木元見春 のすべての投稿

立派な人であらねば……ねばねば

自分を否定してる人って、たいてい「こうあるべき姿」と自分を比較している。

たくさん稼いでるとか

たくさん友達がいるとか

予定は常にいっぱいで

人気者で

モテモテで

仕事はバリバリできて

家族に恵まれて

完全に健康で

うん、これ全部、「あったら幸せそうに見える」外側の状況だよね。

つまりは「役割の仮面」が充実しているように見えるってこと。

稼いでる私

友達の多い私

人気者の私

仕事のできる私

愛されてる私

ステキな家族の中心にいる私

ねえ、でもさ、ぶっちゃけて言ってしまうけれど。

これって「いつか失うかもしれなくて不安」な、役割仮面ばかりじゃない?

それさえかぶり続けていれば、ずっと幸せでいられるのかな?

本当に?

あるいは逆に、不満も不満足も、ケンカも、嘘をついたりごまかしたりも、

まったく起こらないままで居続けられるかな?

慣れたら当たり前になって、感謝も忘れてアウト、ってことないかな?

外側の仮面の充実って、そういうことなんだと思えるの。

変化しやすいからさ。外側だから、当たり前なんだけど。

しかも、仮面を手に入れたときがいちばんうれしくて、

あとはうれしさも下降曲線でさ。

でもね。私の知っている「基本的に充実してる人」って

こんな仮面、つけてないんだよ。

たとえば、ヒマな日曜日。

ひとり暮らしの彼女は、ゆっくり起きて、のんびり、ご飯を食べて、

とりあえずは洗濯やら、家の片付けなんぞさっさとこなして、

心地よい空間ができたところで、お茶でも飲んで一服して、

背伸びして、さ、好きなこと少ししようかな、って

趣味のことして、のほほんとして。

それで夕暮れがきて、風を感じて、ああ、気持ちいいな、と思って。

それで基本、十分、充足しているみたいなの。

そうやって過ごせることを、ありがたい、うれしい、と、感じてるようなの。

そんな時間があるから、日々も、そこそこ頑張れるんだって。

何の仮面もつけてないんだけれどね、充足してる感じなの。

これって、ダメな人かな?

これって、寂しい人かな?

私には、幸せそうに見えるし、彼女自身も、不満はなさそうだよ。

そういう基本の幸せを持ってるから、外側の役割仮面がきたときも、

さらに自分なりに、楽しめているようだし。

小さな自営業の仕事で、平日と、たまに土曜日も、

せっせと働いてるんだけどね。

毎日、素晴らしい仮面をつけて、外側の人に対しても充足してることを

見せつけてないと、幸せになれないと思い込んでる人、

「だから今、私は不幸なんだ、私はダメなんだ」と決めつけてる人に、尋ねたい。

よい外側の仮面をつけてないと寂しい、ダメ、と

自分がそう決めつけたのは

「なぜなのか」

考えてほしい、と。

失うかもしれない、と、すぐに不安に変わったり

慣れたり当たり前になって、すぐに不満に感じるかもしれない

「外側」のもの、役割の仮面を求めて不安であり続けるより

基本的な自分自身の充足、が、まずはあったほうが

落ち着いて、幸せに、生きていけるんじゃないかな?

こうあらねば、こうでなければ、という、周囲への見栄や欲望なのかな?

そうでないと人間失格、みたいな「しつけ」でも受けたのかな?

「あらねば」「あらねば」って、それこそ、ねばねばの接着剤みたいに

自分をその位置に固めてしまってて、自分自身を否定させて、苦しめてないかな?

ねえ、本当にその仮面を得たら、本当にあなたは一生、幸せかな?

鬱の人は……とくに、脳の明るい回路が狭いから、そうなりやすいとは思う。

でも、ねばねばで自分を固めれば固めるほど、よけいに、

暗い考えばかりがこの先も、自分を支配するかも……と思える。

ねえ、なぜあなたは、その「ねばねば」の思考に、固執してるんだろうね?

自戒をこめて、あらためての宣言

他者との関係だけの話ではなく、

自分自身との関係においてもの話。

昔、とある日記に記した言葉を、

今日はあらためて、ここで自分に向かって、書いてみます。

今は私も、いろいろな意味で過渡期にいるようです。

このところ本数が少なくて申し訳ないですが、

日々、いろいろ学び、感じていますので、またいっぱい書ける日もあろうかと。

そんなこんなで、今日は、自分への再宣言として、以下を綴ります。

もし、必要な方がいらしゃいましたら、届きますようにm(_ _)mキラキラキラキラキラキラ

**************************************************************************

私の中にも、相手の中にも、それぞれの課題がある。 

私の問題は私が解決すべきであり、相手の問題には、私が手を出すことはできない。 

なぜなら、それは相手の学びの機会を、私の都合だけで

勝手に奪ってしまうことになるから。 

人はそれぞれのペースで気づきを得て、変わっていく。 

そのペースを強引に変えることはできない。 

他人はもちろん、自分の問題であっても、それは同じ。 

強引な方法を用いたら、結局は同じ場所に戻ってやり直すことになる。 

だから、ただ、自然体でいること。流れのなかで、学び続けること。 

怒りを感じたら、なぜその怒りが自分の中に湧いてきたかを感じ取り、 

哀れみや悲しみを感じたら、なぜそう思うのか、自分の中の感情を捉えてみる。 

喜びや楽しみに対しても、いつかその練習をできるようになりたいけれど、 

そうしたら、もっと心の奥深くで静かに感謝できるようになるだろうけれど、 

今はまだ、広げなくても大丈夫。私はまだまだ、学びの途中なのだ。 

今の私にできるのは、自分の気持ちを見つめ、別の角度から捉え直すこと。 

この感情は、私の中に、私がもたらしたもの。

相手に対し、そう反応したのは私。

それを忘れないこと。 

湧き上がる感情を殺しもせず、増幅もさせず、流れの中で、見つめてみること。 

深呼吸する、まずは自分を落ち着かせる。 

自分の感情を、少し離れた角度から見つめ、どうしてそう感じるのかをつかまえる。 

理解はできなくても、そういう自分がいることを認める。ただ赦す。 

呼吸をする、吐き出す、自分のなかに愛を取り込み、広げる。 

少しずつでも自分をゆるめられるよう、それを繰り返すこと。 

そして相手にはただ、自分を開き、丁寧な愛を持って接すること。

感情に乗っ取られないこと。 

相手もまた、その人なりのやり方で、学んでいる最中なのだ。

それを忘れないこと。 

もっと自然にそれができるようになるまで、

どれくらい時間がかかるかはわからないけれど、 

自分のなかで長引かせないよう、無理のない努力を続けること。 

この課題が今、やってきたのは、私がそれを、乗り越えられるからのはず。 

いつ終わるか、どう終わるかは、わからない。 

ただこの1日1日が、私にとっての学びの場である。 

疲れたら、休息してもよし。でも、逃げ続けるな。 

今は、自分の力を信じ、相手の力を信じ、やってみるだけ。 

それが今の、私にとっての課題である。 

**************************************************************************

そして、読んでくださった皆さまへ、さらにひと言、贈るとすれば……。

現在の自分の状態について、起こった出来事について、自己評価について、

「どう受け止めるか」を選んでいるのは、自分自身である

を加えさせていただきますm(_ _)m

 

 

「ひと休み」ブログ更新しました

更新をご無沙汰していてすみませんm(_ _)m

ホームページ改訂……というか新構築する作業にハマっておりました。

詳細(?)を「ひと休み」ブログに書きましたので

よかったらご覧ください。

◎『見春屋』木元の ひと休み

自己満足のためだけの?