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視点 ~その1~

今日の話は、多少、あるいは多分に、思想的、抽象的なものになると思う。

もしかしたら一部は、宗教的な話に感じられる内容も入るかもしれない。

できるだけわかりやすく、怪しくならいよう(笑)書くつもりなので、

よくわからん、という人は受け取れる分だけ、受け取ってほしいと願う。

人がお金を稼ぎたい、地位や名誉がほしい、恋人がほしいというとき、

それはいったい、何を求めているのだろう。

これは私が鬱になっていろいろな本を読む中で、哲学でも宗教学でも人間学でも社会学でも

触れられていた話だった。

たとえば、お金をもっと稼ぎたい、または単純にお金がたくさん欲しい、というとき。

その理由は、家族をもっと楽しませてあげたい、ラクにしてあげたい、あるいは不足なく養いたい。

ほしいものを自由に買いたい、もっと旅行にいきたい、などになるだろう。

では、「そうすること」によって何を得られるのか。

自分の満足感、達成感である。

自分が満足感、達成感を得られたとき、人はどうなるか。

「幸せ」を感じるのである。

このようにして落とし込んでいくと、お金も、自由になる時間も、他者との関係も、

自分が「幸せ」を得る、感じるために、求めていることになる。

さらに言えば。

ここでは恋愛を例にして考えてみよう。

自分が何とも思っていない、好意も嫌悪も感じない人から好きと言われても、

うれしさは多少もらえるものの、それ以上ではない。

キライな人から好きと言われたら、うざったさ、嫌悪感、拒否感を感じるだろう。

自分が好意的に感じる人、あるいは惚れている人から「好き」と言われたら、

幸せなのである。

そこにまず、「自分が」という視点が入る。

相手以前に、先に自分ありき、なのである。

よく、○○してもらえたらいいのに、とか、○○できたら、してくれたら、私は幸せなのに。

という話を聞くが、その前提には「相手が自分にとってそういう立場の人だから」がくっついているのである。

さて。

自分に自分の意志があるように、自分が関わる相手にも、相手の意志がある。

そしてそれは、それぞれが「持っていていいもの」である。中身の是非はともかくとしてね。

ここまでは、わかると思う。

でも、関わる相手が、「自分にとって不都合」な行動をしたとき。

夫が服を脱ぎ散らかす、または子どもがおもちゃを「あとでまだ遊ぶから」と出しっぱなしする、でもいい。

それが「イヤ」だった場合、あなたは、心地よさを感じない。

せっかく毎日、苦労して整理整頓・掃除してるのは、誰だと思ってるのよ! と感じるかもしれない。

ところが。

とりあえず服を脱ぎ散らかすことを、夫は「悪い」と思っていないかもしれない。

だってどうせ洗濯するんだし。あとから洗濯カゴにまとめて放り込めばいいじゃない、と。

もっと価値観が違う人なら「洗濯するときに集めればいいじゃない」という人だっているだろう。

子どもだってそうかもしれない。最後に片付ければいいじゃない、と。

そう、「その状態が心地よくない」、幸せじゃないのは、あなた自身なのである。

ではその状況をどうするか。

「私が正しい! だから面倒くさいと思わず今すぐ片付けろ!」と主張しても、

「何で?」と返されるかもしれない。

「私はその状態だと、部屋を歩くときにモノを踏むのがイヤだし、

よけるのも、足元に気をつけなくちゃいけない。急いでいたら転ぶこともあると思うから、

そういう状態ではなくしてほしい」と説明する。

これなら選択肢が生じるので、相手にも考える余地が生まれるかもしれない。

もっと言ってしまえば、「私が心地よくないから、私が片付ける」という選択肢だってあるのだ。

まあでも、これをやると、いつまでたっても価値観の違いは埋まらず、

子どももお父さんの真似をして、将来、お嫁さんに嫌がられるかもしれない(笑)

