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自分を壊してまで

鬱という病気は 何らかの事情で自分が気持ち的に追い込まれたことによって起こる。

そのときにやらなくてはいけないと思ったことを「無理して」やったり

耐えなくちゃ、と思ったことを「我慢して」耐え続けた結果、

脳みそが不調になる病気である。

脳みそ以外にも、体調不良が出ることもある。

胃潰瘍もそうだし、円形脱毛症、その他、原因のわからない不調。

気持ちが暗いということが医師に伝わると、その原因不明の病気は

「自律神経失調症」だの「突発性○○○○」だのという病名をつけられることになる。

そのとき 自分は何を耐えたのか、無理をしたのか、我慢したのか。

それについてはだいたい、思い当たるだろう。

大きな出来事がひとつ、かもしれないし、小さな出来事を何年にもわたって積み重ねた結果かもしれない。

悪いことによって起こるとも限らない。昇進、結婚、家の購入などによっても起こる。

では、それを「耐える」という形にした、自分の価値観とは、どんなものなのだろう。

たとえば私の場合は「立派にやりとげなくちゃいけない」だった。

やるからには「立派に」の肩書きをつけられるものに仕上げなくては「いけなかった」。

「人として」そうあるべき、と思っていたし、それこそが自分の存在意義だとさえ思っていた。

でも、自分を壊してまで、守らなくちゃいけない価値観、ってなんだろう。

幸せに生きるために仕事をしていたはずが、自分を追い込み、苦しめている。

全然、幸せじゃないのだ。

これって、何なのだろう。私は何を「間違った」のだろう。

そこから、私の、心理学等、自分を探る試行錯誤が始まった。

気づいたことは、私の場合、「正しい」に縛られていたこと。

人としてこうあるべき、こうでなくてはいけない、こうするのは「間違っている」と強く自分を戒めていた。

もっと言えば、私は放っておくと手を抜いてサボってしまう「どうしようもない」人間だから

常に常に、自分を戒めておかなくちゃいけない……という方向へ、自分を追い詰めていた。

自分を信用していなかったし、根本的にはだらしのない悪い人間だと、決めつけていたのだ。

でも「正しい」「正しくない」、という判断を「自分に」課し始めると、実はきりがない。

それを突き詰めていくと、「正しいことしかやってはいけない」人間になる。

当然、他者に対しても、その評価を下しがちになる。

しかもその「正しい」「正しくない」はあくまで自分の価値観に基づいているので、

ほかの価値観を「間違っている」と言ってしまうことになる。

そこまで気づいたとき、いったい、自分は何様なんだ、と思ってがく然とした。

手を抜くことをよし、としないのは、果たして「間違っている」のか。

何らかの理由で、たとえばとても痛い事件があって気落ちして、手を抜く……というより

やる気が出ないこと。それすらも、私は戒めていた。

一見、立派なことかもしれないけれど、それによって自分の首を自分で締めていた。

痛んで、やれなくなればなるほど、叱咤激励ではなくなって、「叱咤」の連続になっていた。

当然、他の人にも、そういう態度で接していたことだろう……。

これは、さすがに、おかしい。

行き過ぎだ。

じゃあ、なんで私は、そんな「行き過ぎ」にまで、自分を持って行ったのだろう。

なぜ心が折れるまで、私は、自分を叱咤し続けたのだろう。

そうやって行き着いたのが「正しい、正しくない」だけで判断していては、私は壊れる、ということだった。

そもそも、人にはいろいろな価値観があり、それらのうちどれかひとつだけが「正しく」て、

あとは全部「間違っている」なんてことは、そうそうあり得ない。

でも、自分を追い込めば追い込むほど、私はそういう方向へ自分を導いてしまった。

苦しいからこそ、視野がどんどん狭くなっていって、余計に追い込みが激しくなる、という悪循環だった。

だから私はまず「正しい」「正しくない」という考え方そのものを、いったん、やめてみようと思った。

許容できる範囲のもの、どういう状態なら「私でも受け容れられるのか」を本や、人に話などで探していった。

そうしていくうちに、「人には、そうなった背景というものがあるのだ」ということを知り、

それを知るとなおさら「正しい」「正しくない」と、その場の出来事だけで判断することができなくなり、

人にはその人なりの「事情」が必ず隠されているのだ、ということを、理解していくことになった。

もちろん、自分に対しても、そういう目で探っていくようになった。

