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起こってほしくないこと、という話

書道家の武田双雲さんが、ご自身のブログで、

「実現してほしくないことを、つい考えてしまうときはどうする?」

というテーマで、読者の方々からアイデアを募集されていた。

その意見を大まかに分けると

「対処法をとことん考えてみる」という場合と

「考えを切り替える、考えないようにする」の2種類だった。

うん、まあ、どっちかしかないよね。

でもって、とことん対処法を考えることが可能なのは

「自分自身のこと」や「身体に関すること」、

つまり実行方法があらかじめ理解しやすいことで、

他者との心の関係は、切り替えるしかないだろうと。

例えば病気や怪我なら、事前にどんな準備をして乗り切るのか、

老衰をやがて迎えるときには、など、実例も対策もわかりやすい。

大きな借金を背負ってしまったら、などというのも、

対処方法を調べることはできる。つまり、暮らしに関わることは、

準備も対策も、必要な学びなども、わかりやすい。

あと、自分自身の将来なら、ではどうなりたいか、ということを探ったり、

漠然とした夢を形にしていく手順、段取りを考えてみればいい。

たぶん、それだけでも逆にワクワクできるだろう。

性格についてもね、自分自身のことならまず、

一通りの対策、立ててやってみればいいのだと思える。

例えば人に対してキツい言葉遣いをしてしまうなら、言葉そのものの

語彙を増やしてみる。コミュニケーションや話し方の本も出ている。

人見知りする性格は、実際に人と話して、会話そのものに

慣れていくのが一番よいと思うから、カウンセリングや、

お試しで話し方体験教室などに行く、

あるいは、日記を書いて、思いを述べる練習をする手立てだってある。

つまり、そんなふうに、具体的に動くことができるのだ。

対処が可能であることを忘れなければ、たとえ今すぐは動けなくても、

不安のどん底に自分を叩き込む必要がないこともわかるだろう。

鬱だってね、ちゃんと自分をいたわって無理しなければ、

徐々に軽減はできるのだ。そのとき、また、少しだけ動いてみればいい。

そこで絶対、自分に無理させないで、本当に丁寧に、

自分を扱ってあげる練習をする。

うまく働かない、暗い脳みそになってるときに

途中で逆ギレして自分に八つ当たりしまくったって、

結局、ムダなエネルギーを遣うだけで、何も生み出さないもの。

まあ、逆ギレさえも今は自分にゆるす、と思えるのであれば、

それをわかったうえで息抜き的にウガー! となるのもアリだし。

「~すべきなのに」「しなければいけないのに」「してはいけないのに」

という強制、禁止事項を増やせば増やすほど、

鬱という病が、深く長引く可能性が高くなることを、

しっかり理解してほしいと心から願う。

そして。

他人との人間関係については、本当に、悩んだところで仕方ない。

そもそも、自分の思い通りに、相手に考えてもらおう、

動いてもらおう、変わってもらおうと思うのって、

もちろん程度の問題はあるけれど、基本的にはあまり無理。

冷たいと思うだろうか。でも、一度、きちんと考えてみてほしい。

自分だって、他人の思い通りに支配されたらイヤなはずなのに、

なぜ、相手のことは自分の思い通りにコントロールしようとするのか?

それはある意味、おこがましい発想とも言えないだろうか?