ただ、そういう捉え方、何を良いと思えるか、幸せな状態だと感じるかは

個人差があるし、その差を埋める方法もいくつかあるし、

選択肢もいくつかあって「正しい」のはひとつではないのだ、と、理解してほしいのだ。

で、さっきも言った、「自分ありき」の視点で考えてみると。

相手が自分と同じ価値観で、同じように考えて行動してくれたら、それはもう、幸せだろう。

部屋の中がきちんと片付いている状況が好きな人なら、相手にそうしてほしいと思うだろう。

でも、それは決して、あなたが「正しい」からではない。

あなたがたまたま、「そう感じる」のだ。

そして部屋を散らかす相手のことを「手抜き」だの「面倒くさがり」だの、と、

決めつけたりするわけだ。相手には「手抜き」の範囲じゃないかもしれないのに。

相手に変わってほしいなら。

まず自分が「なぜそう感じるのか」を、捉えてみるといいと思う。

そこに横たわっている、あなたが「幸せ」だと思える価値観を。

夫は、のちほど、洗濯置き場の近くに行くときついでに持っていくけれど、

まずはスーツから解放されてホッと一息つく瞬間に、幸せを感じているかもしれない。

子どもは、やりかけた遊びを、少しノドが乾いたから、または飽きたから「休憩して」、

でもあとでもっとやり尽くせる、味わい尽くせるんだな、という「状況を保つ」こと自体に、

うれしさを感じているかもしれない。

そういう視点で見つめてみると、そこに「自分が何を幸せと思えるのか」という

自分の感じ方を捉える機会が生まれる。

さらに話し合う余地があるなら、相手と向き合って

「どうすればお互いが、より『幸せ』に近い状態で折り合えるか」という視点が生まれる。

双方にとっての「ベストな着地点」を、探すことも可能なのだ。

相手にばかり「変わってほしい」と願っているな、とか、

相手に「何かしてほしい」とばかり願っていると思えるなら、

自分が求めている「幸せな状況」を一度、見つめてほしいと思う。

自分が自分の価値観をとても大切にしていいように、

幸せを求めていいように、

相手も、相手の価値観を大切にしていいのだ、本当は。

それがどんなに「おかしい」と思えるものであってさえ、

相手がそれを幸せと感じるとき、

どこまで歩み寄るのか、を選択していいのだ。

価値観についてはもう少し語りたいのだが、長くなるのでその2に続く。

怒りや悲しみ、悔しさの記憶

人は、身体の調子が悪いと、気分がすぐれなくなる。

だるい、つらいと感じるのを、ワクワクして楽しむ人はいない。

そして、私たちは忘れてしまいがちだが、

人の記憶は、身体に反応を起こす。

実験してみよう。

梅干しや、櫛形に切ったレモンを思い浮かべてほしい。

そして、それを自分が口に入れて、噛むところを、想像する。

するとその瞬間、あなたは酸っぱさを思い出すだろう。

同時に、口の中には本当に、瞬時に唾液が増えるているはずである。

医学的にも、気持ちが穏やかで落ち着いて幸せなときは、

身体の免疫力も上がることが確かめられている。

先ほどの話に戻ろう。

身体の調子は、あなたの感情に左右される。

ということは、常につらい気持ちを抱えていると、身体の調子もおかしくなり、

それによってさらに、気分が落ち込むことになる。

記憶は、気分に密接に関係しているのだ。

レモンや梅干しを実際に口に入れなくても唾液が出るように、

身体を媒介にしてあなたは、自分のつらさを、自分の記憶によって

増減させているのだ。

ということはつまり。

過去につらいことがあり、それをリピートさせて思い浮かべるたび、

あなたの身体はストレスを感じ、身体のバランスも狂わせ、

わざわざさらに、気分を落ち込ませていることになる。

怒りや悲しみが、あなたを苦しませるのは、

感情だけの話ではない。身体をも苦しませ、

それゆえさらに気分は悪くなり、苦しみは増幅、持続してしまう。

では、その記憶をわざわざ引っ張り出し、

苦いアメ玉をなめるかのように、苦しみを選択しているのは、

いったい誰の意志、だろう? 

それは、あなたである。

例えば身近な、大切な誰かが亡くなったとき、

その悲しみを癒やす過程において人は、ある程度同じ思考をたどるという。

何度となくそれを思い出し、自分の責任不足や

相手の身勝手さ(置いていかれた、という意味で、ね)などにも

思いをはせながら、徐々に悲しみを手放し、癒やしていくのだ。

この心の動きは、心理学的に、グリーフワークと呼ばれている。

その人がいなくなった、という現実を受け入れ、

新しい環境になじんでいくための過程。

思い出しながら、徐々にその悲しみを手放し、

事実と現状を受け入れていくのだ。

同じように、怒りや苦しみも、やがては小さくさせ、

風化させることができる。

結局は、そこにとどまってはいられないということを、受け入れていくのである。

だが、誰かを恨んだり、憎しみを感じたり、

手に入らなかったものを後悔したり。

そういう負の感情は、なかなか、風化させられない場合もある。

なぜ風化させられないか。

自分以外のものに左右された、と、より強く思うからではないか、と

私には感じられる。怒りに、近いのでは、と。

悔しいから、癒やさずに生々しいまま、

自分のアメ玉にしてしまうのかもしれないのだ。

しかし。

生々しいままそれを記憶にとどめるのも、

それを「わざわざ取り出して」なめるのも、

あなたが選択している。

そんなことない、勝手に思い浮かんでしまうのだ、という反論も

あるかもしれないが、記憶は、間違いなく、風化させられる。

だって忘れていること、たくさんあるよね?