そして、たとえば人に対して「なぜそんなことを?」という疑問が湧いたときにも、どこまでそれを追求するのか、

その人の事情をどこまで知るべきなのか、そもそもこの場合、知る必要があるのか……という視点で、

見つめられるようになったのだ。

さらには「自分がこれをそう感じるのは、どうしてだろう」という、遠くからの自分目線も。

今までは「それについては、私はこう思う」というその場での感覚しかなかったから、これは新しい発見だった。

そして、他人の問題は他人の問題で、私が「この場で今すぐどうこうしてあげなくちゃいけない」

類のものではなくなり(つまり即、反論したり、同意したりするのではなく)、自分の価値観をも、

見つめ直す機会にしていこう、と思えるようになったことで、実際に振り回されることも減った。

どう考えてみても、自分を壊すほどの価値観に「正しい」からとしがみつくことが、

私にとっては、おかしいこと、だったから。そこから、そんなふうなものの見方が広がった。

そうして、その人の価値観、というものを推測し、「この人は、そうなのか」と思えるようになり始めたとき

(ときにはそれが、私の勝手な想像だけだったりするかもしれないが)、

自分もまた、「~であるべき」から少し、離れられるようになっていたのだ。

他人のふり見て我がふり直せ、ではないけれど、「何かを感じる自分」が、それが共感でも反感でも

表れたときは、自分が何を大事にしているのか、何をもってそう判断しているのか、を感じるチャンスになりうる。

そうして、自分を狂わせていたものの正体が、少しずつあらわになって、それがあらわになれば、

そんなことはもうしなくていいな、というふうに自分をゆるせるようにもなったりして、

少しずつ、全体的に自分が「ゆるんでいった」のだった。

結果としてそれが、私が鬱から脱しいていくことにつながった。

正しい、正しくない、だけでは、物事ははかれない。

自分を壊してまで、しがみつかなくてはいけないものなどない。

それが自分にとって、どんなに「正しい」と思えるものであっても。

それによって壊れてしまうのであれば、やはり、自分にとってはよくないものなんだと。

自分の経験を抽象的に書いてしまったけれど、つまりはどれほど自分が視野が狭くなっていたか、

自分を縛っていたか、何らかの気持ち、価値観にしがみついていたか、を、

私は自分の気持ちと身体を壊すまで気づけなかった。

そういうお馬鹿な人間の、自分に対する試行錯誤の一例であると思っていただければ幸いだ。

「責める」という感情

自分であれ 他人であれ 責めることは 何もよいものは生み出さない

ひたすら 自分を苦しくさせるだけである

黒い気持ちを感じ続けることは 単純に 人を疲弊させるから

黒い気持ちの自分 そのこと自体で 自分をまた 嫌になるから

責めたい気持ちが 湧くのは仕方ない

その感情を「持たない」ようにするには 相当の鍛練が 人には必要で

たとえばあなただけが悪いから そんなふうに感じるわけではない

怒り 腹立たしさ 情けなさ

その感情は 人として普通に湧くものである

ただ 鬱々とした気分のときには

の感情にとらわれ 自分をど真ん中に置いてしまいがちになるため

その黒さをもろに感じて よけいにいたたまれなくなるのだ

だからなおのこと 苦しくなる

その「責める」感情は 何らかのことが今 または過去に起こって

自分を 相手を そのように「受け止めた」ときに湧く

過去のことであれば そのときの感情を ふたたび思い出すほど

あなたにとって つらい経験だったということだろう

でも ど真ん中にいたままでは あなたが 苦しいだけだ

相手が悪い 自分が悪い そうやって 感情の渦に巻き込まれ続けても

何も変わらないから

そのことで さらに 落ち込んでしまうから

ねえ じゃあ こういうふうにはできないだろうか

自分はなぜ そういう受け止め方をしてしまうのだろう

なぜ そう考えてしまうのだろう と 見つめてみるのである

なぜ を考えはじめると 過去の似たような経験に 思い当たるかもしれない

あるいはそのときの自分が もともと憂鬱な気分だったな とか

周囲に目を向けられる状況じゃなかったな とか

いろいろなことを「可能性として」 思うことになる

それが本当の原因かどうか まずは別にして

自分の状態を 考えてみるのだ

他人に対する責めの感情でも その相手が どういう状況かを 考えてみると

相手が つらい状態だったり 実は自分の不満を 人に転嫁していたり

もしかして 何かが怖いから 人を攻撃していたのかもしれない

自分ではどうしようもない感情を他人にぶつけることは

幼い と思えるだろうけれど

