木元見春 のすべての投稿

今は 絶望を 引きずっていても

よかったら、読んでみてください。

下のリンクの記事を。

そしてできれば、ここで紹介されている

双雲さんの書籍も。

私もこの本を読みました。

そして心がほっこりしました。

●武田双雲 書の力

「涙が止まらない、一本の電話。」

http://ameblo.jp/souun/entry-11772341523.html

あなたが今までに、あるいはこの先、

やってみようと思えた「善意からの何か」も、

いつかどこかで

誰かの役に立つかもしれない。

こんなふうに、

あなたの知らない間に、

あなたが思わなかった形で。

だから、お願いします。

まだ、どうか今は、あきらめないで。

異質性の排除

まずは最近、たまたま連続で聞いた、子育て関係の話から。

あるキッズダンスのチームがあって。

専門の先生に習いながら、みんなと一緒に踊る練習をしていた、

一人の女の子のお母さんが、

衣装も振り付けも決まって、さあ、これから踊りこみ! というときに

自分の娘がそのダンスで目立たないことを、どうやら不満に思ったらしい。

お金を払って習わせてるのに、と思ったのだろう、

そのお母さんは、ある夜、先生のところへ電話して

「振り付けのあの部分、格好悪いので、こう変えましたから。

それから、○○ちゃんは外して、ウチの子をこの位置にしてください」

という要望を伝えてきたそうだ。

気に入らない他の子は外して、かつ、振り付けも

気に入らない部分は自分の好みにして(昔、なんらかのダンスを

ご自分もやっておられたのでしょうかね?)、

自分の娘が一番目立つように工夫しなきゃ。

お金を払ってるのはこっちなんだから!

……というお考えなのであろう、このモンスター母ちゃんは、

チームでダンスを踊る、ということをまったく理解していない、

と言える。

その子も、他の子と踊りを揃えることの大切な意味を理解するのは、

もしかしたら、なかなか難しくなってしまうだろうと。

アイドル歌手のダンスみたいに、周りにおだてられつつ

センターで踊りたいなら、

配置や振り付けの際に、実力も考慮されるダンスチームのレッスンでなく、

発表会で、大人が協力したりしてセンターで踊らせてくれる

個人レッスンみたいなものを選んだほうがよいと、素直に思える。

また、ある学校でいじめがあったときのこと。

いじめに「無理やり参加させられていた」らしい、

ある男の子のお母さんが、参加を強要した首謀者の「いじめっ子」を

別のクラスに変えてほしい、と訴えたそうだ。

私立なんだから、それくらいできるでしょ、と。

そもそもうちの子は、巻き込まれた被害者である、と。

いじめられた子の、いじめを受けてきた間の気持ちも、

いじめを始めて「しまった」子の、たぶん背景にある苦しみも、

完全に「ウチの子とは関係ない」らしい。

友達、という関係性は、なかったことにできるらしい。

……異質なものを排除さえすれば、よい?

そうすれば子どもは、立派でよい子で素晴らしい子に育つのかしら。

自分の思いとは違う、異質なものに遭遇したとき、

その子が何を感じ、どうその問題をクリアしていくか。

それを一緒に考えてあげる、あるいは信じて見守ってあげるほうが

よほどその子のために、その子の力になるんじゃないだろうか?

でね、これは誰にでも起こりうることだな、と私には思えたのだ。

自分は、他者に対して理想を押し付けすぎてないだろうか?

さらには「自分に対して」、理想を押し付け続けてないだろうか?

なぜそうしたいのか、なぜそう考えるのか。

そこが自分の予想、希望、理想と違ったときに、

拒否しすぎていないだろうか?

あなたが自分の考えを真っ向から完全拒否はされたくないように、

相手も自分の考えをそんなふうには否定されたくないのでは?

さらにあなたも、自分をそんなふうに、否定したくないのでは?

自分に対して、わざわざ真っ向から否定するから、

かえってうまくいかなくなっているのではないだろうか?

自分の考え、性格、たとえば臆病さ、さえも、

「絶対にあってはならない」ものではない。

短所は長所につながる面が、ほとんどの場合、あるから。

それに他者が、時間が経つことで変わることがあるように、

今は自分だって、変わっていく最中なのでは?

それは、ある意味「多様性」を認めるということなのだと思う。

理想・希望以外の他人、理想以外の自分。

人は変化「できる」から、みな、今はその過程なのだと。

今は、あなたはそう考えるのね。

今はまだ私、そう考えちゃうのね。

うん、それでいいのでは?

そういうふうに「ゆるめる」ことは、そんなにいけないこと、だろうか?