子どものときからのあらゆる記憶を、すべて鮮明に思い出せる人は、

そうそう、いないと思う。

いらないものは、忘れてるんだよ、実際に。

忘れられない、と決めているのも、

忘れたくない、と粘っているのも、

すべて、あなた自身なのだ。

だからあなたがそうしようと決めれば、

そのつらさを、手放し始めることはできる。

記憶の領域にあることなら、なおさら、それを選択できるのだ。

心理学の本を読むのもよし、変えるための実用書を読むのもよし。

人に話したり、専門家に頼ることもできる。

単純に思い出した瞬間、あ、やめよう、と、とりあえず

ストップをかけるのでもいい。

意志の力でアメ玉にしたものは、

意識的にまた、風化もしていけるのだ。

もう一度、言う。

わざわざ、つらい気持ちを思い出し、それにひたって、

身体に負荷をかけ、暗い気分をループさせているのはあなた自身。

もちろん、鬱という病で、頭の作動自体が調子を崩している人は、

そういう思考回路に陥りやすい。

そこへさらに、先々の不安も思い浮かべたりして、ね。

でも、病気のときに、どんなに元気にふるまおうとしても無理なように、

暗いことを思い浮かべつつ、明るく元気になることはできない。

先のことを考えても、さらにストレスで身体のバランスを崩してしまうだけだ。

過去も未来も、脳や身体の作動が狂っているときは、

考えても意味がないのである。

だって治ったら、そのときはきっと、違う思考をするだろうから。

そして、過去の苦しみを振り返るのをやめる、ということは、

今の現実を、受け入れる、ということでもある。

今の現実を受け入れるためには、

あなたが、今の自分を、受け入れなくてはいけない。

恨んだり、苦しんだりしている自分を、

ああ、そういう自分が今、いるんだな、と、

ただ、理由もなく、ゆるしてあげていいのだ。

たぶん、そこが一番最初の意志の働かせどころ、

やめると決められるポイントであるとさえ、私には思える。

どんな過去を経てきたとしても、この先はそれを繰り返さないよう、

注意していくことはできる。

あのひどい人は、あなたの記憶のなかにいるのだ。

万が一この先もそばにいるとしても、そんなことを言われないよう離れるか、

気にしないでいいんだ、この人は、自分の苦しみを投げつけているだけで、

それはこの人自身の問題で、

この人しか解決できないのだ、と、割り切っていい。

病も、今とは違う意識で、受け入れることはできる。

そこに実際

追伸~自分が嫌い、な人へ

バーカ

バーカ

おまえって本当に馬鹿だよ

気が利かない

○○できない

人を傷つけた

人から傷つけられたことだけ覚えてる

どうしようもないよな

おまえ、最低だよな

人間のクズだよ、クズ

……このような言葉を

他人から投げかけ続けられたら苦しい。

実際に、それをやられ続け

身体に支障が出てしまった方を

とてもつらい、悲しい話だが、

残念ながら私は知っている……。
 

その悪意が、どれほど人を傷つけるか

誰かから、言われたことを想像して、

感じてみてほしい。

でもね。

あなたは

あなた自身に対して

これを、やっているのだ、

今、まさに。

毎日? 何年? 十何年? 何十年?

否定して、非難して、

自分をわざわざ、傷つけて。

○○できたら、まだ、いいのに。

常に、達成条件をつけて。

これができたら、そのごほうびに、

ちょっとは自分を好きになってあげられるのに。

○○ができたら、愛してあげる。

まるでそんな、スパルタな親のようだよね。

他人から言われたら、傷つくと容易に判断できる悪意を、イジメを、

あなたはずっと、自分に対してやってる。

ひどいよね。客観視してごらんよ。

あなたは、あなたという、ひとりの人間を、

今までどれだけイジメて、罵倒してきたんだろう。

条件をつけて、さ。

まずは、自分に謝れ。

どれだけ、自分というひとりの人間を、

イジメ、罵倒し、傷つけてきたか。 

そこを、真摯な気持ちで冷静に振り返って、反省しろ。

あなたは、ひどいイジメを、ひとりの人間に、してきたのだ。

自分に、真剣に、謝れ。

まずはそこから始めてみてもいいと思うよ。