悲しいかな その人は そのときそれしかできなかったのである

それを選択したのは 相手の何らかの事情による

もしかして幼少のころ 他人に痛い目に遭わされ続け

その人もまたそういう「受け止め方」しかできなかくなっているのかもしれない

別に同情しろと 言っているわけではない

そういうわからないものに対して あなただけが正しい と叫べるとは限らない ということだ

あなたにはあなたの背景があるように 相手には相手の背景があるのだから

そしてまた あなたの常識は 世の中でのひとつの選択肢であり

あなたもそのときたまたま それ以外の選択をしなかったのだ

では さらに 自分にはどんな選択肢があったか なぜそれを選んだのか

相手の問題にまで踏み込む必要はない 相手の問題は相手のことだから仕方ない

今は あなたの選択について考えてみたときに

それを選んだ理由から ひとつの価値観や 判断基準や 自分の受け止め方 世の中の見方がわかってくる

そうやって 自分というものを 冷静に捉えられれば

相手や自分を責めるだけの感情からも 少し 離れることができるのだ

どうしようもない 自分の「クセ」のようなものに気づいて

またそこで新たに 落ち込むかもしれないけれど

それをまた「なぜ」そうなのか と考えてみることで

自分が自分をどう捉えているかも 見えてくる

責める というのは 必ずどこかに「非がある」と感じているわけだから

それを「なぜ」と見つめてみたとき

最終的には 自分を発見することにつなげられる

掘り下げていけばいくほど だんだんと 仕方ない と思えることも 多いし

変えられる部分だって 見つかるかもしれないのだ

自分が何を 責める材料 つまり「非」と捉えているのか

そこには自分の どんな経験や受け止め方 考え方が隠れているのか

責める気持ちが生まれたときを幸いと思い

ぜひ一度 見つめ直してみてほしい

それでも がんばらないで

がんばろう という言葉を思い浮かべると 冷静さをなくす

気合いを入れて集中するのだと 自分に言い聞かせることになる

その気合いも集中も 無理な病気だからこそ

あなたは今 がんばれない のだ

なんとか こなさなくちゃいけないことが あるとする

では なんとかこなす だけでいい

気合いも入れず 集中もせず 平常心のまま 淡々と

ただ そのかわり なるべく心をこめて 丁寧にやる

決して 力んではいけない それを断言できるほど この病に「がんばる」は難しい

その結果が 成功 ではなかったとする 平凡なままだったとする それがどうしたというのだ

病気のあなたが 丁寧に 静かに 心をこめてできたなら それで十分だ

その結果が 失敗 と思えるものだったとする だって仕方ないじゃないか あなたは今 病の最中なのだ

その割り切りができないのは 恥をかきたくないから?

ダメなヤツと 認定されたくないから?

あなたが鬱だということを知らない人には 結局 がんばりが続かない人にしか 見えないのに?

がんばるときと ぼ~っとするときの差が 激しい人にしか 見えないのに?

そっちのほうが よほど「不思議な人」に思われて 恥ずかしくないだろうか?

それよりも 淡々と丁寧に 平凡でも作業する人のほうが ましだと思わないだろうか?

恥をかく ダメだと思われたくない そもそも それゆえに

あなたはこれまで 自分を追い込んできて いまやもう 嫌っているのではないか?

周囲の評価を気にするあまり 自分で自分をすでに 貶めてきたのではないか?

その気持ちを 厳しい人なら 見栄っ張り とさえ 評するだろう

ごめんね まさに私がそうだったから もしかしたらいまだに それは残っているかもしれないから

この件については はっきりと言います

いつも がんばりたがる人は それで苦しくなった人は

今日から がんばるのをあきらめてください あなたは今 がんばってはいけない状態です と

見栄を張るのをやめ 自分の状態を 取り繕うのをやめ 病を認め

がんばるかわりに 静かに丁寧に 心をこめて 行動し 人に接し

作業自体は やれると思える範囲のことだけにとどめて

少しくらいなら楽しめる そんな範囲のことだけに とどめて でも集中はしないで

それ以外は 自分の病を治すことのほうに 専念してください

この病を治すほうが 先なのです

病になろうとも 自分を偽り 他人もごまかし 取り繕って 生きていくことが 大切ではないのです

どうか どうか 割り切ってください

それが 自分の今の状態を 明るい方向へ変えていく 一番の 早道につながるのです

痛いほど それが怖い気持ちはわかるけれど

それでも私は 言います

どうか 今はがんばらないで と