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愛を受け取ること ~相手から 自分から~

自分への愛

抽象的で観念的で 自分を嫌っている人にはつらい言葉

でもあえて 語ってみたいと思う

あなたが本当に 自分を変えたいと言うとき

あなたは自分を 助けたいと思っている

あなたを助けるものは何だろう?

親からの愛だろうか

彼氏彼女からの愛だろうか

配偶者からの あるいは家族からの愛だろうか

あるいは仲間? 目上の人?

もし それがすでに準備されていたとして

彼らは 彼女らは こう言うかもしれない

あなたは本当にすばらしい人だ

あなたは本当にステキな人だ

あなたの美点を ほめまくるかもしれない

では 相手から 最初にそう言われたとき

あなたは その言葉を本気で そのままきちんと受け止めて

信じて 幸せを感じることができるだろうか?

自分を嫌っている人は そこで 言葉そのものを

一瞬 疑ってしまうのではないかと思う

私のこと 実は見えてないんじゃないだろうか とか

本当の私を知ったら 嫌われるんじゃないだろうか とか

心配や不安がまず先に 立つことになると思う

たぶんだけれどね きっと なんとなく 素直に 受け取れないよね

なぜだろう?

せっかく相手が あなたへの愛を 与えてくれているのに

なぜかあなたは おびえ 疑うことになる

そして じゃあ どうする?

私が 自分をすばらしいと 自分で信じられるまで

何度も何度も 私が満足するまで繰り返してほしい と頼むだろうか

私が信じられるまで 私に語ってほしい

私が信じられるまで 私に触れてほしい

私が信じられるまで 私を大事に扱ってほしい と

どれくらい かかるかな

そしてもし その人が ふとした事情で 

あなたのそばを しばらく離れることになったら?

電話かな メールかな それとも古風に手紙かな

ずっと そうやって 告げてもらうのかな

ねえ その相手からしてみたら 何度も何度も求められ

しかも状況が変化するたび 愛を贈る相手が不安に陥ると

「もしかして本当には 愛を信じてもらえてないのかな」って

だんだん不安にならないだろうか?

何か順番のようなものが 違う気もするし

どうしてそんなに ずっと信じられないの? 

もしかしてもともと私は 信じられていないの? って

贈ってくれる相手のほうも 不安に ならないかな?

「自分で自分を ゆるめてあげるほうが先」だと

これまで何度か 私が言っているのは

そこに関わってくる問題でもある

愛を受け取りたくて仕方ない という 自分の不安を

相手任せで 解消してもらうのではなく

それは 自分で「も」 できることであると

しかも先にやっておくことで 相手にもそんな不安を与えたりしない

最初から お互いに 素直に 愛を贈りあえて

最初から お互いに 素直に 受け取りあいできる

そのほうが より うれしくないかな?

そのほうが より 信頼関係が深くなるんじゃないかな?

そうしたら そんなにしょっちゅう 求めなくても

お互いの愛を 信じられるんじゃないかな?

信じられたら 相手がどこに行こうが 状況が変わろうが

きちんと通じあってると思えて より 幸せなんじゃないかな?

受け取る 返す 渡しあう その過程において

自分からも 愛があふれていたほうが よりいいんじゃないかな?