たとえばね。

三鷹市のストーカー事件の記事で、ある大学教授が

ストーカーに特有の「殺害してしまえば、相手が

他の人と付き合わないから安心」という心理を説明していた。

さすがにここまでの極端さに至ってしまうと、

こういう人を自分の身の回りから「排除したい」と思うのも当然だけれど。

そもそもこういう人がなぜ、こんな考えを持つに至ったかというと

「自分だったらどう感じるか」の想像力が、抜けてしまっているからだ。

その練習が足りていないから、

「自分がそれをした場合」「自分がそれをされた場合」の

どちらかの想像力が、抜けてしまう。

そして。

あえて言うなら、先の例に挙げたお母さんたちもまた、

ストーカーとさすがに同列に並べるつもりはないが、

別の面においては、決して、その練習が「足りている」とは

言えないのではないだろうか。

いろいろな感じ方があり、それはその人の自由であっていいのだ、

と思うことは、同時に、自分の考え方も自由であっていい、

「こうあらねばならない」という、ガチガチのその枠を外していいと、

知ることにもつながらないだろうか。

他者にせよ、自分にせよ、まず多様性があってよいと知ること、

次に知るだけでなく、なるべく、どう折り合いをつけられるか、

日常面で実行してみる練習が、必要なのだろうと。

そうでないと「絶対」を、そう思っていない他者に、

もしかして自分にも、押し付けてしまうから。

そうすると、対話ができなくなってしまうから。

そして、違いを知ること、どう折り合うかを実践すること、

この練習って実は、人が生きていくうえで、

みんなそれぞれ、お迎えが来るまで、どこかで

練習していくものなのかもしれない、とも、思えるのだ。

だから私は、とくに人間関係や自己への否定感情で今、

苦しんでいる人に、こう伝えたい。

決して あなただけが 下手なんじゃないよ

みんな どこか何かが きっと下手で

それぞれ自分の元にやってきた課題のなかで 何らかの形で

ずっと 練習していく種類のものなんだよ

と……。

厳しい、あるいは身勝手な意見だと感じられたらごめんなさい。

私も、ストーカー個人に対してまで、容認するつもりはないです。

ただ、それをどう改善できるようにしていけるかは、考えてみたい。

社会や教育の問題も含んでいると思えるから。

キレイごとでなく、自分が体験したから、こんな体験をする人を

減らしていくにはどうしたらいいのか、考えたいのです。

誰かの命にかかわるようなことを除き、

自分との違いを知る、あるいは自分に対しても

ありのままを認め、肯定も否定もしないということは、

ある程度、練習したほうがいいと思えます。

多様性を、あまりにもムゲには、否定したくないと。

そんなことない! それではダメだ! と、

もし怒りを感じる方がおられたら、どうぞおゆるしください。

私には今はまだ、そう思える、ということで、

今のところはご容赦いただければ幸いです。

怒り 悲しみを 逃がすという意識

ネガティブな感情を 自分が感じるのは

人として 当たり前

それを嫌がったり憎んだり 自分で自分に注目させると

増幅する一方なので さらに自分を疲れさせる

いずれは それを見つめて きれいに手放してほしいと願うけれど

すぐに捉え方を変えることが できない場合もあると思う

だからそのときは まずいったん 離れるほうを選ぶ

自分自身に 無駄に注目させないよう 感情自体を逃がしてしまうのだ

逃がす と 決める そちらを自分で選ぶ ということ

そうした感情が自分のなかに起こった うん それを感じた 以上

起こったら うん 感じた 以上

ただ それで済ませ 感情をまず放す

さらにそのとき 感情に伴って思い出す

腹立たしい あるいは悲しい感情が起こった場面の記憶も

「あえて」切る 長々と とか 繰り返してまで 思い出さない

思い出したところで 今すぐに それは変わらないから

いずれね やがて 客観視できる状況となり

その怒りや悲しみ以外の感情とともに

起こったことを見つめられる日も来る

そのときは 今のように 生々しい感情から離れ

切なさや 苦笑など 別の気持ちとともに見つめられるようになるから

今はただ

自分が 怒っている

自分が 悲しんでいる

そのこと自体を やめる練習を してもらえたらと思う

私はこの練習を始めたとき

まさに試されるかのように

「怒ったところで絶対に 意図が通じない相手」から

気持ちが瞬間沸騰するようなことを 言われたことがある

仕事の場面で もう ダメだこの人 とあきらめていて

自分が 害を受けずに仕事することに集中しようと決め

この相手には感情的になるだけ無駄だと思って

そういう練習をしていた そのまっ最中だったのだ

怒って それを相手の前で見せないよう抑えようとしたら

生まれて初めて 頭皮の毛穴全体が一瞬で ブワッと開いて

そのこと自体に 自分で驚いた

まさに頭から湯気出てるかも

「怒髪天を衝く」ってこれか! と知った

で その人の前を離れたあと 別の場所に移って

ああ この怒りって 私のなかでは間違ってないけど

あの人に対してはこの気持ち 届かなくて無駄なんだな

と 自分でしみじみしたら

スーッと 身体から 何かが抜けていったのだ

たぶん「起こる」「感じる」「逃がす」ということを

あれほど体感できたのは あの日が初めてで

あそこまで感じられるようなことは

その日以来 起こってないけれど 

あのときは あえて練習させられたかも とさえ思えて 本当に驚いた

たぶん涙もね 同じように 逃がすための道具になると思う

自分のなかで その感情を繰り返し 長引かせるほど

自分でその感情自体を 奥へ奥へインプットして

自分を痛めつけることになりうるから

涙などの何かに変えるか

その瞬間はいったん 割り切ることを優先するか

いずれにせよ 痛いまま抱きしめ 自分をギリギリ締め付け

悲劇の主人公であり続けることは やめたほうがいいと思える

それをやると 体調などにも 影響を及ぼすし

肌も痛むし 眠れなくて 次の日以降もよけいに

自分を落ち込ませるだけだから

感じるのは当たり前 別に感じてもいいのだ

どうしたって何度でも 湧いてくる場合だってある

そのこと自体は 本当に 責めなくていい

ただ わざわざ自分で 悪化させる練習を重ねず

逃がす練習のほうに 意識を向けてほしい

感情に呑まれているときはどうせ

考えてもよい思い付きは生まれないのだ

わざわざ繰り返して 味わい 痛めつけまくるのではなく

感じたら それをただ次に 「逃がす」と意識すること

そのほうが 自分にとってラクだ 

今は そのほうがいいや と

肌で感じてもらえることを 心から 願う 

それは「逃げの姿勢」とはまったく違う

見ないようにするのではなく

いずれいつか 

自分が 解決できるようにするための ひとつの方法

あとで客観視できるものに変えていくためにも

「今はいったん ここにある この痛い感情そのものを 逃がす」と

選ぶものなのだと 私には思えている