木元見春 のすべての投稿

自分を追い詰めるとき

脳みその具合がおかしくなって その具合の悪さが進行しているときは

とにかく 自分がイヤで でも動けなくて どうしようもなくて

こんなの どうしたらいいんだ と 真っ暗になる

でも それが脳みそのせいだとは思えなくて 自分は 自分でいろいろ考えていて

全部ダメだから どうしていいか わからなくなる

でもね それは 大きなケガをして出血している最中に

「どうして血が止まらないの 私って なんてダメなの」と言っているのと同じなのだ

病ゆえに そうなっているのに 自分を責めたら 果たして 出血は 止まるだろうか?

怒りなどで血流が早くなって よけいに血が流れないだろうか?

だからこそ 安静 という言葉の意味を 知ってほしいのだ

ただ じっとしているのではない あなたの頭の中の 悲惨な思考を 止める必要がある

出血と違って 「頭で考えること」は 自分で止めることができるから

あなたが悪いのは 受け止め方により 自分を追い込んでしまう「クセ」がついていること

「クセ」によって 自分を苦しめているのだということ その部分だけである

その「クセ」は 自分で治していけるし そのために必要なサポートも 受けられる

でも 出血真っ最中の まさにその瞬間は いくらいろいろ考えようとしても 無理な話で

まずはその流れを 静かに いったん 止めていかなくてはいけないのだ

止められるようになって ただやみくもに 自分を否定することがなくなって

少しは起きていられるようになって 少しは動けるようになってきたときに

やっと ちょっとずつ 自分を苦しめる「思考のクセ」について 考えてみることができる

頭の中からは何回も 悪い思考が流れ出すだろう

日によっては何度でも 悪い思考が 出血したように流れ出して止まらない

これは 鬱という病が「波」という性質を持つから

止まった と思っても また始まることがあるのだ

波が起こるのは 頭のなかの いろいろなホルモンなどのバランスが狂っているせいで

あなたがいけないわけではない それはもう 病の症状として仕方ないこと

そう あなたはそういう病気の「病人」なのだ そこをまず わかってほしい

自分を責め続けたところで 事態は変わらず 悪い思考は止まらず やがて ぐったりするだろう

責めることで 病を 自分でさらに悪化させているから 出血をさらに ひどくさせるから

ぐったりするのは 当たり前なのだ

それを忘れるために ODやリスカをしたくなる あるいは酒に逃げたり ドラッグに逃げたり

いずれにせよ あなたは逃げられない 波はやがてまた 深くなるだろう

寝る 身体を温かくする ゆっくり呼吸する 風を感じる ほっとひと息つく

思考の流血を止め そうやって 自分をゆるめ 責めるのは「病」だと納得し

すべてが悪いわけではないことを 自分に認めてあげること

あなたを苦しめ続けるのは 周囲の状況だけではない

あなたが あなたを一番 苦しめているのだと 追い詰めているのだということを 知ってほしい

自分で自分を追い詰めると 24時間 365日

きりがなく 自分をいじめ続けることになることを 知ってほしい

そして そんな思考を止めてほしい 理由はなくても 強制的でも 今は納得できなくても

とにかく 追い詰めるのをまず やめることが その病にはとてもとても 大切だから

どうか 自分を これ以上 いじめないで

そんなことをしなくても あなたは今 もう十分 苦しんでいるのだから

反発、も、また。

昨日の話で、力にしてくださる方には、それがすでに備わっている、と書いた。

これは「良い」方向だけの話に限らない。

「なんだよ、それ、違うよ!」と感じられる方も、同じなのだ。

ただ、それがストレートに表れないだけで、気づきのヒントになる、

その力をすでに持っているという部分では同じ。

なので反発や違和感や心苦しさや、そういう、何らかの「心の動き」を感じられた場合には、

それを少し離れた位置から、冷静に見つめてみてほしい。

「どうしてこれに、納得できないんだろう?」と。

そこに、あなたが大事にしている価値観や、逆に、小さい頃に教わり固めてしまったガチガチの思い込みや、

経験で痛い目に遭い、「もう無理」と思い込んでしまった決めつけが、見つかるかもしれないのだ。

「人は自分の鏡」という、仏教の説話のような話は、そうやって使うと、

結構な確率で「重要なメッセージ」として役立つ。

何かが引っかかった、マイナス方向であっても心が動いた、ということは、