そんなふうに 思えるのだ

だからこそ なんだよ

自分で自分を ゆるめてあげることは いずれにせよ必要だよ と

他の言葉のほうがよければ

ひたすらに痛めつけない

いじめるのをやめる

可能なところから 優しくしてあげる

小さな子どもを相手にするように

傷を 痛みを 感じて 苦しかったねってことを 認めてあげる

自分をゆるす

愛を贈り 受け取りたい相手との関係が

今 どういう状態であったとしても

自分で 自分の 痛みを 感じ取り

その傷ができたのはなぜだったかを 感じ取り

「ゆるしてはいけない」という思い込みを はずす

そうした練習は 今 できるよねってこと

そのほうが 本当に よりよい人との関係もつくれ

相手から 愛を贈ってもらえ それを信じられ

自分は 愛されるに値する 愛されていい存在であることを

なおさらいっそう 自覚できると思えるの

そう なおさら いっそう だよ

自分でも 自覚できることなんだよ

自分でも 練習できることなんだよ

だからどうか……

相手からの愛を しっかり 受け取り つかむためにも

自分をまず先に ゆるめてあげてほしいと 願います

自分で愛を 贈る練習 自分で 愛を 素直に受け取る練習

あなたにも 今 それは できるのだから……

相手を傷つけたい人の話

人を傷つけたい人に出会い、自分が傷つけられたとき。

その相手の人は、そのとき本心から「攻撃したい、傷つけたい」と思い、

あなたに対し、ボロクソに言ったりします。

普通、他人に向かってそんなふうに「傷つけたいという欲求」を、

自分が持つことはない……という人が多いかと思うので、

攻撃された側はたいてい最初に、まず驚きます。

そして次に「ふだんから自分を卑下するクセがついている」(鬱の病に

かかっているときなどもそうですね)人の場合、

自分がそもそも、そんな感情を抱えたりしないがゆえに、

「ここまで言うからには、私がよっぽどひどいのでは」と

言われているうちに、捉え始めたりもしてしまいます。

が、しかし。

もし、もし万が一、あなたに落ち度があったとしても、

「ボロクソな言い方をすると人は傷つく」ことを、普通、人は、知っています。

あなたを「よりよくしたい」という思いやりの心が(それが相手側の

勝手な都合による思いやりだとしても)ある場合、

そんなボロクソな言い方にはならないでしょう。

つまり、相手をボロクソに言う人は、

まさにボロクソに「相手をやりこめ、傷つけたい」からこそ、

それをやっているのです。

その際に、あなたが何をどれくらいしたか、は

あまり……というか、ほとんど、関係ないことも多いのです。

「本当に相手が激怒するくらい、悪いことをした」覚えがあるなら。

こちらだって一瞬まず先に「そんな言い方をしなくてもいいのに」という

反抗心、みたいなものが芽生えるはずです。後ろめたいから。

思わずムッとしてしまったり、さらには同時に

「あ、やばい、やっちゃった」みたいな焦りも沸いたりするでしょう。

残念なことに、こちらが最初にまず「え?」ととまどったり

「は?」という感じであっけにとられてしまうのであれば、

相手側はほぼ間違いなく、「自分の力で傷つけたい」からこそ、

ボロクソに攻撃してきているのです。

さて。

心理学やら世界各種の大きな宗教やらの本を読んでみると、

こうした心理的攻撃は「自分を守り、かつ優位に立つために仕掛ける」とされており、

しかも「そういう方法のほうが、より自分を守れる」と考えているときに、

先制で行われたりする場合が多いようです。

つまり状況によっては「本気で自分の都合だけ、

自分を優位にしたいがためだけに、攻撃できそうな対象者に向かって

攻撃を仕掛けてくる」なんて事態も十分、起こりうるわけです。

そういう場合、なぜそんな方法でしか、その人が相手に向かえないか、というと、

その人自身が、自分の不満を自分で解消できないから。

せめて自分より弱者を攻撃してやり込め、相手が傷つき、へこむのを見てやっと

『自分には力がある、だいじょうぶ』と、そこで安心して自分をごまかせるわけです。

これに支配欲も絡んだりすると、性的暴力へもつながったりしちゃうわけです……。

そういう「一方的な傷つけ方」をしたいのは、

その人が自分の欠点を自分で認められなかったり、

その欠点をたまたま指摘され(あるいは自分で勝手にそう捉え)逆ギレしたりするため。

つまりは「その人自身の弱い面ゆえ」ってことです。

そのような相手から「こちらが傷つくことを望まれて」攻撃された場合、

本当ならそれにおつきあいする必要性は、こちら側にはありません。

相手の弱さを隠す、ごまかすための行動に、応じてあげなくちゃいけない理由なんて

こちらには存在しないのです。たとえ親や配偶者、子どもであっても。

愛ゆえ? いいえ、相手を思いやる、愛ある行動であるならば、

「傷つかないよ」と完全に流し、相手の目を真摯に見つめるほうが、

本来であればよほど「愛」として伝わるでしょう。

イギリスからの独立を果たしたインドの人たちが行ったのが、

まさにこうした「静かに相手を見つめる」という方法でした。

ただし暴力を伴う状況なら当然、それをするとさらに相手が逆ギレして

こちらに身体的被害が及ぶ危険性がかなりあるため、

目を見つめる方法は避けたほうがいいです(というよりもう、

物理的にその相手から逃げるのが先です)。

我が身を振り返りたくないから、攻撃する人だって、いる。

自分のイライラを抑えきれないからと、

八つ当たり的に攻撃する。そのひとつが子どもの虐待だったりもします。

だからそんなときは、こちらもまず自分のことを考えて、

自分を守ってあげていい。