アイツが自分のことばっかり考えてる! のであれば、

自分だって、自分のことを考えているかもしれないのだ。

こうしてほしいから、先にこうしてあげるよ。

見返り前提の思いやりは、ある種の「お返しの強制」なのだ。

それで「ああしてあげたのに!」と怒ったところで、

相手がそれを「気持ちよく受け止めなかった」ら、無理である。

私も昔、押し付けの思いやりをガンガンくらって、困った経験がある。

仕事が忙しくて寝てないけれど、どうしても付き合いで

とある人に会いにいかなくちゃならず、

同じ状態の友人とともに、とりあえず出かけて行った。

そうしたら、相手は、待ち構えていたかのように

「買い出しに行って、豪勢な料理食べて、夜遅くまで飲んで、

翌朝は早起きして観光だから!」と、3日間ずっと

相手の組んだ予定に振り回されたのだ。

もちろん、こちらがほとんど寝ていないことも、相手は承知している。

ただ、ひたすら、よい思い出をみんなで作るのだ! と決めつけ、

こちら側の目の下のクマも、移動中のウトウトも、全部無視。

当然、帰りには「楽しかったよね! どうだった?」と

感想インタビューをたっぷり、はい、つまり私たちは、

お礼を述べさせられまくったわけだ。

……わかるよね。どんなに歓待してもらえても、

次はもう、体調が万全なときしか、その人には会いたくなくなることが。

人を思いやる、というのは、相手がどう感じているのかを

「はかる」ことだと思える。

そして、はかった上で、お互いの意見や気持ちをすり合わせすること。

自分だけが我慢するのではなく、もちろん相手だけが我慢するのでもない。

双方が心地よい着地点を見つけることだ。

それが、人間関係をうまくいかせるコツであるならば、

相手の気持ちは、そのときになってみないとわからない。

つまり、先の心配をしすぎても、ムダなだけだし、

相手をこの先もコントロールするには、と悩んだところで意味がないのだ。

だって、相手がどう受け止めて考えるか、

先のことは、先になってみないとわからないから。

都合も環境も変わるだろう、体調の変化だってあるだろう。

それこそ天候的などによって、予定も狂う。

端的な言い方をすれば、あの人が離れていってしまったらどうしよう、と思うことは、

ゴメンね、イコール、どんだけ相手をコントロールしようとしてるんですか?

という、ホラー&サスペンスな話にもなりうるのだ……残念ながら。

それよりも、次に会ったとき、丁寧に、着地点を探ろうよ。

失敗したとわかったら、素直に謝る。

でも、自分の気持ちに嘘をついてまで、相手に迎合しない。

きちんと気持ちを伝えあう、その上で歩み寄り、すり合わせ、着地点を探る。

一方的な我慢がどうしても必要なのは、仕事でお客様を相手にしてるとか、

お金などの直接的利害が絡んでいるときくらいだと思える。

心地よく「また次ね!」と約束できる、

そんな関係を積み重ねようよ。

異性でも、同性でも、年上でも年下でも。

一瞬一瞬をお互いが大事にできれば、そういう空気を重ねていく

努力をすれば、おのずといい関係が長続きするのだと、

それこそが「かけがえのない」関係だと、私には思えるのだ。

そんな関係でいられる相手なら、少々予定が狂って会えなくなっても、

自分がにこやかに「じゃあ、また今度ね」と言えるし、

相手もありがたいことにそう思ってくれていることが伝わってくる。

昔の友達にいつ会っても安心できるのは、

知らず知らずのうちに、そうした心地よい関係が作れていたからかもしれない。

思ったことを、思いやりをもって伝えあう。

そうすればきっと、会わない時間なんて関係なくなるのかもしれない。

だから、どうか。ムダに悩まないでね。

会っている瞬間瞬間で、丁寧に伝えて、そのときそのときに、関係を作っていってね。

仕事仲間も、友だちも、恋も……もちろん、できる範囲で家族の間でも。

敢えて釣られて時事ネタを。

ブログ読者さんに何人か、今回の橋下氏の発言について

触れられている方がいて、これは心の問題にもつながるな、と

思えたので、本来、私のような立場の者が

ここで書くべきではないのかもしれないけれど、

敢えて意見を書いてみようと思う。

私の感覚では、まず何より

「ごちゃ混ぜにするな、落ち着け、橋下くん」

と思える。

そもそも従軍慰安婦という存在が公式に

作られていたかどうかについて「そんな組織的な存在は

なかった」と、橋下氏は言っていたはずである。

それを今回、沖縄の暴行問題改善の話に「なぜわざわざ」絡めるのか。

もし慰安婦という存在があったとしても、という仮定自体が

最初の誤解を生むと思うが、

しかもその上で「それは時代的に仕方なかった」と、言った。

うん、もう完全にヤバイよ、それ。

あとからどんなに、意図が違う、趣旨がと言い訳してもさ。

従軍慰安婦が存在したかどうか、については、私の意見は今は割愛する。

あの当時、戦争という名の殺し合いを

本気で正当化できる非常事態だった、それは事実。

男には、定期的に解消したい性欲が、少なくとも女性よりは

強くある、これもまあ、比率的には事実だ

(すべての男性がそうではないだろうし、

性欲の強い女性だってもちろんいるだろう)。

でもね、「時代的に仕方なかった」というのは、

男尊女卑的だと「誤解」(わざとこう書くよ)されるでしょ、そりゃ。

では戦争中、近所に風俗がなければ、昔なら、

女性を無理やり犯してもよかったのか?