そこに「あなたの持っている何か」が、潜んでいるのだ。

たとえば、自分にイヤなことをしてくる相手、そのイヤなことの内容が

実は昔、自分もやってしまって後悔したことがある……ようなものだったり、

逆に昔、それですごくつらい目に遭って、そのときどう対処したらいいかわからなかったため、

もう自分のなかで「怖いもの」になってしまっていて、

今なら上手に対処できるのに、反射的にいきなり反発してしまう、見たくなくなってしまう、とか。

犬に噛まれたことがある人が、大人になってからも小さい犬でさえ苦手なのと、少し似ているかもしれない。

イヤだから、怖いから……。そういう、思い込みや決めつけのようなものが、潜んでいるわけである。

で、「そういうもの」に気づいたら、「じゃあ、本当にそうなの?」と、自分にまた、静かに問いかけてほしい。

すると、今はもう少し、自分だってだいじょうぶになっているのでは? とか、

それって実は、こういう別の見方もできるのでは? など、

そこにフッと、何かしらの「思い」が湧いてくることがあるのだ。

そうしたら、あなたの中の「思い込みの固まり」が少し、ほどけることになる。

ただし、『イヤだ』という感情に強く支配されていると、こうしたこともうまく浮かんでこないので、

少し時間が経ってから、とか、自分が落ち着いて見つめられるときにやってほしい。

さらに同様に、これは、イヤなことを言ったその本人に対しても、使うことができる。

何かを断定し、こういうときはこういうものだ、と押しつけてくる人は、

それによって「自分を相手に認めてほしい」ことも多い。

相手から「そうだね」「すごいね」と同意・尊敬・感謝をしてほしいのだ。

それは裏を返せば、他人から認めてもらうことによって、やっと自分を認められる、

自分で自分のことを認められていない、許せていない、愛せていない人、なのかもしれない。

これが行き過ぎになると、たとえば「強引」につながったりする。

常に自分の言うことに従ってればいいんだ、それが正しい、間違わないんだ、というパターン。

その人はそうやって、なんとか自分の価値を、自分で保とうとしているかもしれないのだ。

そしてこれは、こういうことを書いている私にもまた、当てはまりうる話。

なので、私は極力「私はこう考える」という、自分の意見としてのニュアンスを残すように心がけている。

それが一番正しいのだ、とか、世間一般はこうだ、という感じの決めつけにならないように……。

とはいえ、もし、そう感じることがあったら、ぜひ、メッセージやコメントなどでご指摘くださいm(_ _)m

それはまた、私の学びになるのです……。

自分の力

私が、ブログという場所を使い、私の思っていることを書く。

自分の体験や、そのとき感じたこと、気づいたこと、

あとから知ったこと、本などで学んだこと、いろいろな情報……。

それは、私が掴んだ、ある意味、私が勝手に解釈したことでもある。

そして、私はそのことを表現したくて、文章にする。

確かに、文章にして、ブログという場所に載せるのは、

私が決め、私が起こした行動ではあるけれど、

それは私のひとり語り、言い方によってはただの自己表現、である。

それをたまたま読んでくださった方が、

もし、何かを感じてくれたら。

良きにつけ、悪きにつけ、それはあなた自身の力なのだ。

私は「自分が生きて、今、ここにあること」の不思議さ、

その過程で、あらゆる出来事から教えてもらったこと、

それらへの感謝、生かせていただいている恩返しとして、語りかける。

もし、それが、誰かの心に届き、何らかの力になるのであれば、

それは、私を助け、支えてくれたあらゆる出来事、

あらゆる人のおかげであり、私は自分が受け取らせていただいたご恩を

少しでも役に立たせることができた、と感じられるのだ。

だから、私は受け取ってくださり、ご自身の力で良きものとして

解釈してくださる方に、心から感謝する。

私は、あなたのその、すばらしい力のおかげで、

私を今まで支え、生かしてくれたすべてへの、ご恩返しができるのだから。

私の言葉は、言葉でしかない。

それを使って、何かを感じ、前向きに解釈して

使ってみようとしてくださるのは、すでにあなた自身に備わっていた力。

その力に触れさせていただけたことを、

そうであったと教えていただけたことを、

心から、感謝します。

すばらしいのは、あなた自身がすでに備えておられた、その力。

私は、それを見つけるきっかけとなれたご縁に、感謝します。

そう、何よりもまず、あなたが、すばらしいのです。

いつも、本当に、ありがとうございます。