異質性の排除

まずは最近、たまたま連続で聞いた、子育て関係の話から。

あるキッズダンスのチームがあって。

専門の先生に習いながら、みんなと一緒に踊る練習をしていた、

一人の女の子のお母さんが、

衣装も振り付けも決まって、さあ、これから踊りこみ! というときに

自分の娘がそのダンスで目立たないことを、どうやら不満に思ったらしい。

お金を払って習わせてるのに、と思ったのだろう、

そのお母さんは、ある夜、先生のところへ電話して

「振り付けのあの部分、格好悪いので、こう変えましたから。

それから、○○ちゃんは外して、ウチの子をこの位置にしてください」

という要望を伝えてきたそうだ。

気に入らない他の子は外して、かつ、振り付けも

気に入らない部分は自分の好みにして(昔、なんらかのダンスを

ご自分もやっておられたのでしょうかね?)、

自分の娘が一番目立つように工夫しなきゃ。

お金を払ってるのはこっちなんだから!

……というお考えなのであろう、このモンスター母ちゃんは、

チームでダンスを踊る、ということをまったく理解していない、

と言える。

その子も、他の子と踊りを揃えることの大切な意味を理解するのは、

もしかしたら、なかなか難しくなってしまうだろうと。

アイドル歌手のダンスみたいに、周りにおだてられつつ

センターで踊りたいなら、

配置や振り付けの際に、実力も考慮されるダンスチームのレッスンでなく、

発表会で、大人が協力したりしてセンターで踊らせてくれる

個人レッスンみたいなものを選んだほうがよいと、素直に思える。

また、ある学校でいじめがあったときのこと。

いじめに「無理やり参加させられていた」らしい、

ある男の子のお母さんが、参加を強要した首謀者の「いじめっ子」を

別のクラスに変えてほしい、と訴えたそうだ。

私立なんだから、それくらいできるでしょ、と。

そもそもうちの子は、巻き込まれた被害者である、と。

いじめられた子の、いじめを受けてきた間の気持ちも、

いじめを始めて「しまった」子の、たぶん背景にある苦しみも、

完全に「ウチの子とは関係ない」らしい。

友達、という関係性は、なかったことにできるらしい。

……異質なものを排除さえすれば、よい?

そうすれば子どもは、立派でよい子で素晴らしい子に育つのかしら。

自分の思いとは違う、異質なものに遭遇したとき、

その子が何を感じ、どうその問題をクリアしていくか。

それを一緒に考えてあげる、あるいは信じて見守ってあげるほうが

よほどその子のために、その子の力になるんじゃないだろうか?

でね、これは誰にでも起こりうることだな、と私には思えたのだ。

自分は、他者に対して理想を押し付けすぎてないだろうか?

さらには「自分に対して」、理想を押し付け続けてないだろうか?

なぜそうしたいのか、なぜそう考えるのか。

そこが自分の予想、希望、理想と違ったときに、

拒否しすぎていないだろうか?

あなたが自分の考えを真っ向から完全拒否はされたくないように、

相手も自分の考えをそんなふうには否定されたくないのでは?

さらにあなたも、自分をそんなふうに、否定したくないのでは?

自分に対して、わざわざ真っ向から否定するから、

かえってうまくいかなくなっているのではないだろうか?

自分の考え、性格、たとえば臆病さ、さえも、

「絶対にあってはならない」ものではない。

短所は長所につながる面が、ほとんどの場合、あるから。

それに他者が、時間が経つことで変わることがあるように、

今は自分だって、変わっていく最中なのでは?

それは、ある意味「多様性」を認めるということなのだと思う。

理想・希望以外の他人、理想以外の自分。

人は変化「できる」から、みな、今はその過程なのだと。

今は、あなたはそう考えるのね。

今はまだ私、そう考えちゃうのね。

うん、それでいいのでは?

そういうふうに「ゆるめる」ことは、そんなにいけないこと、だろうか?

たとえばね。

三鷹市のストーカー事件の記事で、ある大学教授が

ストーカーに特有の「殺害してしまえば、相手が

他の人と付き合わないから安心」という心理を説明していた。

さすがにここまでの極端さに至ってしまうと、

こういう人を自分の身の回りから「排除したい」と思うのも当然だけれど。

そもそもこういう人がなぜ、こんな考えを持つに至ったかというと

「自分だったらどう感じるか」の想像力が、抜けてしまっているからだ。

その練習が足りていないから、

「自分がそれをした場合」「自分がそれをされた場合」の

どちらかの想像力が、抜けてしまう。

そして。

あえて言うなら、先の例に挙げたお母さんたちもまた、

ストーカーとさすがに同列に並べるつもりはないが、

別の面においては、決して、その練習が「足りている」とは

言えないのではないだろうか。

いろいろな感じ方があり、それはその人の自由であっていいのだ、

と思うことは、同時に、自分の考え方も自由であっていい、

「こうあらねばならない」という、ガチガチのその枠を外していいと、

知ることにもつながらないだろうか。

他者にせよ、自分にせよ、まず多様性があってよいと知ること、

次に知るだけでなく、なるべく、どう折り合いをつけられるか、

日常面で実行してみる練習が、必要なのだろうと。

そうでないと「絶対」を、そう思っていない他者に、

もしかして自分にも、押し付けてしまうから。

そうすると、対話ができなくなってしまうから。

そして、違いを知ること、どう折り合うかを実践すること、

この練習って実は、人が生きていくうえで、

みんなそれぞれ、お迎えが来るまで、どこかで

練習していくものなのかもしれない、とも、思えるのだ。

だから私は、とくに人間関係や自己への否定感情で今、

苦しんでいる人に、こう伝えたい。

決して あなただけが 下手なんじゃないよ

みんな どこか何かが きっと下手で

それぞれ自分の元にやってきた課題のなかで 何らかの形で

ずっと 練習していく種類のものなんだよ

と……。

厳しい、あるいは身勝手な意見だと感じられたらごめんなさい。

私も、ストーカー個人に対してまで、容認するつもりはないです。

ただ、それをどう改善できるようにしていけるかは、考えてみたい。

社会や教育の問題も含んでいると思えるから。

キレイごとでなく、自分が体験したから、こんな体験をする人を

減らしていくにはどうしたらいいのか、考えたいのです。

誰かの命にかかわるようなことを除き、

自分との違いを知る、あるいは自分に対しても

ありのままを認め、肯定も否定もしないということは、

ある程度、練習したほうがいいと思えます。

多様性を、あまりにもムゲには、否定したくないと。

そんなことない! それではダメだ! と、

もし怒りを感じる方がおられたら、どうぞおゆるしください。

私には今はまだ、そう思える、ということで、

今のところはご容赦いただければ幸いです。

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