確かにお妾さんもまだいた時代だし、それを男の甲斐性、と

受け止めていた、少なくともそんなお父さんのもとで育った息子たちが

戦争に行っていたのだとは思う。

が、それでも昭和には入っていたあの時代、

強姦は公的には許されてはいないはずだ。

命がけで日本のために戦う人たちであれば、海外で他人を

無理やり軟禁し輪姦しても「仕方なかった」のか?

そうした男尊女卑的な思想がまだまだ色濃く残っていた、

そんな悲しい時代でした、とでも表現するなら、

ここまで非難されなかったと思うのだ。

「仕方なかった」さらに「今なら風俗を」と言うから、

おお、橋下、お前は心の中に、男尊女卑があるわけね、と

「誤解」されちゃうんじゃない?

じゃあ、例えば。

第二次世界大戦時代、実は女性軍人の集団も

いたことが判明しました。

彼女たちは、進攻(これも敢えてこう言っておく)した先の

現地の若い男の子を軟禁し、嫌がるのを無理やりずっと、

性奴隷にしていたのです。

そんな事実が出てきたら、それを誰か女性議員が今、公的な発言の場で

「仕方なかったよね、今と違ってホストクラブとか

なかったし、非常事態だったし」

と言ったら。

世の男性は、誰もまったく不快に思わないのだろうか?

どういう歴史・人権認識をしているか、それを言葉を使って

きちんと明確にするのが、議員という立場上、必要なのでは?

しかも弁護士という、言葉の法的解釈を

過去の職業としていたなら、なおさらのこと。

そうでなくても発言に気を配らなければいけない公的な人が、

軟禁のうえ長期にわたる輪姦も、あの戦争では

仕方なかった、なんて言い方すれば、たとえ自分の趣旨が

そこにはないにせよ、女性たちから怒られても

それこそ「仕方ない」だろう。

あの当時は非常事態ゆえの、また日本の価値観も含めての、

悲しい歴史があったかもしれません。

でも今の時代、沖縄で起こっている暴行問題は、

アメリカ軍のほうでも、性欲処理について何らかの対策を

積極的に講じることができるのではないか。

せめてそう表現していれば、少なくとも私は

おいおい、何をマズイこと言ってんだ、とは感じなかったと思う。

もし、ね。

非常事態だから、男性はまあ、性欲があるから、

外国人を軟禁輪姦しても、なんて、

その当時の男女なら、思ったのだとしても、よ。

今の時代の人間が「仕方なかった」と表現するのは

どうしても違う気がするのだ……。

そして、何より、ね。

されたほうは、自分が“汚れた”と思うのだ。

悲しいけれど、肉体的な接触があるがゆえに。

男でも、女でも、そう感じると思う。

それこそ、一度、男性にも想像してみてほしい。

(※注意 以下、強姦の描写的表現を述べます。

過去に悲劇に遭われた方には苦しいかと思いますので、

**********線で区切ります。ご不安な方は、

2本目の**********まで読み飛ばしてください。

敢えて今回、ここでそのような表現をすることを、

心から申し訳なく存じますが、なにとぞご容赦ください)

******************************

あなたが夜道を歩いていたら、突然、屈強の男が、

しかも自分が気持ち悪い、と感じるタイプの男が、立ちはだかりました。

嫌がるあなたを思い切り殴りつけ、メチャクチャな

恐怖心を与えられた上で、見知らぬ小屋にへ連れ込まれて押し倒され、

抵抗したらまた殴られ、最後には挿入されて、

耳元でハアハア言われながら犯されました。

それが終わったと思ったら、その小屋に軟禁され、

しばらくすると別の男が来ました。

そうやって何日も、何度も、あなたは犯され続けました。

******************************

それ、あなたは喜ぶ?

仕方ないと思える?

お尻もやがて気持ち良くなって、うれしくなるかな?

性欲があるから仕方ないんだよ、男ならわかるだろう?

なんて、耳元で何日も、ささやかれ続けてさ。

あなたが、しかも10代か20代前半の若者だったときに、

この経験をして。

その後、普通に暮らせるかな?

その経験、忘れられるかな?