相手を殴れとまでは言いませんが、

少なくとも相手の攻撃をまともに受け止めて

あなたが「傷ついてあげる」ことは、しなくていいのです。

それは完全に、相手側の問題です。

善意から相手を変えたいとしても、

そんな爆発を本人が起こしている時期には、たいてい、

こちらの言葉も思いも、届きません。時間も必要なことが多いでしょう。

こちらが相手に支配されたくないように、

相手だって、あなたに変えてほしい、とは、その最中、思えません。

意識の奥のほうにある「本人の弱さ」に、よほど上手にアクセスできれば、

劇的に変わったりする可能性もないわけではありませんが、

そのためにはこちら側も「そのための事前の、心の準備」をものすごく

しておかなくてはいけないし、きちんとした心理的な相手の把握、

自分自身の感情コントロールもかなり必要です。

そんなドラマのような展開には、まずあまり、なれません。

あなたがドラマの主人公みたいに振る舞いたいわけでもないでしょうし……。

「他者を傷つけたい」と思う人自身が、そんな自分を変えたい、と感じない限り、

アクセスは難しいのです。この場合は、とくにそうみたいです。

ですからもう一度言います。そんな攻撃を受けたなら、

まずは何より、自分を守ってあげてください。

相手側の問題が浮上したのだということを認めていく。

言いがかりを、きちんと「これは言いがかりだな」と認識し、流すようにしていく。

とりあえずやり過ごし、あとから認識することだってできます。

相手から離れることが一番の対策だったりすることも、実際、あり得ます。

攻撃性、については、本当にそういう場合があり得るのです。

どうか、むやみに、攻撃をまともに受け止めないでくださいね。

そういう相手が、どうしてもしばらく(しばらくであってほしい……)そばに

いる場合は、自分の受け止め方のほうをまず練習してみてください。

それはまた、自分のことを、自分で大切に扱ってあげる練習でもあるのです。

依存よりは……

うまくいかない。
納得できない。

イライラする。

悔しい、悲しい、ツライ。

そうやって長い間、自分を嫌うことがあるかもしれない。

そんなときに起こりがちなのが

自分ではこれ以上何も、上記のような受け止め方を

変えるつもりがなく、

自分のことは嫌いなままで、

誰かに、代わりに何とかしてもらおう

としてしまうことです。

たまたま最近、ある人に一部、

お伝えしたことでもあるのですが。

「私は自分を否定し続けて

自分が嫌いだから、

感情その他全部、自分のことを

乱雑に扱うけれど……、

あなたは私のこと大事にしてね、

でもって、いずれ、

私をこの状態から救い出してね」

というのは、なんとなく変じゃないか、と?

その代わりに

差し出すものは何でしょう。

自尊心かな? 時間かな? 感情かな?

そして相手の言うことを信じすぎて言いなりになって

相手が自分を誉めてくれて

そうしたら自信を取り戻せるの……

って本当に?

そのやり方で本当に、

自分のことも好きになれるかな?

相手側が、依存が起こらないよう

すごくすごく上手に導いてくれたら

もしかして、うまくいくかもしれないけれど。

相手のほうも、頼られきったら、

それでその人に自信つけさせようとしたら、

すごい努力と忍耐力が、通常は必要でしょうね。

あなたは自分を好きになっていいんだよ、ってことを、

その人からすがられないようにしつつ、伝えたり、

でもいろいろ「あなたの意見は私には絶対だし」と判断も感情も

こちら任せにされてしまうから、その辺も距離感保ちつつ

全部面倒みたりして……。

あるいはもし、相手側のほうもうれしくなって、

すがられるのが好きになれば

共依存、になるのだろうと。

でもたぶん、共依存になった(なれた)としても、

今度はお互いに相手へ頼るから、

いつも信頼感の点でもめることも多くなるでしょう。

相手がいないと自分がダメになるから、

お互いに拘束しまくり。

……苦しそうな気がします。

少なくとも、私には苦しいです。

ヤバい方向の宗教の「気持ちの使い方」も、

それと似ている気がします。

その教えだけが本物、絶対、信じる、すがる、

主催者、教祖的な人のほうは「まあうれしい、

ありがとう、もっともっと」みたいな。

一時的に楽になれたとしても、

根本的には楽になれそうにないかと。

そんな頼り方をしなくても、

「もう、今この段階で

とりあえず先に自分のこと、

うん、まず最初に認めてあげよう。

まずは苦しんでる自分そのもの、

今のありのままでも、

どうやら、いいらしいから。

そして自分が心地よく感じる範囲のこと、たとえば

誠実さだけ、追いかけよう。

楽しさだけ、うれしさだけ、

落ち着けるものだけ、追いかけよう。

うまくいってない感情のほうに自分の意識を集中させ続けるの、

まずはそれをやめよう。

自分が、自分の感じる「良いこと」を大切に。

そこをもっとていねいに、たくさん拾う練習しよう。

自分のなかにはいつでも、そういう感情があることを

普通に認められるように。

何に注目すればいいかな?

何からなら、始められそうかな?」

とか感じてみて、実際に練習してみる。

そのために、気持ちを吐き出して整理してみたり、

感謝できそうなものを見つける練習などをしたほうが、

よほど、自分にとって永続的な効果のある、

よいものを生み出せていけると。

そしてやがては、自分をその部分から認め始めて楽にするからこそ

気持ちを切り替えるためのヒントも思いつき、

苦しんだ経験からも何かを学べて自分の糧にできると、

私には思える次第です。

さて、いかがでしょうか。