憎む、とか、裏切られた、とか、
そういう類の感情は、自分を疲れさせる。
物理的にも、体調が悪くなったりする。
なんて自分勝手な考えを、という怒りは、
相手側の気持ち、本心、を確認することで
そういうふうに捉える人なのね、という失望感に変えると
ガッカリ、はするけれど、憎々しさが募る、続くことを防げるように思う。
なぜ、こちらの気持ちをわかってくれないのよ! と思っても、
それは相手が、あなたとは別の人間だからである。
別の人間であり、別の環境で、別の価値観をもって育ってきたから、
同じ考えに、同じ気持ちにならないことがある。
シンプルに考えれば、それが「わかってもらえない」理由なのだ。
であれば、こちらは、わかってもらう必要がどのくらいあるかに応じて、
すり合わせ、するしかない。
あるいは、わかってもらえないのだ、と、その点についてはあきらめるか。
相手の考え方にも一理あるのか、それを受け止めるか否か。
相手を一方的に攻撃するだけでなく、自分の価値観も、
自分で問いかけてみてもいいのかもしれない。
正解は、ひとつだけではないこともあるのだ。
そして、もし。
コイツにはこちらの気持ちは届かない、という結論に至ったとき、
先ほどの失望感は、確定的になる。
それはとても残念だし、その時点では悔しいことかもしれない。
でも、こちらの感情、考えに、一点の曇りもなければ。
自分の感情が、自己中心的ではなく、
あきらかに、コミュニケーション手段として、相手の出方のほうが
おかしい、と、思えるのであれば、
割り切れたりもするのだ、結構、あっさりと。
なぜなら私は、その相手とは別の人間だから。
相手がそう考えるのは、相手側の問題であり、
きっとこの先もこの人、困るだろうな、と感じたとしても、
それは私の問題ではないのだ。
ただ、どうしても、側で長く付き合っていかなくてはいけない相手なら、
そして、多少でもわかってもらう必要があるのなら。
こちらの考えを、感情的に、ではなく、冷静に、
「交渉」していくのが、よいように思う。
少なくとも、こういう方向にしてもらえないだろうか、とか、
この点は、こう考えてもらえないだろうか、とか。
とくに、相手の考え方も100%間違いとは言い切れないのであれば、
お互い、どこまで歩み寄れるかの接点を探していく。
譲歩と折り合い、である。
その最中、また感情的な議論になりかかったら、
自分から、交渉をいったん中断してもよいと思う。
誰かを憎み、非難するというとき。
それは、自分が正しいと感じ、
しかもそれを相手にはっきりわからせたい、
ある意味、相手を懲らしめ、仕返ししたいという思いを、含んでいるように思う。
その仕返し、のようなものを、果たしてあなたがしなければいけないのだろうか?
私は、とくに鬱になって以降、そこまで100%、自分が正しいとは、
思えなくなった、かもしれない。
だからこのように考えるのかもしれないが、
少なくとも、憎むことで自分がその黒い感情に苦しむよりは、
割り切ったり、どう接点を持つのか、という方法を探るほうに
注力するほうがマシだ、と考えるようになった。
実際、それをやってみたら、相手に腹が立つ、許せない、
そういう怒り的な感情も以前よりは短くなり、
その分、平和に、平穏に過ごせるようになれたと感じている。
憎しみや怒りや恨み、という気持ちは、
誰よりも、何よりも自分自身を、蝕むような気もするのだ。
だから、それを手放すこと、相手には相手の都合や考え方があり、
必ずしも自分と一致するとは限らないのだ、ということを、
割り切るように思うことで、自分を少しでも早く楽にしてもらえたら、と思う。
それは決して、間違いでもないし、やられ損、でもないのだと。
損得、という判断基準でものごとを考えるのをやめる、
そんなキッカケにさえ、出来うる話なのでは、とも、私には思えている。
損得ですべてを判断するのもまた、とても苦しい人生だと思えるのだ。