ずっとあとになってから、どこかの政治家に「仕方なかった」と

言われたら、納得できるのかな。

そういう想像くらいは、本当に、

男性にもしてみて欲しいと思えるのだ。
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最後に。

死んでいった兵隊さんたちの人権について、

その点にはまったく触れずに女性が抗議するのはおかしい、と

おっしゃっていた方もいたが、

それこそ、当時の軍司令部が兵隊さんたち個人の「命の権利」を

大切にしていたとは思えない。

当時の命と性についての人権は、対照的に

語られる話ではないだろうと思える次第である。

憎しみや裏切り、恨みの気持ち

憎む、とか、裏切られた、とか、

そういう類の感情は、自分を疲れさせる。

物理的にも、体調が悪くなったりする。

なんて自分勝手な考えを、という怒りは、

相手側の気持ち、本心、を確認することで

そういうふうに捉える人なのね、という失望感に変えると

ガッカリ、はするけれど、憎々しさが募る、続くことを防げるように思う。

なぜ、こちらの気持ちをわかってくれないのよ! と思っても、

それは相手が、あなたとは別の人間だからである。

別の人間であり、別の環境で、別の価値観をもって育ってきたから、

同じ考えに、同じ気持ちにならないことがある。

シンプルに考えれば、それが「わかってもらえない」理由なのだ。

であれば、こちらは、わかってもらう必要がどのくらいあるかに応じて、

すり合わせ、するしかない。

あるいは、わかってもらえないのだ、と、その点についてはあきらめるか。

相手の考え方にも一理あるのか、それを受け止めるか否か。

相手を一方的に攻撃するだけでなく、自分の価値観も、

自分で問いかけてみてもいいのかもしれない。

正解は、ひとつだけではないこともあるのだ。

そして、もし。

コイツにはこちらの気持ちは届かない、という結論に至ったとき、

先ほどの失望感は、確定的になる。

それはとても残念だし、その時点では悔しいことかもしれない。

でも、こちらの感情、考えに、一点の曇りもなければ。

自分の感情が、自己中心的ではなく、

あきらかに、コミュニケーション手段として、相手の出方のほうが

おかしい、と、思えるのであれば、

割り切れたりもするのだ、結構、あっさりと。

なぜなら私は、その相手とは別の人間だから。

相手がそう考えるのは、相手側の問題であり、

きっとこの先もこの人、困るだろうな、と感じたとしても、

それは私の問題ではないのだ。

ただ、どうしても、側で長く付き合っていかなくてはいけない相手なら、

そして、多少でもわかってもらう必要があるのなら。

こちらの考えを、感情的に、ではなく、冷静に、

「交渉」していくのが、よいように思う。

少なくとも、こういう方向にしてもらえないだろうか、とか、

この点は、こう考えてもらえないだろうか、とか。

とくに、相手の考え方も100%間違いとは言い切れないのであれば、

お互い、どこまで歩み寄れるかの接点を探していく。

譲歩と折り合い、である。

その最中、また感情的な議論になりかかったら、

自分から、交渉をいったん中断してもよいと思う。

誰かを憎み、非難するというとき。

それは、自分が正しいと感じ、

しかもそれを相手にはっきりわからせたい、

ある意味、相手を懲らしめ、仕返ししたいという思いを、含んでいるように思う。

その仕返し、のようなものを、果たしてあなたがしなければいけないのだろうか?

私は、とくに鬱になって以降、そこまで100%、自分が正しいとは、

思えなくなった、かもしれない。

だからこのように考えるのかもしれないが、

少なくとも、憎むことで自分がその黒い感情に苦しむよりは、

割り切ったり、どう接点を持つのか、という方法を探るほうに

注力するほうがマシだ、と考えるようになった。

実際、それをやってみたら、相手に腹が立つ、許せない、

そういう怒り的な感情も以前よりは短くなり、

その分、平和に、平穏に過ごせるようになれたと感じている。

憎しみや怒りや恨み、という気持ちは、

誰よりも、何よりも自分自身を、蝕むような気もするのだ。

だから、それを手放すこと、相手には相手の都合や考え方があり、

必ずしも自分と一致するとは限らないのだ、ということを、

割り切るように思うことで、自分を少しでも早く楽にしてもらえたら、と思う。

それは決して、間違いでもないし、やられ損、でもないのだと。

損得、という判断基準でものごとを考えるのをやめる、

そんなキッカケにさえ、出来うる話なのでは、とも、私には思えている。

損得ですべてを判断するのもまた、とても苦しい人生だと思えるのだ。