含む)や愛がある、というわけです。

 

状況を操るために人を使うな、また、操るために自分をも使うな、

その「操る」(制御・コントロールしようとする)発想自体、やめていける練習を。

そうすれば、先に書いたような悲しいズレ、という感覚も、

やがて自分にとっては「より少なく」済んでいく……ということ。

 

そうです、先のようなことを感じたとしても、

私が自分で「悲しい」という感覚をちゃんと捉え、感じて、

味わってから(意識を流さずに捉えることは大切)、

あとはトットと終わらせてよく、

「では、自分は、自分だったら(この先)どうするか」

の視点へ変えていく練習をすればいいのです。

しかもそのとき「なぜ自分はそうしようと思えるのか」も、自分で確認する。

なぜ、という点を自分できちんと納得(安心)できれば、

「こうしよう」と思う方向に対する自信も覚悟も、自分でまた、持てるわけです。

 

そんなふうに、他者を学びの「元」にする。

何をどうするかを、自分が「選んで」自分で「伝える」から、

その結果をまた、自分が「引き受けられるようになっていく」。

実際の、相手の視野の狭さ、その悲しさは、相手の問題で、

まず最初にあるべき視点って、「自分にとっては?」なんだよね。

 

もちろん、簡単ではないけれど、練習は可能なのです。

アドラーさんのアドバイスでは、真剣さは必要だけれど、

深刻さはいらない。楽観的、になって行動すればよい、と。

練習して「自分が」、自分こそがまず、幸せになりましょう。

そうなっていいのだと、私には思えています。

 

あ、最後に、アドラーさんは「社会・教育」の視点の方なので、

子育てのヒントも、いろいろ載ってますよ♪ そこでもまた、

「自分」をまず捉える必要があることが、この本で説明されています。

私はこのあと『困ったときのアドラー心理学』も読みます。

そして先日のバイロン・ケイティさんへ……本はまだまだ溜まっております(笑)